(24)修羅場
夕刻。朱色の太陽が半分沈みかかっていた。
小春が長屋に戻ると、中から人の声がする。障子戸を開けると、奇妙で好ましくない組み合わせの男女がいた。素浪人梶原源次郎と彦左衛門の妻、志津である。
小春はその場に居る事さえ嫌悪感を感じ、立ち去ろうとした。しかし源次郎は無言で、小春の正面に立ちはだかる。腕を掴まれて、逃げることもかなわない。
「源次郎、良いお仲間ができて嬉しそうねぇ」
源次郎が小春を、部屋の中に引きずり込み、倒れたところで志津が小春の頬を叩いた。
「!」
小春は間髪入れず三倍返しで平手を出し、志津を土間に這わせた。
多少息が切れたが、この数日間彦左衛門に会えなかった不満の矛先が図らずも志津に向いた。怒りは頂点に達していて、小春は怒鳴った。
「アタシの顔は商売もんなんだ! シミだらけのアンタの顔と一緒にすんじゃないよ!」
志津も負けてはいない。掴みかかろうとすると、小春は源次郎を盾に避けるが、その上手いこと。修羅場をくぐり抜けてきた数なら小春が断然上だ。二人の喧嘩には源次郎が手を加える余地もない。
「人の旦那に手を出しておいて……この阿婆擦れ女!」
小春は涼しげに笑う。
「私から手を出したことなんて一度もありゃしません。勘違いでございましょう。彦左衛門さまと私は、奥方さまが考えるような卑しい間柄ではございませんのよ」
「嘘をつくんじゃないよッ、梶原さまからアンタの悪行を聞いた。ウチに来る前、ずいぶん派手にやってたようだね? それを神隠しなんて言って旦那に近づいて。この……大嘘つきめ!」
小春は下唇をきゅっと噛み締めて鋭く睨んだが、源次郎はニヤリと笑っている。
「遅かれ早かれ、どうせばれることじゃねぇか?」
「この悪党!」
小春は源次郎に怒りの拳を向けたが、それは簡単に受けとめられてかえって自由を奪われるだけだった。
「この辺で決着つけようや。誰が、誰のモンになるかをよ……」
小久保夫婦が元の鞘に収まり、源次郎と小春がよりを戻す。これほど理に叶った話はない。しかし源次郎の悪さを小春は痛いほど知っている。
「小春よ、これ以上小久保家に関わるな。そして奥方に謝れ」
「アタシは悪い事はしてない。謝るというなら、源次郎、あんたがまずアタシに謝るのがスジじゃないのかい?」
源次郎は端座し、律儀に頭を下げた。
「お前を置いてゆけぬ。芸妓として生きるのはやめて、妻になってくれぬか。 充分世間の辛い水は飲んだろう?見ず知らずの土地だが陸奥で、最初からやりなおそう」
普段は内心を見せない男が、全てを拭い捨て小春の前で真正直になっている。
――ずるい!
少し前の小春であったら泣いたかもしれない。
積み重なった情愛がこれほど深いとは、小春にも意外だった。彦左衛門の無事を知った後だけに、耐えられたようなものだ。
「冗談はおよしよ。アンタのガラでもない!」
源次郎は諦めない。
「三度も誘ったのはお前だけだ。俺に恥をかかすな。今度こそ本当に幸せにしてやる」
小春の両肩を畳に押し付け、源次郎が迫ってくる。
「お前と最初に契ったのは、この俺だ。夫になる約束もした。俺はお前に品川宿で客を取らせた。お前は逃げたが、それでもお前が俺のものだという事に変わりは無い!」
荒々しくも柔肌を求めて小春の懐に源次郎が手を入れた。
「やめて!」
すると源次郎の指が一枚の紙に突き当たった。
「これは?」
皺だらけの紙端を広げると、彦左衛門からの文であった。
「返して!」
小春の手を掠め、紙は志津に渡された。志津は薄笑いを浮かべ、ビリビリと破りはじめた。
「!」
小春は息を吐くことができなかった。
わなわなと震える身体を源次郎が包み込み、怪しく囁く。
「こんなに綺麗な顔をして、男なら他にいくらでも作れようものを、年寄りに惚れるとは可哀想な女だ。他人の者を盗るな。あの男のことは忘れろ。
別れないと言うなら、お前が鬼子天母神の通り名で身体売っていると、あの男に教えてやってもいいんだぜ?」
「……それは。やめて」
「分かっているさ。訳アリなんだろう。言わないでいてやるが――その代わり」
源次郎の手が小春の肌を撫で上げる。
「容赦しないぜ。ちょっと可哀想だがこうでもしないと決着がつかないだろ――愛する彦さまに見せつけてやりてぇなぁ」
志津はいつまでも高笑いをしている。
「いっそのこと呼んでしまおうかしら。性悪女の正体、暴いたり! あの人のまぬけ面見てみたいわ」
小春は恐怖に凍りついた。
彦左衛門を察するに余りある。満身創痍であるに違いないのに、心まで傷をつける気か。志津の人ならぬ言葉に鳥肌が立つ。
小春は彦左衛門に感謝している。どれだけの恩をもらい、そして愛されたことか。それをすべて壊してしまうような別れにしたくない。
「……わかった。身を引く」
「今、何て言ったの?」
志津はもう一度聞きたいがために質問した。
「あの方を傷つけるつもりは毛頭ないわ。事件を解決するまで、鬼子母天神の正体をばらさないと約束してくれるなら、小久保さまのことは諦める」
志津は勝ち誇ったように胸を張った。
小春は源次郎を押し退けた。
「陸奥にはいくけれど、妻であろうが、契らないから。もう永遠に、誰とも」
「鬼子母天神がよく吼える。娼婦が身体を売らないでどうやって稼ぐんだ?」
小春は笑えない。作り笑顔もできない。
「教えない。源次郎にはもうひとつ、頼みたいことがある」




