(2)桔梗桜と鍵屋清七
桔梗楼に彦左衛門が憮然として怒鳴り込むと、おテツは耳をほじって聞いているようで、実は耳を塞いでいる。
「そう言う事なら、諦めますかねぇ」
ところが小春が彦左衛門の背後からひょっこり顔を出すと、即座に動いた。
「――でも芸妓としてだから文句ないですわね?」
おテツはさっさと小春の手を引いた。
芸妓として職を得ている小春の立場もあって、返事に迷う彦左衛門を尻目に、小春はあっという間に奥座敷に連れていかれた。彦左衛門は小春と別れの挨拶さえできなかったのである。
「本当に芸妓の仕事だけにしろ」
おテツにドスの利いた台詞を吐いたが、おテツも逃げるように奥へと引っ込んでしまった。
芸妓だって金を積まれれば寝ることもある。それだけに彦左衛門の心配はいっこうに消えなかった。
おテツは奥の小部屋に小春を招いて耳打ちした。
「今日は酉の市だからね、見世でも楽しくやってやろう思ってね。見世(格子越し)で三味線弾いて歌ってくれるだけでいいから。――ただし格好は花魁で頼むよ」
小春はどきりとした。
おテツも巧妙な線を突いてくる。
「おテツさん、それであたしに小紋で来いって言ったんだね? どうりでおかしいと思ったんですよ」
「それと――万が一お客が座敷って言ったら、揚がってもらうこともある。客の機嫌を損ねたくないからね。なにしろアンタがいるだけで、客も喜ぶんだ。
給金はいつもの三倍でいいね? 三味線もうちにあるから今すぐ支度して、出ておくれ」
そう言われても小春は承服しかねた。
おテツが妖しいと思ったからこそ彦左衛門を連れてきたのに、策を練るのはおテツの方が上だった。
「おテツさん、あたしは小久保さまを裏切れません。事情はご存知でしょ?――今回だけは勘弁してもらえないかねぇ」
おテツは勿体無さそうに、口をへの字に曲げた。
「アタシャ、今日のアンタのためにと思って、尾形光琳に願い出て梅の打掛を用意しといたんだよ」
「絵師の尾形光琳に?」
「すっきりした絵でひと味ちがうんだ。――こいつは流行ると思うよ。もったいないねぇ。高かったんだよ、一度袖を通してみないかい?」
容貌の良い小春の肩に光琳梅の打掛をかけ、その気を誘っている。光琳菊で有名な尾形光琳の作品だが、梅は特注品であるに違いない。吉原のおテツでなければできない交渉だろう。
小春が苦笑していると、スイと障子が開いて一人の花魁が顔を覗かせた。この店のおしょく(№1)である。名をお吉太夫という。
「テツ、客が逃げちまう」
お吉太夫はジロリと白い目で小春を見据えた。
豪華な鼈甲のかんざしを八本つけて、金糸で眩いばかりの打掛と帯を垂らした姿。薔薇のように豪華で煌びやかだった。遠目でみれば無地かと思われる江戸小紋を着た小春とでは雲泥の差だった。
「新入りかい?」
「違います。私は芸妓です」
座っていた小春はお吉太夫を見上げ、たじろぐことがなく見つめた。するとお吉太夫は下から見られた首筋を気にして下がりはじめた。
首に痣が幾つもできているのは、何人もの客につけられたものだ。それを隠し、生娘のようにみせるために白粉が塗られている。けれど白粉が剥げた場所は、所詮女郎だという現実が浮かび上がってしまうからだ。
「おテツ。その打掛どうするんだい? まさかその女に……」
「アタシが買ったもんをアンタがどうこう言う権利はないね! さっさと顔直しといで」
おテツの声は冷たかった。
お吉太夫は障子をぴしゃりと閉めた。後から悔しそうな声だけが聞こえてきた。
「たかが芸妓風情にあの打掛は何だい! あちきの稼ぎで桔梗楼がもってんだよ!」
おテツは猶も小春に迫りつづけた。
「この仕事を受けられないってんなら、お座敷の仕事の紹介、辞めてもいいんだよ。あたしゃ、遣り手だけでも忙しいんだからね。
だいたいアンタは芸妓のくせに体張らないなんて、非常識な女だよ。それを面倒みてやってるのに。枕金断るあたしの立場も考えてほしいもんだ。たまには恩がえししてもらわなきゃ、やってらんないよ」
小春は何も言えず、ただおテツの乱射する言葉の攻撃に耐えていた。
「でも格好は花魁でも、仕事が芸妓なら、小久保様も文句の言いようがないねぇ」
おテツが笑っていた。
「おテツさん。やはりお断りさせてください」
「そうもいかないよ。このままあたしを見捨てちゃ、鬼子母天神が出てくるしかないよ」
「!」
ニヤリとほくそ笑むおテツ。
小春は下唇をきゅっと噛締めた。けれどおテツに逆らうことは職を失うことになる。
けれど花魁の恰好をしたら、間違いなく客をとらせるつもりだ。
その時、再び障子が開いて別の花魁が飛び込んできた。
「お吉のヤツ、もう我慢ならないよ。あの人はあたいのもんなのに!」
乱れた髪にたいそう肌蹴た恰好で、血のように真っ赤な襦袢を引きずっていた。
「お絹、下がっといで」
「駄目だよ。今すぐお吉を止めとくれ。でないとあたいはここから一歩も動かないよ。あの女はすぐに人の男を取りたがるんだ。根性が汚いんだよ! さァ――おテツ!」
気合だけは充分なお絹の騒がしさに耐えかねて、おテツは立ち上がった。
「わかったよ。小春、ちょっと待っといで」
部屋にひとり残された小春をみて、お絹が優しく微笑んだ。
「あんたは?」
「深川の芸妓で小春と申します」
「芸妓さんかい――すいぶん暗い顔して、あんた、女郎にでもなるのかい?」
小春が困っていることを話すと気前よく小春の手を引いた。
「おいで、逃がしてやるよ」
賑わいでごった返す廊下をどんどん進み、人を掻き分けて進むと、突き当たりの扉の前に男が立っている。隆起した筋肉を見せ付けて南京鍵を腰に下げている。それは勝手口の番人である。
遊郭の周りには堀があり女郎が逃げられないようになっているが、堀沿いに面する桔梗楼の勝手口には跳ね橋があるのだ。
「お絹、何の用だ? 仕事に戻れ」
「分かってるよ。でも人助けだと思ってこの御方を外に出してくれないかい? この人は女郎じゃない。深川の芸妓さんだよ――かなり急いでるそうだ。駄賃は弾むよ――ねぇ? 小春姐さん」
「――あ、はい」
小春はあわてて財布を出した。
「お絹さん。恩にきます」
「いいんだよ。あたいはもうすぐ岡上げなんだ。今日、酉の市で旦那が来てくれて、話をつけてくれるそうだ。嬉しいんだよ。――もし外にでれたら、あんたのところに遊びにいくからね!」
小春はお絹の笑顔で見送られ、桔梗楼をあとにした。
酉の市は鷲神社の祭礼に伴い開かれる市である。客商売の開運の神として信仰され、今も昔も同様に、酉の市では<福を集める熊手>や<人気者の顔を題材にした羽子板>など売っていた。酉の市へ向かう人々で通りは混んでいたが、小春は逆に深川へと戻ろうとしていた。
いつもは歩いて帰るのだが、今日は人が多くて、なかなか先へ進めなかった。まして着物姿で走る訳にもいかず、女の足では遅々として進まない。
その時近くで夕七つの鐘が鳴った。
――今なら暮六つのお座敷に間に合いそう。
すぐさま脳裏に地図が浮かんだ。深川までは直線で1里半程度(6キロ)歩きで帰れば2里(8キロ)はある。より早く戻るには普通は馬か籠だ。でも人の多さに馬も籠もいっぱいで乗れそうにない。それにこの人ごみでは馬も籠も真っ直ぐ進むことすら難しい。
そして隅田川へ向かって歩きだした。吉原も深川も隅田川沿岸に近い。渡し舟で帰るのが良策だ。しかも川下りなら猶早い。
吉原から隅田川沿岸に到着するのに時間はかからない。それでも小春は急いでいて、出ようとする渡し舟に慌てて乗り込んだ。
ところが川に突き出た細い板の桟橋から舟に乗り移る時に、ずるりと足首を捻ってしまい、そのまま川へと体制を崩してしまった。
「ああッ!」
渡し舟が出る。岸と桟橋が離れていく。
小春は慌て、手を前方へと伸ばした。
すると図太い腕が伸びてぐいと引っ張りあげ、小春は軽々と男の腕の中に引き込まれた。
「大丈夫ですか?」
それは船頭ではなく、客の一人であった。
「強引なお嬢さんですな」
初老ではあるが大柄で筋骨隆々の商人らしかった。装いは緑がかった鼠色で、利休鼠のという色の羽織着物だった。鼠との名のつく色は当時の流行色で、歳の割りに粋な男である。彦左衛門よりさらに年上で、長年生き抜いた風格がある。
「何とお礼を言ったら良いか。本当に有難うございました」
「いや、何の。情けは人のためならずと申すとおり、これも何かの縁でございましょう。それにしても大した急ぎようで、まさか飛び乗ってくるとは思いませんでしたよ」
男は話が終わっても、小春の手を握って放さなかった。小春は恥ずかしさに頬を赤く染めた。
「なにぶん急いでおりましたもので。七つ半には深川に戻りたかったものですから。」
「深川ですか」
男はなるほど、という頷きを見せた。
小春が一介の町人の姿をしていながら堂々として、やけに目立つのは男の目に晒されることに馴れているからだろう。
「あの、手を」
小春がそう言わなければ、男は手を離さなかっただろう。小春の女の匂いがそれほど男を惹きつけていた。
「これは失礼いたしました。妖しい者ではございませんよ。貴方が美しいので。私は鍵屋七代目清七という者」
小春はあわてて会釈した。鍵屋といえは江戸で知らない者はいない花火師である。
「大店の旦那さまでございませんか。こちらこそ失礼いたしました。私は深川で芸妓をしております。小春と申します」
「芸妓さんですか」
「芸妓といっても、三味線と長唄がぐらいしか取り柄のない女でございます」
「では一曲御願いしてもいいですかな?」
小春は頷いた。