後編・夜桜、散る
大引けの鐘が鳴る頃、桔梗楼に悲鳴が上がった。
棒引きの金棒をジャラジャラ派手に鳴らし、男衆がおテツの足元に転がってきた。
「ひ、人が死んでる!」
おテツはすぐに彦左衛門を呼んだ。
お蜀と枕を並べている間も同じ部屋にいるほど彦左衛門も野暮ではない。宴が終われば用無しで、さっさと帰れと言われた後のことである。
別室で仕事終わりの美しい小春に酌をしてもらい、夜を楽しんでいたところである。膝枕でウトウトしていた彦左衛門も飛び起きた。
八重の本部屋は血の海で、部屋の真ん中で朝倉が刺されていた。傍には鼈甲の簪が血にまみれて落ちている。八重は毒を飲み、血を吐いていた。
「お蜀が……」
彦左衛門は眉間に皺を寄せ、ため息をついた。この手の類は、たまにある。
小春は八重の乱れ髪をそっと直す。
――男百人、尻に敷き、頂点に立つ。そう言っていたのに。
悲しくはあるが、来世で結ばれることを願うのみである。
「八重さん」
苦しかったろう。
辛かったろう。
小春は懐紙で八重の口を拭く。最期まで若く美しくありたいのはすべての女が願うところ。
浮気を繰り返す朝倉に、八重の添い遂げたい想い。
――どうしてか。恋はうまくいかない。
その時懐紙が僅かに揺れた。
「! まだ息がある。すぐにお匙を」
その声に八重が目をあけた。
「いらないよ。どうせあちきはお終いだ。朝倉さまがいなきゃ大門くぐれない」
上り詰めた故の先の見えない悲しさがある。
「何言ってんだい。あんたなら、余裕で大門くぐれる!」
小春は八重を抱きしめた。
「約束。生きて出よう?」
彦左衛門は立ち上がり、押入れを開けた。人の気配を感じた。小さくもギラギラした瞳で睨み返してくる。
「子供?」
暗いところで小さく丸くなって、こちらをずっと見ている。小春は驚きつつ駆け寄った。帰らせたはずの雲雀である。
両肩を手をそえて、小春は雲雀を見た。よもや信じられないことだが、雲雀に何かあったのだろう。
「三人で帰りなさいって、私言ったわよね?」
小春の声は静かだが厳しい。
「スミマセン。でも宴の後おテツさんに呼ばれて、この部屋に通されました」
――また、おテツったら!
「ここはお蜀の本部屋よ? 子供の来るところではないわ」
雲雀を責めるには幼すぎる。小春の許可なしに部屋に通したおテツに責がある。
今日の彦左衛門は不愛想で、雑な態度であった。ぶっきらぼうに言った。
「それで、見たのか?」
雲雀はしっかり頷いた。
「すでにお部屋には朝倉さまが1人でお待ちでした。たくさんお酒を飲まれていて、人が変わったように乱暴で……恐ろしかった……あの方は虎のように強く、蛇のようにしつこいお方です。もう逃げられないと思いました」
彦左衛門はあまり聞いていないのか、困った顔をしている。
「ふうん。それで?」
「すぐにお蜀が来て、鬼のように怒って……朝倉さまを刺したのでございます。私も殺されると思い、押入れに逃げ込みました。しばらくして、静かなので覗いてみると、お蜀が毒を飲んで倒れていました」
小春は雲雀を抱きしめた。
「なんて酷い」
彦左衛門は繰り返す。
「雲雀と朝倉が一緒にいるところを見て、お蜀が怒り、朝倉を刺した。そのあと毒を飲んだ。それで間違いないか?」
「はい。間違いありません」
連れて帰ろうとする小春の正面に彦左衛門が立ち、道を塞いだ。
「彦さま?」
いつもの優しい彦左衛門の瞳ではない。
「まだ終わってねぇ」
小春は雲雀を抱いたまま、座らされた。
「お蜀が毒を飲んで、静かになったのなら、なんで隠れた」
「--え?」
雲雀はしばらく彦左衛門の言葉を理解できなかった。
「襲われるような危ない大人はもういない。朝倉は死に、お蜀も倒れている。そのまま朝まで、誰も気づかない可能性もあった。けれどお蜀にはまだ息があった。
だから助けようと思って悲鳴をあげたのだろう? それを聞いた棒引きの男衆が部屋を開けて、この状況を発見したわけだ。
どちらも死んでいたなら、こっそり桔梗桜から逃げるという手段もあったはず。わざわざ事件の現場、こんな小さな押入れに隠れて、どういうつもりだ?」
「……」
彦左衛門続けた。
「案外、人が早く来ちまって、逃げる時間がなかったんだろう? 何も見なかったことにして、押入れに隠れれば不幸な少女を演じられる。違うか?--演じるのは得意だよな。
雲雀は座敷のあいだ、ずっと朝倉を見ていたな。恋もしらない子供のくせに、狙いをつけていたなぁ」
「彦さま。それは仕事の上で……」
小春がそう教えて、雲雀はそれを忠実に守ったのだ。
「虎のように強く、蛇のようにしつこい。
――そのような物言い、よほど冷静でなければできぬと思うのだ。普通の子であれば泣き、震えている」
彦左衛門は雲雀を見据えていた。追求には容赦がない。
「どうせ初対面ではないんだろう?」
小春の雲雀を結ぶ手が緩んだ。
「男には何度も刺された跡がある。相当な恨みがあり、どうしても殺すつもりでいる。
持ってみると簪は意外に細いんだ。滑るし、何枚も来た着物の上からじゃ、なかなか刺さるもんじゃねぇ。普通はケガする程度で、それぐらいでは死なん。
最初の一撃で、よほど急所を狙ってなきゃ、こういうことにはならない。
それにな、八重の鼈甲の簪は、今のところ髪に全部刺さっている。殺しに使ったのは、部屋にあった予備だ。
部屋にあるなら、誰だって朝倉を刺せる。
お蜀が咄嗟に刺そうと思ったなら、身につけている簪を抜くのが自然じゃないかね。そして狙いすました急所ではなく、もっと刺しやすい場所を選ぶだろう」
小春は訴える
「でもお蜀が刺したようにみえます」
「確かに。掌にべったり血が付いていた。でも一度手に血が付けば尚更滑って刺さらん。何回も刺すには手と簪をくっつけたりして、それなりの準備がいる」
「――こういうようにな」
彦左衛門は雲雀の手首を握り、高く掲げた。
「訳を説明してもらいたいところだ」
小春は首を振った。
「彦さま、綺麗な手です。放してあげてください」
雲雀は俯いたままだ。
「手ではない。腕だ」
細い腕の肘から下は綺麗だが、肘から上腕部にかけて、拭ききれずに赤く汚れている。
「袖が邪魔で捲ったから腕に血が付いたんだよな? それにな、おかしいだろ。朝倉とお蜀がもめて殺し合いになったらなら、近くにいたお前は何も被害を受けなかったのか? 髪も乱れず、返り血もない。それで朝倉に狙われた説明ができるのか?」
「雲雀はそんな恐ろしいことはできません!」
小春の言葉に、雲雀は首を横に振る。
「私、そんな子よ」
雲雀は彦左衛門をじっと見ていた。
「お爺さん、けっこうやるわね」
「お爺……!」
彦左衛門は否定できない。
「まさか腕まで見られるとは思わなかった。確かに刺しました。だって朝倉は親の仇だもの」
小春は両手で顔を伏せた。
「――やめて。雲雀。嘘だと言ってちょうだい」
「前の店では下働きして、料理の中に毒を仕込んだの。でも朝倉だけを狙うのは難しくて。朝倉に会うには舞妓になる必要があったの。
小春姐さんなら、顔も広いし、吉原にだって通える。ちょうど良かったんです」
小春は絶句して、首を横に振った。
「お稽古楽しそうにしてたじゃない? 一人前の芸妓になるのが夢だったでしょ?」
雲雀は皮肉な笑みを浮かべた。
「そんな夢も見たなぁ。だって楽しかったもん。踊るのは好きだった。だけど男の人は嫌い。お金で買われている姐さんたちを見ると、本当に嫌になる。
お金を持っている人たちはみんな嫌い。
騙されて、すごく苦労して。朝倉に会わなかったら、うちの親は死なずに済んだのよ!
――のうのうと遊んでる朝倉を許せなかった。
今日の宴で朝倉が遊んだ銭は父上と母上が必死に返したものじゃないか!」
小春は雲雀を抱きしめた。
世の中の不条理に抗い、抗い続けて、ついに人を殺した。こんなに小さいのに! まだ未来があったというのに!
「ごめんなさい。小春姐さん。
裏切りのは辛かったけれど、宴が終わっておテツさんが声をかけてくださった時、今しかないと覚悟した。
部屋で準備して、押し入れに隠れて待ち伏せしたの。それで部屋に入ってきた時に、隙をみて刺しました。でも後悔はしていません。
だけど……たまらない。なんでこんな男をお蜀は……。
お蜀はいい人です。こんな私を庇ってくださった」
「庇った?」
「簪を握って、冷たくなっていく朝倉の上で毒を飲んだ。償いに私の罪をかぶるって。一緒に死ぬって。本当に好きだからって。
私は許せなかった。冥土にまでお蜀を連れていこうとするなんて、朝倉は酷すぎる。お蜀も私なんかを庇って死ぬことなんてないのに!」
雲雀は朝倉を一瞥した。
「男なんて、大っ嫌い!」
彦左衛門はそっと雲雀を手元へ寄せた。
「番所にいこうか」
そして朱塗りの廊下を歩いていく。
雲雀は中庭で一度足を止めた。
「夜桜、きれい」
宴の終り、庭寂びし
闇夜の桜、いと怪し
恨み散らし、花も散る。
おテツは遣り手部屋で、煙草を吸った。
雲雀のことを思うと、首を傾げる。
「いい子だったのに。どうして桜は人を狂わすんだろうねぇ」
狂気を招くは桜か、それとも人か。
八重は命を取り留めたが、抜け殻のようになり、人気は下がっていった。しばらくして下位の楼に移された。その後の行方はしらないが、目黒で似た女を見かけたとの噂もある。




