前編・夜桜、咲く
満開の吉原桜。闇に狂い咲き。
歳老いたおテツの手が、色香の漂う小春の肩を叩いた。
「夜桜で花見の宴?」
「桔梗楼の狂い咲きの桜、見ただろ。あの木の下で一席設けようって話になった。そこでお囃子をお願いしようと思ってね」
桔梗楼を仕切る遣り手のおテツ。
盛りを過ぎた女の迫力きたら、男もたじろぐ。
「どちらの旦那さまですの?」
「両替商の朝倉さまだ。八重を贔屓にしている」
――え? だって八重さんは私のこと……
桔梗桜の今のお蜀、八重には嫌われている。そう思っていたから意外だった。八重が念願だった初めてのお蜀の座。それを寸前で奪ってしまったことがある。
恨まれてもしかたのないことだと思っていた。あれから数ヶ月が経っているが、それまで二人が顔を会わせることなどなかった。
「どうしても鬼子母天神に会いたいそうだよ」
小春は小さくため息を漏らしても、色香が匂う女だ。
“幻の花魁”伝説はまだ世間に飛び交っているらしい。人の噂も七十五日。小春としては一日でも早く忘れてもらいたいものだ。
「また冗談を――私はただの芸妓です」
恒例の返事がくるのは分かっているのに、おテツは不承不承な受け入れようだ。かえって妖しい。
「だったらさ、代わりに例の舞妓衆と一緒にお囃子やっとくれよ」
小春もピンと来た。そちらが本題か。
例の舞妓衆とは、小春が面倒を見ている新進の舞妓三人である。浅ましく笑うおテツに小春の表情が曇る。
「困りますよ? あの娘たちはまだ男女の浅ましさを知らないんですから。吉原は、まだちょっと」
「だってお蜀の言いつけなんだよ? ――まぁ朝倉さまの言葉がお蜀の言葉になっちまうんだけどね。桔梗楼も、少しはお蜀の我侭に付合わないとねぇ……」
おテツのため息も作戦のうちか?
「桔梗楼も大変ね」
小春は冷や汗ものでおテツを慰める。
「そうだよ。誰かさんが散々かき回しておいて、アッサリやめちまうからさ。八重だって、アンタにお蜀を取られたんだから、気分良くないさ。なのに丁寧に役人までつけてくれっていうんだよ」
「役人?」
「小久保彦左衛門をご指名だ」
小春の頬が見る間に一瞬桜色に染まったが、すぐに白くなった。何かが起きているからこその役人の出番だ。
「なぜですの?」
「朝倉さま、前に他の店で毒を盛られたそうだ。幸い軽かったからいいけど。護衛を兼ねての同席さ。代わりに毒喰らって死んじまわないといいんだけどねぇ。一介の役人が権力のある金持ちに勝てるかどうか……」
小久保彦左衛門の名がでれば、小春は必ず動く。おテツには分かっているが、本人はあまり気付いていない。
――ふふん。可愛いもんだ。
小春が小久保を遊廓の中に入れたくないのは、小娘の嫉妬に他ならない。おそらく他の女郎に取られてしまうような不安を感じているのだろう。
それがおテツにはおもしろく、使える最良の手である。
「気にかかるだろ? 例の舞妓たちが心配なら、あんたがちゃんと見張ればいいことだよ。お囃子頼んだよ」
「承知しました」
「あと朝倉さまは気をつけなよ。浮いた話には、事欠かない殿方だ」
三味線、鼓、太鼓の音。
桜吹雪に狂喜の乱舞。
夫婦を誓った盃、
桜のひとひら、揺れ動く。
時惜しみ、
夜も散りゆく桜の儚さよ。
宴の夜が来た。
桜の木の下に血のような紅の敷物。大皿盛りの膳と交わされる盃に桜吹雪。
ひらり、ひらり。舞う花びらと三人の舞妓。
子雀(コスス゛メ)、雲雀(ヒハ゛リ)、山雀(ヤマカ゛ラ)。 二十歳前の芸妓を舞妓と呼ぶが、三人は十をやっと越えた成り立ての舞妓だ。
「小さき者は愛いのぉ……」
朝倉の趣味で幼い舞妓が選ばれた。これが彼の悪い癖である。
「朝倉さま、酒を」
「八重、あの舞妓がいいと思わぬか?」
「は?」
「今宵の宴の相手じゃ――名は?」
八重は不機嫌に答えた。
「つれないことを。あちきを差し置いて……。あれは雲雀にございます」
雲雀は常に朝倉から視線を離さず踊っていた。
初恋にも似た熱い眼差し。
早熟さが危うい印象を与え、男の心をくすぐったのだろう。
朝倉は笑って八重の膨らませた頬を突いた。
「桔梗のお蜀に餅でも焼いてもらいたいんじゃ。まぁ、若さとは良いものだが」
朝倉の眼は狡猾だ。
小春は引き締まる顔で睨んだ。宴の最中ではどうすることもできないが、確実に狙われているとみた。
雲雀は三人の中でも特に優秀な娘だ。才能は豊かで、どこか大人びている。故に男の誘いも多いが、まだ将来のある身だ。悪い客はなるべく遠ざけたい。
小春が物影から少し出た。端座し深く頭を下げた。
「せっかくのお誘いではございますが、雲雀はまだ半端者にございますゆえ……」
急きょ口をはさんだ芸子に、朝倉は不機嫌になった。
「おや、小春ではないか。最近見ぬと思うたら、歳をとったのう? わしは客ぞ」
「滅相もございません。ただ、舞う以外は教えておりませんので。お酒などのお相手などさせては、幻滅させてしまいます」
八重もこの時ばかりは小春に賛同した。
「朝倉さま」
八重は粉をふいた干し柿を摘んだ。砂糖の流通が少ない時代で、甘味の指標になるのは柿であった。
「柿もおなごも食べ頃がございます。ご存知でしょ?」
「雲雀は渋柿か」
「はい。渋柿も時がたてば、このように」
八重は朝倉の口元に干し柿を近づけた。
「悲しいかな、八重。俺の好物を忘れたか? 俺は辛い物が好きでの」
本当にそうだったろうか?
言い返せない迷いに加えて、若い娘を好む朝倉に気後れした。
落ちた干し柿が転がり、赤い敷物を白く汚した。朝倉は八重の手を取り、指先についた粉と指をしばらく舐めていた。
生温かくも卑猥な感覚に支配される。
その朝倉の口で食って、吸われて、食べ尽くされる辛い夜になるのか。
それとも八重が冷たくあしらって、駆け引きを楽しむ甘い夜にするか。
「朝倉さまは、おなごに甘い」
「こういう甘さは別ものじゃ」
柔らかで濡れた淫猥な行為が八重を熱くした。
もっと私に触ってほしい。
あの夜のように抱いてほしい。
八重は言葉を返せなかった。
男も自分も愛さず、客を手玉に取る。それが花魁として生きる道。けれど一瞬、八重は溺れた。
「八重?」
――!
朝倉の冷たい瞳は怒りに満ちている。
手玉にとったお蜀など面白くもない。お蜀は届かぬ高嶺の華だ。
朝倉は興ざめして立ち上がった。
「朝倉さま!」
雲雀は細く微笑んだ。
朝倉と視線が絡み合う。引き寄せられるように朝倉は雲雀に近づき、捕えようと手が伸びる。
鼓がトン!と闇夜に響いた。
小春の金の扇が朝倉の手を遮っている。
「朝倉さま。宴を続けましょう。お蜀に嫌われますよ?」
小春の妖艶な笑みには迫力があった。
すぐに三味線と長唄が奏でられて、間髪いれず小春が舞ってみせた。
先程の若いだけの舞妓とは格が違う。美しい舞いの迫力と艶やかさに朝倉は圧され、たじろいだ。
「年増の芸子に用はない。誰がこんな芸妓を呼んだのだ!」
八重は沈黙したままで、剣呑な空気は払拭しきれない。朝倉が小憎らしいといわんばかりに小春を押しのけようとした瞬間、部屋の片隅から男の声がした。
「あらら、もったいねぇこと。あんたが呼んだんだろ。席に戻ったらどうだ。お蜀もお待ちかねだぁよ」
小久保彦左衛門が刀を抱えたまま、柱にもたれて座っている。退屈極まりない彦左衛門も、小春に手を出されるようでは黙ってはいない。
小春はその隙に舞妓三人衆を座敷から下がらせた。その際も雲雀は朝倉を見つめつづけていた。
八重が寝屋に向かう。小春とすれちがいざまに言った。
「一応、礼を言う。言いたくないけど」
小春はどうにか仕事を終えられたが、不快な気分は収まらなかった。
「本日はお呼びいただき、光栄にございました。今後は“年増”の一人踊りとなりましょう。若い子が可哀想ですよ」
そもそも若い舞妓を連れてくること自体が嫌だったのに、朝倉の態度は絶対に許せなかった。こんな座敷は二度と御免だ。
「癖の悪い人!」
八重は鼻で笑った。
「浮気されても男百人、尻に敷き、頂点に立つわ。それがお蜀でしょう」
八重は彦左衛門に目をとめた。白髪混じりの丁髷に、堂々とした侍。商人朝倉の軽い性格とは正反対だ。
「……。あの捕り手、アンタの想い人だろ?」
役人が小春を守ったのを八重は忘れられなかった。
老いているが、羨ましく、妬ましい。
小春はひとときでも女郎に落ちて、それでもお蜀になり、今は芸子でしかも捕り手と恋をしている。願っても届かないものをいくつも持っている。
「一本気のつまらない男。爺ぃだし」
貶してやったのに小春は否定しない。そんな心遣いが八重は嫌だ。
「大事にしな。人間なんてすぐにお陀仏だよ」
八重は鼻で笑った。
「咲いた桜もいつか枯れる。あたしだって……。でもその前にパッと盛大に咲かせようかねぇ」
「お蜀?」
八重は堂々と歩き出す。
どうせ消えゆく花ならば、
恋の炎に焦がされて……
燃え尽きようか吉原桜。




