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吉原大門事件帳ー小春日和ー  作者: WAKICHI
江戸の花火 第六幕 吉原 花魁道中
29/57

(29)花魁道中



 花魁道中が始まる前に小さな事件があった。

「あたしの櫛が無い」

 八重は木箱をひっくり返し、周囲を睨んだ。

「誰か取ったね? あの櫛はおッ母さんの形見の櫛。いつもここに入れてるのに!」


 柱の影から朝霧が笑っている。その後にお絹もいた。

「本当にやる気なの?」


 お絹の問いに朝霧は真剣だった。

「当たり前だよ。アタシが一番だ。誰にも譲りゃしないよ。あの鬼子母天神もこれでお終いさ。それでもって、ヤルのは……あんただ」


 朝霧が剃刀をチラつかせる。お絹は戸惑った。

「あたしが?」

「一番に疑われるのはアタシなんだよ。だけどあんたなら、誰も疑いやしないよ。一人になる時を狙って、おやり」


 迷いはある。芸妓の小春も花魁になり、今は競う間柄である。どのような理由があるにしろ、お絹は今の地位を失うわけにいかない。


「……」

「従うのが嫌なら、他の女を捜す。あんた女郎になって長いだろ。そろそろ楽をしたいだろう? 岡上げだとふれまわっているけど、いっこうに気配がないじゃないか。それともまた端女郎に戻って、チョンチョン格子で動物みたいに尻を振りたいかい?」


「朝霧さん、やはりあたしにはできない」

 お絹は固まったまま、青い顔で朝霧を見ていた。それでも朝霧は諦めなかった。


「誰もいない時にやればいいんだよ」

 朝霧は鬼子母天神が控えている部屋へ向かった。



 まだ開店前だというのに、びっこを引いた初老の武士が桔梗楼を歩いていた。


「そこのお嬢さん、少し手を貸してくれないか?」

 朝霧は苛立ったが、番所の人間を邪険には扱えず、手を貸した。


「いやぁ、助かったよ。おテツめ、まだ傷が癒えておらんのに手伝えと。荷物が多いものだから、階段が辛くてな」


 朝霧は笑った。

「番所の人間が手伝いとは、あんたも女に腑抜けかい?」


 彦左衛門は傷を負った顔でも苦笑いだ

「男だからな。そんなの当たり前だ。でも一生かけて守る女を最近やっと一人に絞れたところだ」


 上機嫌な言葉に朝霧は鼻で笑った。

「男は爺になっても、好きものだねぇ」


 誰もいない部屋まで荷物を運び、彦左衛門は微笑みながら手を差し出した。


「そんなことをしても、良い事は無いよ? 男が嫌いなのは仕方が無いし、金に困っていても俺には助けられん。けれどお前の心が血を流して、苦しんでいるのは分かる。


 それでも、周りの人間に血を見せるのは、良くない。ここは女が夢を売り、男が夢に溺れる場所で、血生臭い騒ぎは興醒めだ。男は、どいつもこいつも喧嘩早いし、誇りをかけて戦っている。吉原の外では傷ばかり作って、このとおりだ。せめてここで夢を見させてもらえなきゃ、生きていけんよ」


 朝霧は笑った。

「偽物の愛でもかい?」


「そうだ。だいたいの男は目の前で困っている女を放ってはおけない。そのうち情が湧いちまうんだ。お前が愛おしくて仕方ないんだよ」


 言葉には嘘がなかった。朝霧が気を緩ませた一瞬の隙に、彦左衛門が剃刀を取り上げた。

「おなごに刃物は似合わぬよ」


 怒った朝霧が彦左衛門を突き飛ばした。身体じゅうが傷だらけのせいで、ろくに受け身もとれず畳に転んだ。

「腰、腰打った!」

 

「このへっぽこ女たらし!」

 朝霧が退散していくと、彦左衛門は力が抜けたまま笑った。

「これでは……。花魁道中が……銀次に頼むか」


 

 花魁道中が始まる。


 揚屋では井筒屋の又吉と鍵屋清七が芸妓を呼んで宴を楽しんでいる。花魁は美しく着飾り、揚屋にて待つ客を桔梗楼まで迎えに行くのである。禿と下男や新造などを連れ、黒塗り三枚刃の高下駄で、八文字を描くようにして歩く。歩き方には数年の経験が必要であるし、格式や威厳を保つには必要であった。


 経験の浅い小春にとって、これは問題でもある。

 顔を隠して売ってきただけに、道すがらの見物客に顔を知られ、ひいては芸妓として生きてきたのに、花魁の顔を世間に晒すのは、二度と芸妓として生きられない。


 おテツは覚悟を決めた小春の凄絶な表情を見て、ため息をついた。正直もったいない。


 花魁としては数日で膨大な稼ぎを生んだ仕組みを失うことになる。普段なら小春太夫と名前をつけて世間に晒し、二度と芸妓に戻れないようにたっぷり借金を作らせるところである。それを鬼子母天神という花魁にしては妙な名前にして、最大限に顔を隠し、最高に高嶺の花に仕立て上げたのだ。


 おテツは自分の愚かさを笑った。


――やっぱり芸妓のほうが長く稼げるし、置き屋をつくった日には、もっと儲かるかもしれないね。ここは長い目でみてやるか。


 そこへ朝霧が目の前を通った。おテツは閃いた。鍵のかかる部屋に小春を押し込み、そして微笑む。

「ちょっと! どういうつもり……!」

「悪いね、アタシゃぁ、もっと稼ぐ」


 木戸を叩いて小春が叫ぶ。

「おテツさん!」


 騒ぎが大きくなりそうで、おテツは焦る。その時、よぼよぼ腰で歩く彦左衛門を見つけ、大声で呼んだ。

「小久保さま、終わったんですか?」


「おテツ。終わったよ、――今、小春の声が聞こえたようなんだが……」

 薄い扉一枚先での会話である。小春は息が止まるほど硬直した。


「やだねぇ。今回は小春の紹介なんだから、揚屋にいるに決まってるじゃないか」

「そうだよな、気のせいだよな? いや、実はたった今、腰を痛めてしまって、歩くのが辛くてなぁ。ここで待たせてもらってもいいか?」


「どうぞ。うちでも宴はやらせてもらいますからね」

 彦左衛門の明るい笑い声が小春の胸に響く。おテツは彦左衛門を小部屋に閉じ込めると朝霧を呼んだ。


「朝霧太夫、あんた……まだ花魁道中してなかったよねぇ」



 ただ時が過ぎ、夜が近づいてくる。閉ざされた部屋で、小春は故郷の歌を唄った。

 その歌は近くでうたた寝をしている彦左衛門の耳にも届いた。


「――この唄。まさかなぁ」

 小さな疑いを晴らすべく、揚屋から戻った銀次に様子をきいた。


「踊っていた芸妓は小春ではなかっただと? おかしいだろう!」

「詳しいことは分かりません。おテツさんから聞いてくださいよ」


 彦左衛門は怖い顔でおテツを捜しに出る。

 小春がおテツと共に廊下へ出た時、吹き抜けを挟んだ対岸に彦左衛門と銀次がいた。


 小春は目を細くした。声などかけられるはずもなく、姿をじっと見つめていると、向こうもその様子に気がついた。知らぬ振りで、小春は歩き出した。


「おテツ、客は?」

「もう本部屋でお待ちだよ。あの男に言いたいことがあるなら、さっさと済ましちまいな」

「……逢いたかない」


 ――私情は禁物だ。


「最期かもしれないんだよ? 今ちゃんと話した方が良いよ。それともあの捕り手がアンタの姿を見て驚くから、肝が縮んだのかい? 御練りと宴の代金支払って、僅かでも借金が残ったら、アンタ、食い物にされる。


 桔梗の大旦那は厳しい方だ。全額払ったとしても手放すかどうか怪しいのに。このままじゃ、吉原大門をくぐれなくなるよ?」


 おテツの優しさが心を打つ。

「ありがとうございます。でも最期まで内緒にさせてください。彦さまのお役に立てればいいんです」


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