(3)事件
にぎやかな酉の市が終わり、四方の町の各所に繋がる門は全て堅く閉じられた。唯一の通行口である吉原大門から中に入ると、祭りのような賑やかさは消え、艶めいた色町へと戻っている。
そこは陸の孤島だ。貪る男の天国であり、笑顔で苦しむ女の地獄でもあった。それこそが吉原の日常であった。
酉の市が終わっても、小久保彦左衛門だけは未だその日常を取り戻していなかった。
なぜなら翌日は花魁たちにとって、年に何回かの特別な休日だった。端女郎たちは付き添いの見張りと共に、芝居小屋へ見物にでかけることが許された。
吉原大門番所の出入りが今日は特別多い。女郎たちが逃げるのではないかと、厳重に取り締まっていたのである。いつものように太平楽ではいられなかった。女郎たちが夕七つ(午後四時)に吉原に戻るまで、額に血管が浮き出るような緊張感があった。
そして暮れ六つ(午後六時)の鐘が鳴る。
彦左衛門は仲間と交代し、やっと肩の荷を下ろした。
今日も何事もなく済んだ。得たのは肩こりと、小春との自由な時間だ。大きく背伸びをすると骨が鳴った。
――小春が見返り柳の下で待っている。早く行きたいものだ。
そそくさと支度をととのえ、低く咳払いした。
「諸用のゆえ、これにて失礼致す」
はやる足を抑えつつ、彦左衛門は番所を出た。
三両で屋形舟を借りて、そこで酒を酌み交わそう。新鮮な刺身と、鱒の塩焼きが待っている。
――小春。今夜は寝かせまいぞ。
彦左衛門はしたり顔で笑みを隠せなかった。
小春の着物を割り、白い太腿に手を差し込むことを想像しただけで、彦左衛門の心臓が高鳴った。久しぶりの逢引きで、興奮していた。彦左衛門には妻も子もいるというのに、今は軽薄でどうでも良い存在に成り果てている。
――家族は俺が扶持(武家の給与)さえ持ってくれば、それですべて満足なのだ。だが、俺は満足できぬ。小春抜きの俺など抜け殻同然だ。
それに小春は親も身内もない独り身だ。放っておくことはできん。
先程まで見返り柳の下にいた小春の姿が消えている。
「小春?」
彦左衛門が周囲を見回すと、騒がしい方角から、誰かが袖を引っ張った。
「御役人さま、人が……堀に人が!」
「!」
――女郎が逃げ出そうとしている。
彦左衛門は脱兎のごとく走り出した。
江戸の街と吉原は大門を境にして、完全に隔離されている。
境は高い壁で仕切られ、さらに堀がある。女郎には見張りもついていて、そこから抜け出すことなど容易なことではなかった。もし抜け出せば、目付けのそれは酷い仕打ちが待っている。まさに命がけの行為だ。
それを取り締まらねばならない彦左衛門の良心が痛まないわけではない。赴任して間もない彦左衛門にとっては尚更のこどだ。だが、これもお役目である。心を鬼にして現場に向かわねばならない。
彦左衛門は外の堀沿いの道に、丸い人だかりを見つけた。行きがかりの町人や、遊び帰りの侍たち、さらには目付け(吉原の監視係)もいて、おしくらまんじゅうの人だかりの中を分け入った。
――女はどこだ?
「どけ! 通せ」
人の隙間から腹ばいになった女の足が見えた。濡れた裸足に土がついていた。その足は暴れることなく、ピクリとも動かなかった。
さらに人を掻き分け、やっと円陣の中央に辿りついた。
堀から引き上げられた女に、触れようとする者は誰もいなかった。ただ恐ろしいものを見るように、周りを取り囲んでいる。今後はどうなるのかと、行く末を見ようとする野次馬ばかりだ。目付けたちでさえ事の次第を見守っている。
その女はすでに死んでいたからだ。
水色の桜川の着物。桜が散って川に流れていくその柄と同じように、寂しくその志は挫けたように見えた。顔には布がかけられていた。
「どこの女郎屋だ?」
一番近くにいた目付けの銀次に問いかけた。
「それが、分からねぇんで」
「はぁ?」
吉原のことで銀次がすぐに答えが出ないなんて珍しいこともあるものだ。死体を見て動揺するような男ではないはずだ。彦左衛門は女の顔を見ようと布を取る。
「!」
それで銀次が言っている意味が分かった。
女には顔が無かった。火で炙ったように、焼け焦げて判別が不能だった。
「顔を焼くなんて酷いことしやがる。よっぽどその顔が気に食わなかったんだろうよ」
顔のない死体を大門番所に運ばせて、一息つくと凝った首筋を揉んで辺りを見回した。町人や侍たちが噂をしているのが鬱陶しい。
「お前ら、もう終りだ。さっさと散りやがれ!」
せっかく楽しみしていた小春との逢引きも台無しになっちまった。最期のお楽しみにしていた屋形船での酒と肴と小春との一夜。家族に仕事が長引くから帰れぬと嘘をついたのに、それが本当になってしまった。
目付けの銀次が低い腰で近づいてくる。
銀次は彦左衛門より十は若いが、首が少し斜めに曲がり片足を引きずっている。昔、大八車に轢かれて、岡引の仕事を辞めるまでは、彦左衛門とは親しい仲だった。
「旦那」
「ああ。そうだな」
――吉原の堀に浮かんだ女の死体となりゃ、女郎が逃げ出したと思うのが筋ってもんだ。だがホトケを移動した際に見た女の髪。あれは女郎の結い髪ではない。あれが町娘となると、この件の担当は他でもない。この俺か。
「とりあえず郭の中の女の頭数も調べておけ」
「そりゃ、面倒な話だ。吉原に女が何人いると思ってるんですかい?」
十年以上も目付けをしている銀次と違って、彦左衛門はここに来たばかり。ここは目付けの意見も通してもらいたいものだ。もちろん安穏とした正確だから、そうしてくれるだろう。
刹那、銀次の予想を裏切って怒号が飛んだ。
「いいから! 早く行かんか!」
いつになく厳しい口調に、銀次は腹の虫を据えかねた。だが一応彼も役人の端くれである。
「……」
彦左衛門の言葉に納得したわけではない。銀次が無言のまま一礼して姿を消す。
――仕方ねぇ。適当に報告しておくか。ヒコザも随分昔と変わったもんだ。
小久保彦左衛門は小春を捜した。
この騒ぎだ。当然近くにいるに違いない。
堀沿いの通りから、番所の前を過ぎて見返り柳の下に戻ったが、姿はなかった。
――まさか、あの死体が小春だということは無いだろうが、どこへいったのだ?
姿を捜すほどに、なぜか不安が募る。
――まさか、な。
自分は何を考えているのだ? 確かに小春は謎の多い女だ。でも顔のない死体と小春に関係があるはずない。あってたまるか。
衣紋坂を下だり、吉原大門の手前にある外茶屋で彦左衛門は足を止めた。
小春のしゃんと伸びた背筋と首筋には独特の色気があって、彦左衛門はすぐに分かる。小春を見つけて、ほっと一息つけるはずが、疑問が湧く。
――仕事だと?
彦左衛門の口から低い呻き声にも似たため息が出た、。
「誰だ、あの男は」
その時、茶屋の主に呼び止められた。