(26)月蝕
まるで揉め事などなかったような空気だった。志津は黙っていつものように膳を出し、彦左衛門も静かに茶碗を受け取る。
「美味い」
彦左衛門は、ボソリと呟く。志津は黙って聞き流した。
「俺は美味い飯を作る女が好きだ。家とは良いものだ」
優しい言葉に嘘はない。本当にそう思っている。
それでも志津は、彦左衛門と面と向かって話すことができなかった。離縁せぬといわれても、志津を愛されていないと思うと虚しかった。
「志津、俺は別にお前を嫌っているわけではない。何というか、男は一つの事しか見えんのだ。俺が家に居る時はお前がいい女に見え、仕事をしている時には他の女がよく見える」
彦左衛門は自分で喋っているのに、妙に言葉が上っつらだけに思えた。本当は小春が一番好きだ。どの気持ちで自分はこの言葉を発しているのだろうか。
「だから家にいる今、お前が一番じゃ」
そう言った時、志津は泣き出した。
「私は愚かな女でございました。どうかお許しくださいませ」
彦左衛門は妻の肩を抱き、そっと囁いた。
「今宵は共に呑もう。来ぬなら、離縁望むものと判断いたす。よくよく考えることだ」
今宵は志津との別れの夜になるだろう。多少の扶持は入れても、この家には戻らない。明日には小春のもとへ行く。
彦左衛門は別室にこもり、身支度を整え、小久保家に別れを告げようとしていた。
部屋には蝋燭の光が無く、僅かな光で床の間に飾ったままの刀がぼんやりと浮かんで見えた。
武士なので刀は大切だ。しばらく床に伏せていたので触っていなかったが、柄が汚れている。抜くとガタつきがあってソロリと音がした。刃は弦斎の血で汚れていた。
暗闇で、すっかり乾いてしまった血を拭く
。
「……」
――本当に斬らねばならなかったのだろうか。もっと良い方法があったのではないか? 友を斬ってまで、守りたいものがあっただろうか。
記憶が鮮明に蘇り、嗚咽を押し殺した。
そしてまたひとつ、今夜、大切な人との縁を切ろうとしている。
「旦那さま。灯りをお持ちしました。今夜は月蝕だそうですわ。雲が出なければよいのですが……旦那さま?」
彦左衛門は人知れず、平静を装って頷いた。
「あぁ、そうだな」
彦左衛門は志津を引き寄せ、そっと抱きしめた。
「あっ、旦那さま……ほら、月が欠けはじめた」
志津は別れを切り出されるとは知らないで、この世の幸福を噛み締めている。許されたと思っているのだろう。何故なら、いろいろあったというのに彦左衛門が、自分を求めているのが分かるからだ。
丸い月が闇に食われている。
じわじわと侵食されて、消えていく。
今宵もそっと彦左衛門を見下ろしていた月は、やがて雲間に隠れ、夜空は闇の支配下に落ちた。
月のような凛とした美しさの小春。それは彦左衛門の希望。
空気のように彦左衛門のすべてを握っていた志津。
理性で選ぶのは簡単だ。月は無くとも生きてゆけるが、空気が無くては生きてゆけぬ。今の生活は志津あってのもの。
だが、志津を手元に引き寄せた時、彦左衛門は違和感に囚われた。
――これが俺の求めていたものなのか? ならばこの虚しさ、なぜ消えぬ。どうして満たされぬ。
「旦那さま、何をお考えになっておられるのですか?」
「俺は人でなしだ」
友を斬ったことが頭からはなれず、虚しくて仕方がない。
「どのような理由にしろ、弦斎さまにはその道しかなかったのでございましょう。ならば受けて立つのが武士の務めでございます。例えそれが友であれ、謝った道ならば勝たずしてどうして正義が成り立ちましょう。旦那さまは正しいことをやり抜いたまででございます」
志津の励ましで心が軽くなる。
――こういう女だから長年連れ添ってこれたのかもしれぬ。
彦左衛門は何度も反芻し、納得しようとした。
あの満月の夜、二人は対決するしかなかった。
弦斎の言葉がよみがえる。
『お前が死ねば次の標的は、小春という芸妓。 女好きの清七があのような美しい女子をただで放っておくとは思うか? 囚われ弄ばれて最期にはこの刀で死ぬ運命だ』
弦斎は清七の言う事を聞かなければならなかった。弦斎には士道館が全てだった。
士道館が鍵屋の資金で成り立っている以上、どうにもならないことだったのだ。
勝負好きの弦斎は畳の上より戦って死にたいと言うのが口癖だった。だから命を取らない限り、終わりはない。彦左衛門も武士ならば、逃げるわけにもいかなかった。
正義を貫くのが、彦左衛門の仕事なのだから。
――弦斎を追い込んだ清七を、許してはならない。今度は清七が動く前に、俺が仕掛けてやろう。まずは、清七を小春の座敷に呼ばなくては! 逃しはせぬぞ、清七め。
めらめらと闘志が燃えてきたと同時に一抹の不安がよぎった。どうやら正常な判断ができていなかったらしい。
自分は何のために、友と戦ったのだ?
彦左衛門は電撃が走ったように、目に生気が戻ってきた。
――次に狙われるのは小春ではないか!
彦左衛門はいてもたってもいられず、庭先まで歩き出した。
雲に隠れていた月の光が雲間の薄い部分から漏れていた。
――どうか無事でいてくれ。
その時、闇の中から小さく声が響いた。
「旦那、もう怪我はよろしいようで……」
自宅の庭で月を眺めていた彦左衛門の肩がわずかに揺れた。枯れた男の声には聞き覚えがある。
「銀次でございやす」
ひっそりと小声で呼びかける銀次に、彦左衛門は視線を変えずぼそりと呟いた。
「おう。なんぞ動きがあったか?」
しばらくは草一つ動かなかった。
師走の寒さが頬を強ばらせる。気がピンと引き締まる。
「旦那さま。お体が冷えます。どうかこちらへ」
志津が来る。彦左衛門は眉間に皺をよせた。
「――いえ、お顔を拝見しただけで。安心しやした」
「何があったのだ? 焦らすな」
そもそも、昼間来ればいいものを闇に紛れて来るからには、それなりの理由があるはずだ。
「小春は元気か? 吉原に顔を出しているか?」
「小春さんは仕事をお休みしてるようですね」
彦左衛門があからさまに不安な顔をしたので、銀次は言葉を継ぎ足した。
「それより面白い話がありますよ。今、吉原では鬼子母天神の噂で持ちきりでして」
「鬼子母天神?」
「桔梗楼は始まって以来の大入りもいいところだ。おテツは江戸一番の女郎を手に入れたようですぜ……旦那には関わりあいのねぇ話でございますが」
銀次は足を引きずりながら闇に消えていく。
―ー何故銀次はわざわざ女郎の噂話をしにきた?
彦左衛門はその意図が掴みかねた。そして一拍置いて、拳を握りしめた。
「江戸一番の女郎だと?」
顔の傷の包帯が煩わしくなって、毟り取った。
――そんなはずが無い。小春は身持ちの固い女だ。まして女郎になど……。
信じようとしても、心が定まらなかった。
彦左衛門が弦斎と戦う少し前から、小春の様子がおかしいのは気付いていた。毎日のように番所を訪れていたのに、まったく顔を合わせない日々が続いていたではないか。
その時、右手が急に重くなった。志津がしっかりと腕にしがみついていた。
「何をしている?」
背筋が寒くなった。志津が彦左衛門の表情を読んでいることは明白だ。
「ほら、すっかり冷たくなって……。さぁ、戻りましょう?」
志津に引っ張られるままに、彦左衛門は火鉢の前に座らされた。
火鉢の湯で温められた酒の燗がコトコトと音を立てている。そして隣で炙られた鰊の燻製の匂い。志津はそれがあれば彦左衛門が満足することを心得ている。
誘惑に駆られた。
酒に溺れれば、不安は忘れられる。今宵は志津と。そして明日、家を出て小春と暮らす。
「さ、旦那さま」
盃を薦めて、酌をする。いつもの黒漆の盃ではなく、わざわざ朱塗りを出したのは、志津が婚儀を思い出してのことだ。朱塗りの盃で三三九度をしたかったのだ。
彦左衛門は黙って三度注がれるのを観ていた。
それは偶然にも小春と呑む時に、いつか結ばれる願かけとして毎回している戯れだ。
朱塗りの盃に満たされ、水面に映っていたのは、欠けてしまった月!
畳の上に盃が転がっていた。
妻は独り、部屋に残されて、は酒にぬれた畳を拭いている。肩を落とし、すでに拭く必要もなくなったのに拭いているのだ。
開け放った廊下から冬の冷気が流れこんで、揺れていた蝋燭が消えた。
志津がうな垂れた頭を上げる。角があれば般若と見間違えるような顔であった。




