(27)結ばれる二人
夜が明ける。
薄暗い長屋の壁の穴から鼠が這い出してきた。雄雌二匹、そして遅れて跡を追うようにもう一匹。例えるなら最期の一匹が自分なのだろう。
鼠は敏感な動物で、滅多に人前に姿を晒すことはないが、小春は長く捨て置かれた彫刻のようであった。乱れた襟や髪を直す気になれず、壁にもたれたまま数日、この状態である。
彦左衛門とは別れの言葉を交わすどころか、もう二度と会えない。仕事へ出る力は残っていなかった。
隙間風吹く部屋では外と同じ気温。冷たくなった指先にわずかに力を込めた。
彦左衛門の手の暖かさが懐かしい。
しっかりと握ってくれた彼の手は緊張したせいで、少し汗ばんでいた。
気付いた彦左衛門は失笑して言う。「悪い。年甲斐もない!」
小春はとめどなく流れる彦左衛門との記憶の中にいた。
だが現実に戻り、冷えた長屋の一室にいると頭を上げられなくなった。何をしても動けば涙が出る。
絶対に泣かないことにしていたから、それは守りたかった。
――笑顔って、どう作るんだっけね。
泣かない。泣くものか。泣いたら負けだ。特に恋で泣くのは駄目だ。
視線はいつも足元の紙に繋ぎとめられた。破かれた紙の切れ端が集められ、パズルがほぼ完成されていた。
『唯そなたのみを す。
身は在らずとも心は共に在りぬ』
一文字が抜けているのは志津が持ちかえったからだった。
逢いたい!
びっこをひいた調子の合わない足音が近づいてくる。
朝日差し込む小春の家の障子に男の影が映り、ガタリと戸が開く。
「――小春、小春はおるか?」
切望していた、ただひとつのこと。
その彼が目の前にいる。なのに小春は部屋の片隅で動けないでいた。
朝日を背に浴びた彦左衛門は、投げ出された小春の草履をみたが、気配がない。けれど部屋の端の闇の中から白い素足を見つけた。
「よいしょ」
部屋に上がると、小春の足元に広がる紙の切れはしが風に揺れた。
誰がそんな真似をしたのかはおおよそ想像がつく。
傍に座って小春の顔を見た。
想像以上の憔悴ぶりに息を呑んだが、慌てず冷静に努めた。
「ほほう。愛が抜けておるな。――まぁいい。ここに本人がおるからの」
乱れ髪に憂いの瞳。繊細な美しさに凄みがかかって、触れたら壊れてしまいそうだ。
本音を言えば今すぐ激情のままに抱きしめてしまいたい。小春の苦労と悲しみを抱擁と睦言で消してしまいたい。ずっと逢えなかった想いが爆発しそうで苦しい。
「長らく待たせたな」
彦左衛門は視線を合わせようとしない小春の異変に気付いていた。ひどく無理をしている。
この心の壁を打ち崩すにはどうしたら良いものか。
「小春、返事をせい。ずっとお前の声を聞きたかったのだ」
「……」
彦左衛門の言い分は分かる。でも、もう限界なのだ。毛先一本でも動かせば、彦左衛門を求めて止まらなくなる。
焼けつくような心を抱えながら、小春は耐えていた。
いずれ近いうちに別れる日が来る。
小久保家の平和が彦左衛門にとっての幸福ではないか。乱してはならないのだ。
ゆっくりと、心を殺して彦左衛門に深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。」
返事の謝りではなく、それが小春の答えであった。
それでも彦左衛門の態度はいつもと変わらずに暖かい。
小春の心にじわじわと染み込んでくる。
「謝ることはない。――おいで」
愛に苦しむあまり、瞳を閉じて視界から彦左衛門を遠のけた。
彦左衛門の太い指先が優しく小春の頬をなでた。
指先が熱い。人肌を恋しく思う。
その体と心を、小春は一度だけ得たことがある。
他の男では決して得られないもの。
小春の噛み締めてきつく閉まった唇に、彦左衛門がそっと自らの唇を押し当てた。
長い接吻の余韻が切ない。
愛している。愛している。
どうしようもなく。
「ひこさま。私は……」
言葉は続かなかった。何もかもが一気に溢れでた。
ほろり。涙がこぼれた。
そして胸に飛び込んだ。ただ心のあるままに。
魚が水を得たように小春は彦左衛門に包まれた。暖かい懐に抱かれて無我夢中になって彦左衛門を求めた。
真冬の朝の冷たさも、二人の火照った身体には丁度良かった。彦左衛門は虎のような逞しさで小春を抱いた。一糸纏わぬ身体は完璧で、狂おしいほどに美しい。吉祥天女さながらの美貌でくぐもる声をあげる彼女に本能が限りなく掻き立てられる。
「このまま、ずっとこのままで……」
小春はうわ言のように繰り返した。
いつか覚める夢でも、このまま溺れ壊れてしまいたかった。
彦左衛門は決闘で瀕死になった時、最期に求めたのは小春だったと語った。死闘を物語る顔の傷も、小春には愛の証のように思えていとおしい。
「迷ったまま弦斎と戦えば斬られていた。戦う気にさせてくれたのは小春だ。小春がいなかったなら、俺はここに居らぬ」
「けれどお顔に傷が」
「これでもう昼行灯とは呼ばれまい?」
彦左衛門は笑うが、小春の心には火がついていた。
「ひこさま。清七が事件に関わっているのは必定。桔梗楼と清七の間に何が起きたのか、小春にもお手伝いさせてくださいませ。必ずお役に立ってまいります!」
「おうよ。では早速清七を座敷に呼ぶことにしよう。小春の芸妓姿を見るのも久しぶりよの? 楽しみだ」
小春は嬉々として微笑んだ。心臓に杭が刺された気分だったが、顔には出せなかった。
生憎その願いは叶いそうもない。
今度、大名行列を真似た催しがある。桔梗三楼の名を掲げ、選り抜きの女郎が吉原を練り歩く。江戸一番のお蜀、鬼子母天神としてその先頭に立たねばならない。
それを見たら、彦左衛門も裏切られたと思うに違いない。
「ひこさまは身持ちの堅い芸妓の私がお好きでしたね。でももし、私が女郎だったら許せないでしょうね?」
けれど答えは無く、彦左衛門が恐ろしく真面目な顔で小春を見つめた。
「やだ。もしもの話です」
小春は何事もなかったように笑って煙草に火をつけた。
「それは許せぬ話だ」
小さく呟いた彦左衛門だが、語尾に怒りが混じっていた。小春は目を合わすことができないでいた。
やはり彦左衛門は純粋な男だ。小春のことも許すはずがない。
「お前ほどの女が、女郎の仕事を蔑むか? 芸妓で客に媚びを売るのも、吉原で身体を売るのも所詮、仕事。生きるため、みな必死なのだ。それを教えたのは他でもない、小春ではないか」
「!」
「又吉の前で立派に仕事を果たした姿、しかと見届けた。たとえ身体を売ったとて、仕事。それくらいの事が判らぬならうちの番所は勤まん。
卑下することはない。堂々としておれ、それが小春だろう?
笑える話ではないか。俺のような男を恋しいと言ってくれる。それだけで俺は充分に幸せだ」
小春の手から煙管が落ちた。
二人は時の経つのも忘れて抱擁を繰り返した。




