(32)小春を求めて
「小春!――小春!!」
真冬の桔梗楼の廊下。格子窓から縞模様に月明かりがさしこんでいる。彦左衛門が静寂をつき破り進んでゆく。
辿りついた突き当たりの部屋は光も無く、暗かった。
ゆっくりと歩を進めるとつま先が軟らかく重いものにぶつかった。
「明かりを」
心臓がどくどくと音をたてていた。
祈るような気持ちで照らすと白い足袋が夜目に浮かんだ。続いて花魁の赤い襦袢がめくれた白い脚。前に長く垂らした豪奢な金糸の帯。そして……。
「小春」
見るに耐えかねた。だが僅かに声がした。
「……う――う」
よく見ると猿轡と両手両足を縛られて横に倒れている。おテツが横から蝋燭で照らす。
「お絹だ」
急いで彦左衛門は猿轡などを取り去った。
「小春はどこだ!」
彦左衛門の追及は厳しかった。心配と不安が重なって、動けぬお絹の襟首をぐいぐいと締め付けた。
「痛い!」
お絹は激情のままに大声で言った。
「知らないよ!」
「ひこさま。小春は無事にございます」
彦左衛門は隣部屋に駆けよって襖に手をかけたが開かなかった。向こう側で小春が必死に押さえていた。
「小春?」
「会えませぬ。このような姿を曝すのは耐えられませぬ。私は大丈夫。念のため、梶原に用心棒を頼んでおきましたから」
「梶原に?」
彦左衛門は複雑な気持ちを抱えながらも戸を開ける手を緩めた。
「これは奥方さまとの約束にございます。小春はもう・・・・・・」
「もう何だというのだ。俺に断りもなく。どのような姿でも俺は変らぬぞ」
「ありがとうございます。――お許しくださいませ。小春はいつもの芸妓のままで憶えていただきとうございます」
「あい判った」
「――それと。彦さま。酉の市でお絹さんは私を助けてくださいました。決して悪い方ではございません。ですから……」
当時の番所の責め苦での生死は紙一重。吉原も辛いだろうが、まだ生きていられるだけマシだ。昼夜を問わず責められ、叩かれ、生爪を剥がされ、尖った洗濯板のような石に正座させられて腿に重石を乗せられたする。果てなく続く拷問。そしてその先に待つ罪の宣告。そのような処遇を想像したに違いない。
「言わずとも判っておる」
彦左衛門は踵を返し、お絹の前に立った。
「だが人が死んでおるのだ。曖昧にはできぬ」
お絹は食らいつくような瞳で彦左衛門を見た。
「あんたらなんかに何が判るってんだい!女を虫けらみたいに扱いやがって。女は道具じゃないんだよ」
刹那、お絹は興奮ぎみに剃刀を取り出した。
小春を傷つけるべく手に入れた剃刀だが、立ち上がって自らの喉に当てた。
「死ぬ前に話してみよ。まだ言いたいことはたくさんあるだろう? とことん俺が聞いてやる。それからでも遅くあるまい」
「……」
それが彦左衛門の広さと暖かさだった。情の深さにお絹は戸惑った。驚くほど胸に染みて、剃刀を持つても緩む。
「……やっぱり羨ましいわ。
あんたと小春ができてるのは知ってたよ。酉の市の日に一緒に手を繋いで歩いてるとこを見たからね。
格子の中でも、けっこう外は見えるもんなんだ。人が多くてもあんたらは飛び抜けて幸せそうだった。
おまけに小春はおテツから光琳梅の着物まで仕度してもらって。なのに困った顔してる……あたしらから言わせれば贅沢な女だよ。
小春と会った時のあたしは今日、明日にも岡上げで上機嫌だった。もうすぐ、小春みたいにああやって旦那と手を繋いで歩けるかと思うと嬉しくてね。小春を逃がしてやったのさ。
あぁ――やっと広い世界に出られるんだって。
でもその日最初に現れたのは鍵屋の旦那さんでなく、娘のおゆうだった。
しかも散々なじられた。男を狂わすとか、騙したとか……あたしはつい頭にきちまって。なにせ旦那のことが本当に好きだったから加減なんてできなかった。花瓶ごとおゆうにぶちまけた。
でも後から旦那さんが来るときいて慌てた。大事な娘さん酷い事をしたとなれば岡上げの話が消えちまう。ひたすら謝って着替えさせ、弦斎と一緒に帰らせた」
「それで着物が桔梗楼にあったのか」
「何の因果か、偶然か。それが始まり。御吉太夫とは元々仲が悪いんだよ。でもあの時、あの女がした事……許せなかった」
小春は思い出した。おテツの部屋で待っていると、お吉が乱れた恰好で現れた。そしてお絹が怒って、おテツを部屋に向かわせたのだ。
「御吉太夫に取られたお客さまとは、清七さんのこと?」
「そうさ。あたしがおゆうさんの相手をしてた間に、御吉太夫が旦那に言い寄ってきたんだ。
そしてあたしを岡上げするための小判を全部、御吉太夫に摺られちまった。騙されたと申し立てれば、遊んだ金だと言われる。
そして岡上げは延び、あたしは夢叶わずここにいる。
あたしは十の時、たったの十両で吉原に売られた。やっと奉公が終わるとこだった。でも稼ぎより付いた借金が多くてこのままじゃ出れなかったんだよ。
元々、この界隈でお吉といえばアタシだった。なのに御吉太夫とあの女が呼ばれるようになって、アタシは看板を挿げ替えられて、お絹になった。
しかも太夫はわずか三年半の奉公で、それがもう終わる。なのに吉原で稼ぐっていったんだ。清七の旦那なんて歯牙にもかけない。ただ必要なのは金だって。
お吉はあたしの大事な旦那を騙した。そしてあたしの未来も奪ったんだ。
許せなかった。岡上げ寸前の人の旦那を奪うなんて。世の中なんでこんなに不公平なんだい? なんであたしばっかり!」
「そうだろうな。それで?」
彦左衛門は否定もせず聞いている。お絹は内に秘めていた想いを吐き出した。
「酉の市の最期の客が帰った後、太夫の部屋に行った。
アタシの悔しがる顔を楽しんで……馬鹿みたいに笑ってた。お吉太夫は女の苦しみなんて、露ほどにも感じちゃいなかった。色と欲を貪って、弱い者を食い物にして遊んでたんだ」
お絹はおもむろに剃刀を首にあてた。後は思いきり引くだけだ。
「だから殴ってやったのさ。だけどそこには火鉢があって・・・・・・旦那は昼間きた時は御吉太夫に騙されたと笑っていて。改めて支度金を持ってきてくれたんだ。でも、もう遅かった。後始末を二人でしたんだ」
恐ろしくて手が震えた。ちくちくと刃が首に当たる。殺しの罪人の末路は死罪に決まっている。生まれては苦界、死しては浄閑寺。
「あたしの人生、幸せなんてどこにもありやしなかった!」
「おやめなさい!」
馴染み深い清七の声に剃刀の手が止まり、涙が零れた。不思議と心が落ち着いて静まった。
「――旦那ァ。本当にありがとうございました。こんな端女郎を花魁にまでしてくださって。それで庇ってくれて。幸せだったのに気づけなかった」
「お絹。その刃物を渡しなさい」
お絹は首を横に振った。
「お役人さま。全部やったのはアタシだ。旦那は嘘をついてらっしゃいます。張本人がいうのだから、これほど確かな証拠はございませんでしょ?」
お絹はもう迷わなかった。それで清七が咎めなしになるなら、喜んで冥土へ旅立とう……。
「いかん! 勝手な真似を!」
清七が飛び出して、お絹を止めようとした。
彦左衛門の笄がお絹の手を掠り、剃刀が落ちた。彦左衛門は取り押さえると、ほっと息をもらした。
「……銀次、あと頼むわ。あー。腰が痛ぇ」
清七は縄に縛られた愛しいお絹の頬をなでる。大柄な清七が、そのまま崩れ落ち、床に額をこすりつけて嗚咽をもらした。
朽ち果てた愛の終末がそこにある。
彦左衛門は黙って見届けていたが、チラリと襖の向こうに目をやった。
労いの言葉もかける余裕もなく、ただ小春が気にかかった。微妙に空いた二人の距離が彦左衛門を不安にさせた。だが今は勤めを優先しなくてはならない。




