(21)障壁
月のきれいな晩であった。彦左衛門はめずらしく銀次を連れて居酒屋で酒を呷っていた。
「旦那、ちょいと呑み過ぎ……」
銀次は彦左衛門から酒瓶を遠ざけようとしているが、彦左衛門は腕に抱えては離そうとしない。普段は銀次の言葉を素直に受け入れるが、酒の席ではそうはいかない様子。
このところ小春が大門番所に顔を見せない。小春が桔梗楼で一席設けるというから期待しているのに、何の音沙汰もない。以前は毎日のように桔梗楼に顔を出していたのに、どういうことなのか。もしや新しく男ができたのでは? と嫌な想像をし、またそれを否定するのに疲れていたところだ。
悩みはそれだけではない。
事件はこれからが佳境。なのにあともう一歩が踏み出せない。
おテツは小春との約束を振り翳して彦左衛門を煙たがっている。けれど銀次の話だけでは桔梗楼の様子はぼんやりとしか分からない。実際、自分の足で桔梗楼に乗り込んで確かめたいのに焦らされたままだ。
「おテツの奴、清七が馴染みかどうか分からねェなんて、馬鹿げた話、どうも信じられねェ」
おテツのことだ。口封じに大量の小判を貰っているかもしれない。
「仕方ないッスよ。馴染み全部が顔をだして、自分の正体を名乗ってりゃ簡単ですがね、何せ吉原。泡銭と汚れた小判でできた街ですからね。女へ貢ぐのに顔を曝しちゃまずい男は掃いて捨てるほどおりやすから」
「やはり清七を直接桔梗楼へ連れていくしかないな」
彦左衛門は伸びきった髭をさすりながら、ニヤリと笑った。
桔梗楼で揺さぶりをかければ清七は動きを見せるはず。幸いにも、彦左衛門は清七を桔梗楼へ招くことができる。
――その場で全ての謎を解き明かしてやる。
失敗は許されないが、きっと上手くいくはずだ。手はずでは、その鍵を握るのは玉吉。種は蒔いた。あとは刈り取るまで待てばいい。
彦左衛門は一端杯を置こうと思ったが、再び注ぎ足した。
思い出すたびに、腹が立つ!
清七は俺におゆう捜しの依頼をしてきた。骸を前にして清七の悲しみは本当に深かった。それで何としても事件を解決しようと蒲郡の賭けを買ったのに……。俺におゆう捜しの依頼をしたのは“吉原の昼行灯”と呼ばれた俺なら騙せると思ったのかもしれない。
だが、そうはいかぬ。
清七よ。俺を動かしたからには、その責は負ってもらおう。
二人は店先で別れて、銀次は闇の中へ消えていった。真っ暗な夜道に提灯の明かりだけが頼りだが、その歩みは千鳥足で頼りない。
「こりゃ本当に飲みすぎたかもな。志津の叱責を買う…」
冬の冷たい風が身に染みて、ブルッと振るわせた。見上げると月が煌煌と輝いている。広い夜空にただひとつ、まん丸の月。
彦左衛門は小春の姿を思い出した。孤独で凛とした月は小春そのもの。月明かりを全身に浴びていると身も心も小春に染まっている気がする。
「逢いてぇなァ……」
遠い月に彦左衛門は腕を伸ばし、月を掴もうとする。
届いているようで、届かない。
目の前にあるのに。
いつも近くにいるというのに。
小春、お前という女は……。
身悶えするような、熱い想いが込み上げた。
――生きている。
小春を愛することで生きている実感がわく。家や志津、お役目も、小春に比べれば何の価値もない。小春が真に望むなら全てを捨てて尽くすこともできよう。
しばらくの間があった。小春に会えない切なさだけが残った。
正面から草履の音が近づいてくる。力のこもった男の足音だ。それはある目的をもって彦左衛門に近づいてきているものだ。闇の中から現れたのは体格の良い袴姿。身なりも良く背筋もピンとしていてたが、刀に手が掛けられている。酔った彦左衛門は気付いた様子もない。
「小久保彦左衛門、御命頂戴!」




