(33)江戸の花火
草履で土を蹴る音が夜空に響いている。
吉原仲ノ町通りは大引けの鐘が鳴る刻で人通りも少ないが、草履の音だけは急ぎ足であった。
小久保彦左衛門は清七とお絹の件で番所を離れることができず、真夜中すぎになってようやく勤めに区切りけたところだ。
とにかく小春に逢いたい。言いたいことは山ほどある。もしやおテツに言われて、今でも小春が客を取らされているかもしれぬ。
胸を締め付けられるような苦しさを抱え、彦左衛門は桔梗楼へ急いでいた。
桔梗楼では、おテツがのんびりと煙管を吹かしていた。その胸倉を掴まんばかりの勢いで彦左衛門が乗りこんできた。
「小春は!」
「まぁ、お座りなさいよ」
おテツは煩そうに彦左衛門を横に座らせた。そしてまた一服、煙を上げてその行く先を目で追った。
「――焦ったってどうにもなんないのが男と女の仲ってもんだろ?」
「俺に説教こく気か?」
すっかり熱くなっている彦左衛門に一杯の薄茶を差し出す。
「小春が覚悟を決めてあそこまでやったんだ」
彦左衛門は頷いた。たじろがない瞳を見ておテツはため息をつく。
「覚悟はできてるかい?」
「覚悟?」
おテツは深くため息をついた。
「あんたの顔を見てると、とても別れるなんて考えてないようだけど?」
「当たり前だ」
確信と自信に満ちた彦左衛門であった。おテツの意図するところが分からないが、良い顔はしていない。
「小春が女郎をやめると桔梗楼としては困るか」
「そりゃぁ、あれだけの女はそうそういるもんじゃないよ。うちとしては引き止めておきたいさ」
「小春は望んでおらぬ」
「それはどうかねぇ。若いお大名さまから、早速文が届いているよ。六通ぐらいあったかねぇ、勿論身受けの話で」
「そのような事、小春が受けるはずがない」
彦左衛門の言葉に反しておテツは軽快に笑う。
「ここは吉原だよ。そいであれは吉原の女だ。いいかげん目をお覚まし。大門の役人が女郎に惚れてどうする?」
「小春は女郎ではない」
「それは昔の話でしょ」
おテツは褪めた目で煙管を吸った。
「そう思ってるのはあんただけさ。第一、あれだけの短期間で桔梗楼のお蜀になった女を親方が簡単に手放すと思うかい?
小春の稼ぎは仕度金を除いて三百。ふつうならこれで御練りと宴、諸々の代金は支払える」
彦左衛門はほっとしたが、おテツは諌めるべく煙管でカツンと火鉢を打ち鳴らした。
「親方が水増ししない訳がないだろ?」
金には人一倍計算高いおテツの言葉は紛れも無い現実そのもので、彦左衛門を酷く苦しめた。
入ったら二度と出られぬ吉原であると判っていたが、いざ自分の身となると恐ろしいくらいに立ちはだかる問題であった。五両を用意するのがやっとの彦左衛門にとって、今から聞く額のほうが非現実的な数字になる。
「幾らだ?」
「四百」
一介の役人が用意できるような額ではないし、金が絡めばおテツの態度が厳しいのは仕方ないことだ。
「だから諦めろと?」
「好きにおし。あと百両ばかり集めりゃいいだけさ。
言っておくけど、これからの小春の稼ぎはあてにできないよ。最低でも十倍は稼がないとココから出られない仕組みになってるからね」
「十倍だと!?」
「小春なら千両稼ぐ前に、どこぞの妾になれるだろう。それが嫌なら百両耳揃えて持ってくるんだね」
彦左衛門は愕然として、床に膝をついた。
百両など天と地がひっくりかえっても彦左衛門の袂から出てこない金額である。
「……」
話は済んだ。おテツは立ち上がった。
「親分と話してくる。値引いて貰えるように言ってあげるよ。――少しぐらい値引いても足りないだろうけど、小春とは長い付合いだから。ちょいと、お待ちくださいね」
おテツはすぐに戻ってきた。
「……いなかったよ」
「親方はいつ戻る?」
彦左衛門は頭を抱えた。
一刻も早く小春を取り戻したい。こうしている時間がもどかしい。この間にも小春は客に肌を寄せているかもしれないのだ。
「おテツ、まさか小春はもう客を取っていないだろうな? 女郎の恰好でもなんでも構わんから少し逢わせてくれぬか?」
おテツは考えこんでいたが、最期に首を横に振った。
「俺とお前の仲だろうが!」
「無理だよ。だっていなかったのは小春のほうなんだ」
おテツが首を傾げていると、彦左衛門がにじりよってきた。
「どういうことだ」
「親方の話では、あと百両と出さねば許さぬと揉めていた。そこに一人の武士が入ってきて、ポンと百両払って小春を連れていっちまったんだと」
「連れていった?」
とりあえず女郎から足を洗えたことに安堵した。だがその武士とは一体誰なのか。
「武士――まさか梶原!」
「あの浪人も小春を陸奥に連れ帰るつもりで金策に走ってたからね。それは違うと思う。だけど、頭巾越しで何処の誰やら……。まぁちゃんとしたご身分のお武家さまには間違いないよ。もっとも、それが縁でどこかで嫁になっちまうかもしれないけどさ」
彦左衛門はすっくと立ち上がり、その足で長屋へと向かった。
僅かな期待だった。
小春が無事に大門を通り抜けられたのなら、戻っているかもしれない。
夜道を走り抜けて暗がりの長屋の戸を開ける。
期待も虚しく、がらんどう。家財道具すらも無い。
「戻れぬと覚悟を決めていたか」
その場に座りこんで畳に拳を叩きつけた。
昼行灯の名を返上するだと?
「馬鹿が」
真実は否応無く彦左衛門を責めつづけた。小春は決して結ばれることがないと思っている。彦左衛門が家と志津を切り捨てることができないでいるのを見透かされていた。
小春はできる限りのことをしてくれた。その身がどうなろうともすべては俺のため。
小春。愛しい女。
人の一生は短く、共にいられる時はなお短い。だからこそ、この先の伴侶はお前と決めたのに。このまま平凡に老いて、命を長らえても何の喜びがあろう。
失意のうちに求めるのは酒しかなかった。暖簾を下げようとした店主を諌め、居酒屋で一杯引っかけた。
師走の夜風で底冷えする体を暖めようと呑んだ酒。それでも独り酒は身に染みる。追い出されるように店が閉まり、お手上げとばかりに夜空を見上げた。
「畜生」
今ごろになって、東から痩せた月が昇ってきた。闇に溶けそうなひ弱な月だ。
「月に叢雲ぉ、花に風ぇ……」
小春は消えてしまった。
酔いが醒めても千鳥足。
もうすぐ大晦日がやってくる。
大晦日だ。疲れがたまっていたのか、かなり日が昇っていた。
真冬の寒さが収まらず、彦左衛門は薄布団の中で、もそもそと動いている。まどろみの中で見たのは小春の凛とした笑みだ。夢では小春が戻ってきたと喜ぶのに、夢が醒めてはまた同じ夢が見たくて寝る。
繊細な陶器の割れる音が、その甘い夢を壊した。布団から抜け出し、障子をあけると庭先の蔵の前で、志津が青い顔で立っていた。
「何をしておる?」
足元には益子焼きの花瓶の破片が散らばっていた。
「旦那さま。なんということを……」
「落としたか?」
志津の失意はあまりに深く、絶望と怒りに満ちていた。
「おおこわ」
彦左衛門は静かに障子を閉めようとした。どうやら花瓶が割れたせいではなかったようだ。
「とぼけないで。この中にあったものはどうなさいました!」
それは志津が密かに貯めておいた金である。それが今朝になって無くなっていた。
「何のことだ?」
「ここにあった百両にございます。どうせ女郎に落ちたあの女に貢いだのでございましょ!」
志津の怒りは頂点に達していた。
「小春に?」
彦左衛門はしばらく無言だったが、志津の口から小春の話が出れば苛立ちもする。
「――志津。おまえ、そんなに金を隠し持っていたのか」
志津はしばらく黙ってしまった。彦左衛門でなければ泥棒ということになる。
「まぁ、これは・・・・・・これはとんだ失礼を」
「まぁ金は家のことを思ってのことだ。よく調べよ」
お互いそれ以上喧嘩はしたくないので、彦左衛門は障子を閉めた。その金があれば今頃小春と仲良く、今まで通りにやっていたかもしれない。だが、小春はどこを探してもいない。
彦左衛門は事件も終結に向かい、なおかつ二日酔いで少し腑抜けになっていたので、気付くのが遅れた。再び障子を開けた。
「志津。なぜ小春が女郎になったのを知っておる?」
「……」
「なぜ止めなかった? お主、曲がりなりにも親代わりであろう?」
志津は最初硬直していたが、突如大声を上げて笑い出した。
「親代わり? 聞いて呆れます。誰が人の旦那を寝取った女の親代わりなんて、するものですか!」
狂ったように笑ったあと、志津は彦左衛門を見据えた。
「――そうだわ。一度だけして親代わりしてやった。身売りすると聞いたから、あの女が二度と大門から出られないように、たっぷり桔梗楼から金を搾り取ってやった……っ!」
志津は彦左衛門に頬を殴られてよろめいたが、逆に彦左衛門を睨み返した。
「二十年あまり、嫁・母・妻として立派に行いを果たし、お仕えして参りました。なのに旦那さまは他の女にうつつを抜かし、私はどれだけ口惜しい想いをした事か……」
志津の愚痴など耳に届いていなかった。吉原から小春を助け出すのは難しいのに、それに志津が加担したとなれば決定的だった。彦左衛門の最も愛する者を奪ったのは、目の前にいる妻だったのだ。
「志津、お前は。同じ女の性に生まれておきながら、恨みのために吉原に追い落とすとは許しがたい」
吉原大門の前で家族のためになくなく女郎に落ちた娘たち。
何度も見ても彦左衛門は割りきれぬ想いにかられてきた。女とは美しく芯の強いものだが、権力の前ではあまりに非力だ。人として生まれても、男ならば後継ぎと喜び、女なら口減らしで身売りされる。それでも女は助け合い、励まし合い、そして争ってまで生き延びようとしているというのに。
「元々親同士が決めた縁。――離縁。申し付ける」
最初からそうすれば良かったのだ。もう未練も慈悲もない。
「人の道に外れておる。仏門にでも入ってやりなおすがいい」
志津は口に手をあてた。
「そこまでしてあの女に惚れこんで……」
彦左衛門はきっぱりと言った。
「そうだ。心底惚れちまった」
「嘘! どうやって暮していけばいいの? 家は誰が守るの? お母さまの面倒をみるのは?――あたしよ。あたししかいないじゃない。三味線ばかり弾いてる女なんかに武家のしきたりなんて分かりやしないわ」
志津は小春に妻の座を奪われるのだけは絶対に嫌だった。
「――小春は……行方が分からぬ。長屋、置屋、女郎屋・・・・・・。どこにもおらぬ」
苦しげな彦左衛門の瞳に志津は一筋の希望を見出した。
「だったら!」
その寂しげな瞳が志津に向けられている。彼を暖める方法を知っている。熱燗、労わりの言葉、抱擁。どんなことをすれば彦左衛門が喜ぶのか志津は知っている。
「俺は小春を探す。お前は梶原に仕度をととのえていたな。財布の紐が緩くなっているのを知られたのではないか?」
志津にはそう言われて思い当たる節があった。
「だったら梶原の所へ行って金を取り戻すがいい。自らの蒔いた種だ、自分で刈れ。女が一人で生きることがどれだけ大変なことか、身に染みて感じるだろう」
除夜の鐘が鳴る。今日の勤めは遅番だ。いつも精を出して働いている男衆に暇をだしてやったので、年明けはここで迎えることになる。
大晦日ということもあって、番所の働き手は忙しいが、彦左衛門は天下りなので特に仕事があるわけでもなく、留守番に似た存在で暇であった。
番所の火鉢の炭が大きく音を立てて弾けた。
部屋は外の賑わいと比べ、別世界のように静かだった。一見寂しくもみえるが、今の彦左衛門には調度よかった。
小久保彦左衛門は十も老けたような顔をしていた。
袖の下には蒲郡の賭けに勝った十五両がある。それに奴の青く引きつった顔も見た。顔にできた傷を見て、蒲郡も以前のような小馬鹿にした態度を見せなくなった。この大金の使い道を考えるだけで笑みがこぼれそうになる。
なのにそれらの痛快な話をする相手がいない。
以前なら勤めが終わる頃に、番所正面の見返り柳で三味線の音が聞こえていた。今はざわざわと耳を突く話し声と不愉快な奇声が聞こえるだけだ。
「――どこへ行った」
ため息の代わりに出た切ない響き。
ガラリと戸が開いて、花田征四郎が入ってきた。
「これは花田殿。先日は――」
「細かい挨拶は良い。今日は悪い話と、ほど良い話、とても良い話を持ってきたぞ。どちらから聞く?」
「ではほど良い話から。最期に悪い話は後味が悪くてたまらぬ」
「ほど良い話か。
おゆうの件だ。縁談は破談だ。俺は地方で要職に就くことになってな。正月が過ぎたら旅立つ。少し寂しいが、心を入れ替えるには調度良いかもしれぬ。今まで遊んだ分、これからは俺も真面目に勤めにでることにした。おゆうは玉吉が気に入っているようだしな。これは清七に一本取られたわ」
「確かに清七の思うとおりになってしまいましたな」
「次に悪い話。
浪人が小久保殿の屋敷の前で夜盗に襲われたそうだ。その額がなんと百十両。出所の怪しい金だけに誰にも届けられぬが、かなりの大金だ。そうとう悔しい想いをしているだろうな」
彦左衛門の眉間に深い皺が寄った。
「最期に良い話。
悪党を追っていた旗本が百十両を拾い、泡銭だと使い果たした」
「使い果たした?」
「そうだ」
「俺の金を!」
彦左衛門は思わず立ち上がった。征四郎は落ち着けとばかり、肩を叩いて座らせる。
「俺は夜盗から拾ったのだ。どう使おうと俺の勝手だ。
金は馴染みの友にポンとくれてやった。面白いことに、それで花火を上げるそうだ」
「花火を?」
「吉原が新しい年を迎えるから、大玉の大輪の華をな。腹にドンと響くようなやつだそうだ。
あの音ならばたとえ地の果てだろうが、牢の中にいようが気付くだろう」
それがおゆうと玉吉の答えなのだろう。
「頭巾を被った夜盗はずいぶんなお人良しだな。俺の金だぞ。相談ぐらいしろ。まったくどこが良い話だ」
「――良い話ではないか」
征四郎は片手を耳にやって澄まして聞いてみろ、と仕草をする。
「来年も良い年を……」
ニヤリと笑って入り口の戸を開け放ったまま去ってしまった。
外から冷気が入ってきて、彦左衛門はぶるりと震えた。
戸を閉めに歩いた足が、ふと立ち止まった。
夜空が一瞬明るくなり、見たこともない大きな花火があがったのだ。
どん。
「おぉ・・・・・・」
彦左衛門を感動させたのはそれだけではなかった。
あぁ。三味線の音がする。
見返り柳の下で。
彦左衛門は番所の入り口に立った。
「芸妓さん、中で一曲お願いできないかね? 大晦日の晩に独り身は寂しくてね」
***おわり***
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
いつか、またお会いしましょう。
続編は……ありますよ?




