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吉原大門事件帳ー小春日和ー  作者: WAKICHI
江戸の花火 第四幕 桔梗桜へ
19/57

(19)小春の過去



 小春が仕事を終えて置き屋から長屋に戻るのは四、五日に一度といったところだろうか。

 まっとうな女なら日々を長屋で過ごし、働くのも内職程度。四、五日も家を開けるなど問題外だ。その理由が働くためとはいえ、世間から見れば夜鷹も芸妓も大差ないのかもしれない。ゆえに小春もそれなりの誤解を受けない程度の世間付き合いをしてきたつもりだった。

 ところが、井戸端を通り過ぎようとすると、隣近所の視線が冷たい気がする。そういう視線をあびるのにも慣れているからすぐ分かる。

 特に隣の老婆のおミツは口やかましいが、面倒見が良い女だった。一人暮しで飯を炊くのも大変だろうと、やれ沢庵だの飯だの分けてくれたりするのだが、今日は愛想笑いで軽く受け流された。

「こんにちは」

 小春が去った後で、何やらひそひそ話が聞こえた。


 その意味が分かったのは家の障子戸を開けた時だった。あるはずのない男物の草履がひとつ、脱ぎ捨ててある。

 そして上がり框の先には薄汚れた黒っぽい袴の男が横になっていた。

「――誰?」

 見覚えのある背中を見て、小春はぞくりとし、その場に立ち尽くした。

「源次郎」

 小春に名を呼ばれて、男はもっそりと起き出した。あくびを一つして、ボリボリと尻を掻く。

「遅かったな。待ってたぞ」

 待っていたというよりはすっかり生活している。小春がいないのをいいことにずっとここにいたのだろう。部屋は汚れ、酒瓶と茶碗が無造作に転がっている。その先には押し入れにしまった蒲団が皺くちゃになってひいてある。

「帰って!」

 小春の厳しい声に、源次郎は素足で土間まで下りた。そして小春の手首を引っ張り、家の中へ入れると、ピシリと戸を閉めた。

 そしてそこには二人だけになった。

「勝手に上がりこんで何の用よ」

 小春の質問にも答えず、源次郎はそのまま畳の部屋へ連れ込んで蒲団の上まで小春を引きずっていく。

「痛い! ちょっと人を呼ぶわよ。――おミツさん、ちょっといい? 変な男がいるのよ」

 小春は勝ち誇った笑みを見せた

「長屋の壁は薄いんだから、すぐ来てくれる」

 源次郎はニヤニヤ笑っていた。薄汚い髭面で小春を見下している。

「誰も来ねェよ。お前のヘソクリ近所に配っといたからな。――愛する男の再会の邪魔をするなって言っておいたぜ」

 小春は真顔に戻ったが、そこで引いてはいられない。

「ちゃんちゃら可笑しいね。愛する男だって? ふざけんのもいい加減にしなよ」

 小春は尖った口調で源次郎を睨みつけた。

「ふざけてなんてねぇよ」 

 確かに源次郎の目は真剣だった。今回ばかりは源次郎の言葉に嘘がない。

 しかしその愛は本物だろうか。源次郎は小春ではなく自分を愛しているのではないか。愛でも何でも利用できるものは利用するのが源次郎の本質ではないか。

 源次郎は小春を蒲団に押し付けた。男の力ではどうしても動けない。 

「小春、また綺麗になったなァ。本当にお前は惚れ惚れするようなイイ女だ。前は少し痩せっぽっちだったが、肉付きが良くて、揉み甲斐があるぜ」

 源次郎の探る手に小春は焦った。

 まだ少女だった小春も女として立派に成長した。源次郎の魔の手から逃げようと、もがくほどにあらわになる艶かしくも白い素肌。獲物をいたぶるように、少し力を緩めてはまた狩る余裕が源次郎にはある。

「逃げられねぇよ」

 源次郎は小春を布団に組み伏せて、息が吹きかかるほどの近くで美しい顔を眺めている。

「そう怒るなよ。契った仲じゃねぇか」

 その言葉に小春の感情が一気に爆発した。

「あたしは芸妓。身体は売らないから!」

「おぉ、怖ぇなぁ」

 源次郎はふざけて笑うばかりだった。

 逃げても、逃げても追って来る死神のような源次郎。消せない過去の過ちを利用して人の心を踏みにじる!



 ――その昔。小春が武家の娘であった頃。

 幼い頃から柳橋家で秀長の花嫁として育てられた。手習いは勿論、生け花や琴。あらゆる勉強と贅沢をさせてもらいながら、柳橋家を裏切った。源次郎の暗い魅力に虜になり、婚儀の寸前で源次郎を追ってしまった。

 一瞬の甘い幻想であった。何も知らない小娘が暗く謎めいた大人の魅力に惹かれた。しかし小春の金が底を尽きると、源次郎は小春を売り飛ばそうとした。

 過ちだと気づき、小春は必死で逃げた。けれど柳橋家に戻ると秀長はこの世にはいなかった。「神隠し」に遭った小春を捜して山中をさ迷い、戻らぬ人となったのである。奇跡的に戻った小春を養父は喜んで迎え入れたが、小春は自責の念に耐えかねて家を出た。

 誰にも言えぬ秘密であった。神隠しだと純粋に信じている柳橋家の者に、男に騙されたと伝わってしまうことは尚更恐ろしかった。そしてこれは源次郎が長い間、小春を脅す原因になっている。


 小春は逃げた。その間に芸妓として生きる術を得た。追われては逃げるを繰り返し、そして今、再び捕まっている。悔しかった。そして憎い想いが込み上げた。

 たったひとつの過ち、梶原源次郎に出会わなければもっと幸せな生活を送っていたはず。

「全部あんたのせいじゃないの!」

 源次郎はニヤニヤ笑って言った。

「ずいぶんと不幸な人生で苦労してんだろ?――だから俺が楽にしてやるよ」

 源次郎は何を算段しているのだろうか。小春は源次郎を押し戻し、荒れた息で襟を整えた。

「お門違いだよ」

 なにより小春は小久保彦左衛門と出会っている。流浪の身のこんな女を、あの暖かな心で受け入れてくれたのだ。

 ――もう、あたしは逃げない。どんなに罪が深くても、その罪をしょって生きていく……。柳橋家はもうないし、アタシを縛るものは何もない。

「もう昔のあたしじゃない。どいとくれ」 

 源次郎はどこまでも頑なに自分を拒む小春の様子に、握った手を緩めた。

「そうか。もうお前も子供じゃねぇか。ちっと優しくしてやれば、味方になってくれるかと思ったんだがな」

「何言ってるんだい。あたしァ人生狂わされてるんだ。これ以上付き合うのは真っ平ごめんだよ」

 源次郎は活きのいい小春の台詞に笑みを作った。

 茶屋で久しぶりに会った時の小春は静かな美女に見えたが、こうやって二人でいると、昔を思い出す。

 小春は昔から自分の進む道を真っ直ぐに追う女だった。幸福な花嫁として家に入るよりも、広い世界へ旅立つことを選んだ。源次郎との出会いはそのきっかけでしかない。源次郎が小春を知るにつれ、その内面の強さに驚いた。

 そして年月を経て原石は宝石になった。すでに小春は源次郎から離れ自立したひとりの女である。

「冷てぇなぁ」

 ――だが、誰よりも俺はお前のことを知っているつもりだ。勿論、弱さもな。

「俺は変わらねぇ。今も昔も、お前がいなけりゃ、俺は生きた心地がしねぇ……」

 神妙な面持ちで源次郎が言うので、小春も戸惑いを隠せない。

 騙されてはいけない、と思いながらもその表情が嘘ではないことをよく知っている。何年も芸妓の仕事をしてきて、男がそういうものであると学んできたはずだ。女は男の真剣さに弱い。そして時に傲慢さを強さと見間違うこともある。

「上手い事を言って、また利用するつもりだろう? そうはいかないよ」

 そう言いつつも源次郎をまともに見ることができなかった。

 男に馴れているとはいえ、それは仕事の上での話。まともに感情を曝け出して話すと、理性で考えることが難しくなってくる。


 源次郎にしろ、騙すつもりで小春を柳橋家から攫ったわけではない。小春が源次郎の魅力に惹かれて家を飛び出したのである。狭い鳥篭から小鳥が羽ばたいたようなものだった。だから痛い目にあった原因の半分は小春にもあるのだ。

 二人の縁が切れていない事実は、小春が源次郎を断ち切れないでいる現れでもある。燻り続けている残り火のように、燃えるものがあれば、炎となって復活するかもしれない。 

「そんなんじゃねぇ。――実は陸奥で仕官の話が決まってなぁ。おめぇを誘いに来たのよ」

 小春はおもむろに煙草の入った袋を取り出した。

「ふうん」

「聞いてるのか?」

「怪しいね。あたしが家を出る時もそう言った」

 源次郎は嘘をつく。力も強いし、悪知恵も働く男だ。小春は話を聞くまいと、煙管に煙草を詰めている。

「そうかもなぁ。でも今度は本当だ。年五十石はいただける。お前ひとりなら食わせてやれるだろう。これは、小娘だったお前をそそのかした俺の罪滅ぼし。それに!」

「!?」

 ぽろり、と小春の手から煙管が落ちた。源次郎が手を抑えつけて、間近に迫っている。小春を横たわらせて耳元で囁く源次郎の独りごとにも似た言葉。

「お前と俺は夫婦同然だ」


 ――源次郎の吐息はいつも焼酎の匂いがする。


 それは小春が初めて男を知った瞬間からそうだった。

 あの時確かに小春は源次郎を愛していた。今では疫病神のような源次郎も、最初は逞しくて野性的な男に思えた。小春が初めて全てを捧げた相手だ。夢中になり、そして騙された。良いも悪くも源次郎の全てを小春は知っている。

 だから心が揺れた。

 小春は芸妓として専念するために、誰よりも強い気持ちで「どの男にも身体を売らぬ」と貫き通してきた。芸妓たちの常識でいえば、実は身体が一番で、芸は二の次ということもある。これが現実だ。良い旦那と出会えればそれだけで一生食べていける。

 それでも小春は芸を磨くことに専念すると決めた。そして彦左衛門を除いて、他の誰とも決して交わらぬ覚悟でここまでやってきたのだ。

 彦左衛門を愛することは、傷ついた自分を新しく立ち直させることだった。そんな小春を彦左衛門は暖かく見守ってくれていた。

「身体は売らないって言ってるじゃないか!」

 源次郎はニヤリと笑って言う。

「売るも何も、俺は芸妓を抱くんじゃねぇ。俺は小春を抱くんだ」

 身を乗り出す源次郎に小春は距離を置いた。

「源次郎、やめて。あたしには好いた男がいるんだ!」

「小久保彦左衛門か。妻を抱いて子を作り、守らねばならぬ家もある。お前は一生添い遂げられぬ日影の身。または親代わりの小久保家の平和を壊し、お前は彦左衛門を寝取るのか? 小久保家の幸福を願うなら、俺といる方が自然だと思わないか?」

 源次郎に言い返す言葉が見つからなかった。

 柳橋の家を壊したのに、そのうえ小久保家の和を乱すことなど、小春にできるはずがない。そう知った上での源次郎の言葉なのだ。気にしてはいけないと分かっているが、それが真実ゆえに小春はどうしようもなく孤独になっていった。

「よりを戻そうや、なぁ小春」

 小久保家の幸福が彦左衛門の幸福につながることは間違いない。


 小春は逆らうのを止めた。

 緩められる帯、白い肩をなぞる男の指。

 固く閉じたはずの心と身体を、源次郎は口先ひとつで自分のものにする。


 小春は源次郎と寝てもいいと思った。

 それで全てが上手くいくなら、この身体を利用して源次郎を操ることも考えた。小春も小娘ではなくいっぱしの女である。優しさと愛情を武器に男を翻弄することなど、たやすい。恋など上っ面の儚い幻想で、上手く男を悦ばせ、気がつけば小春の思う壷というわけだ。

 そうすることもできる。


 ――この源次郎と?


「ヨリを戻す?……源次郎、抱いたら高くつくよ。もしかしたら冥土行きの思い出になるかもしれないねぇ」

「そいつは物騒な話だな」

 思ったとおり、源次郎の手が止まった。

「んふふ。彦さまはねぇ、あんたが戦った弦斎より強いんだよ」

「あの影の薄い爺ィが?」

「それにすぐカッとなるところもあって。怒ったらアタシだって止められないんだ」

 小春は別人のようだった。憂いの美女に魔性の怪しさが加わって妖艶――男を玩ぶ余裕すら感じる。

「どうする? 源次郎。それでもアタシを抱くのかい?」

 源次郎は計算高い。昔ならばそれで引き下がる源次郎であった。

「お前こそ、俺と寝た事を小久保に聞かれたら困るのではないか?」

「彦さまがどれだけ素晴らしい御方か知らないくせに。それに出会いに別れは付き物さ」

 今でも純粋に彦左衛門を愛する気持ちに嘘はない。彦左衛門の前ではありのままの小春でいられる。それは幸福な瞬間だ。だが柳橋秀長の愛から逃げて源次郎に流れ、その末に彦左衛門まで辿り着いた。

好きだからといって全てが許されるわけではない。想いを通じようとすれば、秀長が冥土から恨むことだろう。小春は償いとして影でそっと彦左衛門を支えるべきなのだ。

「どうせ添い遂げられぬ。ならば!」

 源次郎が本気になった。真剣な顔で、小春にむしゃぶりついてきた。

「――源次郎!」

小春は波間に揺れる紅葉のように果てなく流されていく。元いた場所にはもう戻れない。

別れるならば、せめて彦左衛門の役に立ちたい。鍵屋の事件を解決し、小久保彦左衛門ここに有り、と世間に証明するのだ。

 ――彦さまに会って、いい夢がみれた。


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