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吉原大門事件帳ー小春日和ー  作者: WAKICHI
江戸の花火 第五幕 月蝕
22/57

(22)満月の下で


 土を蹴る音と共に微弱な青い光が弧を描いた。月光を受けた刀は妖しい魔の光を放ち、彦左衛門を切り裂いた。千鳥足が幸いして偶然にも肩を掠った。

「ぐぉ!」

 彦左衛門は数歩下がった。それでも、やはり足元は揺れている。所詮酔いの廻った男であり、命を獲ることなどたやすいことだと男は確信した。斬る側――弦斎には、それでも良いのかという迷いがある。

 弦斎にとって彦左衛門は良き好敵手だったからである。

 共に戦い、勝負は熾烈を極めた。そして酒を酌み交わし、剣術談義に華を咲かせたこともある。それが今となって彦左衛門は竹みつを使うほどに落ちぶれ、泥酔している。かつての盟友に、そんな無残な死に方を選ばせるのは忍びない。

 しかし斬らねばならない。隙を突けばあっけないものだ。どうせ勝負になどならない。武士と武士がその場に立っていてとしても、これはただの人殺しだ。

 弦斎は満月を見上げた。人は満月を見ると興奮し、狂気の沙汰に陥るらしい。


 時は満ちた。


 ――迷うな。やるしかない。これしか道はないのだ。


 清七の声が何度も頭の中で繰り返されている。

『男を一人斬れば、それで何十人の命が助かるのですよ』

『士道館を捨てていった男に未練があるのですか? 思い出など捨てなさい。裏切り者を成敗するのに何の迷いがございましょう』

 清七の言葉を鵜呑みにしたわけではない。弦斎がいかに勝負好きとはいえ、これは苦渋の決断だ。


 ――できれば敵に廻したくなかった。だが財政難の士道館。可愛い門弟たちを路頭に迷わすことはできない。彦左衛門には悪いが、ここで止めるわけにはいかぬ。せめて武士らしく、戦って死なせてやるべきだ。どうせ俺には勝てぬ。


 弦斎は一端動きを止め、叫んでから、本気で刀を振り下ろした。

「小久保、抜け!」

 自分の一撃で決める。それがせめてもの弦斎の情けである。 

「あぁ?」

 彦左衛門の間の抜けた返事がした。

 酒が入って、いつもより目が据わっている。弦斎の言葉を聞く前から、彦左衛門は刀に手をかけていたのだ。痛みに多少猫背になりながらも、敵を見つめる瞳に酔いはなかった。

 反射神経が良かったのか、運がよかったのか。狙い違わず、上段から振り下ろされる弦斎の刃に彦左衛門は倒れなかった。眉間から頬にかけて刀が通りすぎた跡があり、顔の下半分は濡れた。顎から血が滴っている。

 しかしそれは彦左衛門の右腕が真横に払われた後のことだ。真横に胴を決めた刀身の切っ先から雫が垂れている。

「竹みつではなかったな。――それに居合か?」

 士道館では見せなかった彦左衛門の技である。上段よりも居合斬りの方が初速は早い。剣の腕が上達していたのは弦斎ばかりではなかった。彦左衛門は剣を捨てていなかったのだと確信し、弦斎は微笑んだ。

 彦左衛門は酔いと出血で顔面に手をあて、がっくりと膝をついた。

「痛ぇ……」

 彦左衛門の呻き声が暗闇に響いている。弦斎もまた倒れたが、まだ息はあった。

「誰だぁ! いったい何の恨みだぁ!?」

 弦斎は思わず笑った。

「畜生、まだ酔ってやがる」   

 弦斎は自分の愚かしさに笑うしかなかった。そういえば昔から彦左衛門は常に自分の少し前を走っていた。とっくに追い越したと思っていたのに、強い。

「この俺がただの酔っ払いに斬られるとは、驚く。なぁ――彦左よ」

 その声で彦左と呼ばれて、彦左衛門が目を見開いた。振り向くのさえ恐ろしい現実がそこにある。顔面の痛みが夢や幻でないことを告げていた。

 弦斎は立ち上がった。

 彦左衛門は視界を遮る血を拭い、闇夜に目を凝らした。斬られても堂々とした立ち姿は見間違いではない。

「彦左よ。まだ時間はある……もうひと勝負しようではないか」

 彦左衛門の闘志はすっかり消えている。その迷いを弦斎は見抜いた。

「お前が死ねば次の標的は、小春という芸妓。女好きの清七があのような美しい女子をただで放っておくとは思うか? 囚えて、弄ばれて。最期にはこの刀で死ぬ運命だ」

 清七が本当に狙うかどうかは定かではない。ただ、彦左衛門が生死の分け目にあって、小春の行く末を話されたらとても正気でいられたものではなかった。

 弦斎が血のついた刀を突き出す。


 その血が小春のものだとしたら……だが旧友を斬ることなど、どうしてできようか。


 彦左衛門は歯を食いしばった。

「その勝負、受けねばならんか? 清七を捕らえれば済む事ではないか!」

「勝負を受けよ。受けぬというなら、今から女を斬りにいく!」

 ――そうでなくては士道館が成り立たぬ。

 勝負好きな弦斎に相応しい生きざまだ。剣の道に生きた者として、小久保彦左衛門が相手なら本望だ。

 彦左衛門の肩が震えていた。

 満月が雲の奥に隠れたのは、不穏な空気を察してのことか。

 獰猛な気配が闇をさらに濃くした。

「ならぬ……ならぬ。友といえども、小春は大事な……」

 弦斎は快活に笑った。

「それでこそ彦左。さぁ、構えぃ!」

 それからは真剣勝負だった。二人の男が守るべきもののために命を賭けて戦った。


 あぁ。なんということか。

 血に濡れた友。この手で赤く染め上げねば、守り切れぬものがある。

 侍ならば、男ならば覚悟せよ。


 そして静寂が訪れた。

 彦左衛門は地に横たわり、夜空を見上げていた。隣の弦斎も倒れて動かない。

 死がすぐ隣に来て友を攫っていった。

 ――次は俺だ。この身体では、もうすぐ追い付くことになる。

 

 悪人を斬るのは、まだ正義が立つ。

 だが俺が斬ったのは、進むべき道は違えども友。

 正義も流儀も無かった。ただ、やらねばならぬと思っていた。 

 いずれにせよ、人を斬った者の行く末は地獄。

 

 雲が晴れて暗い夜空に青い光が戻ってきた。真球の満月。闇の孤独に耐え凛と美しく光を放っている。

  ……小春。


 彦左衛門が手を伸ばした。血に染まった手で、掴もうとした。どれだけ手を伸ばしても届かない。悔しさに月は滲んで見えなくなった。彦左衛門もまた力尽き、動かなくなった。



 黎明。満月はすでに西へ消えた。

 太陽の光にすべてが明るみになる。地面には赤黒い染みがいくつもあり、男が二人倒れている。何も知らずに爽やかな朝を迎えようした店の奉公人が、戸を明けた途端驚いたのは言うまでもない。


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