(25)悪事の末路
数日後、藪から棒に凛々しい侍が小久保邸を訪れた。
野心を胸に秘めた足取りは力強い。瞳がぎらりと輝いて、不敵な笑みを浮かべている。焼酎を断って三日。不精髭を剃って髷を結い直し、新調した紋付袴。以前の梶原源次郎とは別人のようだ。他人の小判を使ってのことであるが、今は侍としての威厳を回復していた。泥だらけの野獣は血統証付きの犬に昇格した。
源次郎が志津を訪ねるのはこれで三回目である。志津は懐から財布を取り出すと、隠すようにいくらかの銭を手渡した。
「たいそうな変わり様で、お名前を伺わなければどなたか分かりかねましたわ」
「いつもご用立ていただいて感謝しております」
「気になさらないで。これは餞別ですのよ。
梶原さまが小春の面倒を見てくださるというから、私も少しばかりお手伝いさせていただいたまで。私たちにもようやく平和が訪れました。もう二度と会うこともないでしょう。どうぞお達者で。
小春が江戸に戻らないように、仲良く暮らしてくださいね?」
源次郎は微笑んで、小久保の門を出た。志津が深くお辞儀をして見送っている。志津の瞳はまるで源次郎の野心が乗り移ったかのようだ。
玄関先での話を気にかけていた彦左衛門がよたよた歩いてきた。
「誰ぞ、客か? む? あの侍」
志津はそつなく彦左衛門の腕を取って支えた。
「少し迷われたそうで、道を聞かれただけですわ」
彦左衛門は顔の包帯の隙間から男の背中を追った。
「あの雑な歩き方、何やら覚えがある。志津、あいつは誰だ」
これ以上の嘘はかえって疑惑を招くだけだと志津は思った。
「梶原さまとおっしゃっておりました。なんでも小春さんと恋仲とか」
「恋仲?」
志津の言葉は彦左衛門の深手の傷をさらに痛ませる。
「えぇ。何しろ私たちは小春さんの親代わりでしょう? 実は挨拶にいらっしゃったのですが、旦那さまも傷癒えぬ身。夜分ですので、また後日にとお引き取り願ったのでございます。
小春さんはもう立派な大人なのですね」
「小春と恋仲。梶原? 客にしても聞かぬ名だ……梶原と長く話していたようだが?」
彦左衛門は志津に念を押した。それだけで志津の心は張り裂けそうだ。彦左衛門は志津を差し置き、小春のことを気にしている。それが分かるだけに、とどめを刺したくなる。
「今年中に小春さんを連れて陸奥に旅立つそうです」
彦左衛門はしばらく黙ったまま、志津を見ていた。その目がたじろがずにいることが、かえって不思議だった。
「どうかなさいました?」
志津は夫の真意を知りたかった。志津が戸惑うほどに彦左衛門が冷静なのは、小春とのことが遊びであったからだと思いたい。
彦左衛門はその時、記憶の糸をほどいていた。小春と関係している男の数があまりに多かったためである。
そして梶原の記憶を思い出し、鬼のような恐ろしい表情をした。
「あの男は小春を斬ろうした男だ。いくら姿を変えようとも、本性は変わらぬ。至急出かける。志津、仕度せい。小春に逢って止めなくてはならぬ!」
志津は呆然として、返事ができなかった。
――理由をつけて、堂々と逢うつもり?
「志津!」
志津は彦左衛門に縋りついた。
「まだ御身体が」
彦左衛門は腕を振り払うが、痛みと怪我が深く、よろめいた。
――そのような身体で、あの女に逢いたいというの?
志津はどうしても小春に会わせたくない。きっと離れていた倍の早さで、二人は求め合うだろう。
「志津も参ります!」
咄嗟の判断だった。
そして彦左衛門と志津の間に空白の時間が流れた。
「それはできぬ。人の命に関わることだ。それに梶原がいたら斬り合いになるやもしれん。いくら俺でも二人は守れぬ」
「斬り合いなど恐ろしい。傷ついたお身体で、まして一人でお出かけなど、心配で……」
「小春は……」
彦左衛門は志津の視線に気づき、言うのを止めた。
寒気がしたのだ。志津のそれは恨みの目だ。ぼろぼろと口から不満がこぼれていく。
「旦那さまはいつも小春、小春と……。うわ言に出るほど何度も! 志津は寂しゅうございます。旦那さまは何も知らないと思っているでしょうが大間違い。あの汚れた女が邪魔をするから……」
「邪魔をするから何をした?」
厳しい声であった。それで志津は血の気が引く想いだった。
彦左衛門が自分を見る顔には喜怒哀楽の欠片もなかった。他人事のような冷たい視線で志津の愚痴を受けとめていたのだ。
「小春を汚い女と呼び、梶原と話をした。素浪人に身なりを整えさせたのはお前の仕業か?」
志津は言い放った。
「では家を乱し、旦那を寝取る夜鷹が、汚い女ではないとおっしゃいますか!」
志津は彦左衛門に謝ってほしかった。屈服させたいだけの不満が溜まっていた。
「梶原に金をやり、仕度をさせて小春を追い出すのは汚いことではないのか? 陸奥の友に手紙を書き、士官の口利きをしたのも志津であろう?」
「!」
「やはりそうか」
志津はゾクリと寒くなった。全く見たことがない彦左衛門の姿だ。いつも安穏としている夫が、ここまで追求するとは夢にも思わなかった。
彦左衛門にはどうしても、そうしなければならない訳がある。
志津に情がある。自分の子を産み、育てあげた立派な妻だ。多少世間知らずなところがあり、そこが可愛らしくもあった。それが梶原などという素行の悪い男と話をして、身の危険が及んだのではないかと心配したのだ。
「それで志津は……身障さわりないか? あれは危険な男だったのだ」
彦左衛門はそれ以上話せなかった。真実が恐ろしくて志津の顔を見ることができない。
思い返せば、彦左衛門が寝込んでいた合間にも、志津がいないことが度々あった。最近ほんの少し、化粧をするようになり、不思議に思っていた。梶原に騙された確率は高い。愚痴をこぼしているうちに、つい人肌の暖かさに身を任せてしまったのではないかと疑った。
それを払拭する言葉が欲しい。しか返答はなかった。
志津の耳には梶原源次郎の言葉が繰り返されていた。
――何、誰にもわかりゃしねぇよ。これは同志の縁を結ぶ儀式。お互いに大事なものを取り戻そうじゃねぇか。
彦左衛門を取り戻す計画は、限りなく魅力的だった。梶原の意のままに踊らされているのは気付いていた。初めて夫以外の男と酒を酌み交わした。若い男の身体に触れることなど、もう無いと思っていた。それはとても危険なことゆえに、蜜の味であった。
それが今、ここに及んで冗談でしょうと笑い飛ばす度胸も、とぼけるほどの天然さも持ち合わせていなかった。言い訳も思いつかない。すべては彦左衛門の怒りに圧されて失敗した。
「どうなのだ。志津!」
「そんな……滅相もない! とんだ誤解にございます」
志津は誠実ではなかった。嘘をついたこと自体が裏切りだ。
彦左衛門は握りしめた拳を何度も床に叩きつけ、緩んだ傷口から再び血が吹き出した。
どうにもならない身体であった時、志津は献身的に看病し、心配してくれた。感謝もした。その裏で、志津は梶原と策を練っていた。
あふれた怒りは度を越して、虚しくなった。
「何年一緒に暮らしていると思っているんだ。お前の態度をみれば嘘か真かの判断はつくのだぞ? お前はいつも影で俺を馬鹿にしている。俺が分からないとでも思っているのか?」
「旦那さま」
絡む志津の手を彦左衛門は打ち払った。触れてほしいのではない。せめて謝ってほしい。
「それとも俺の吉原番所勤めがそんなに不満か? 俺が何も考えないとでも思っているのか? お前が小春と俺との関係を訝しがっているのは何年も前から知っている。
――だから何だ。お前の愚痴を聞き、文句も言わず扶持を入れ、真面目に働いて帰ってくる。全てお前が望んだことは叶えてやった。なのにお前は一度でも満足したことがなかった!」
「そのような!」
彦左衛門は大きく息を吐いた。言ってしまった今、もう後戻りはできない。
志津は大切な家族であって妻である。だが妻は変わってしまった。年老いて、心まで醜くなった。
「――離縁しよう」
彦左衛門は静かに背中を向けた。
「旦那さま! お許しを!」
ガタガタ震えながら平謝りする志津だ。彦左衛門は捨て置けず、横目で見た。
誰でも心の隙を付かれることはある。相手が狡猾だったのだ。騙されたのなら慈悲は必要ではないだろうか。
「志津はここに居れ。梶原は許せぬ」
それは彦左衛門の心遣いであった。二十年以上生活を共にした妻への感謝。離縁すれば、志津は職もなく貧しさのあまり飢え死にしてしまうかもしれない。




