(18)桔梗桜へ
月の美しい、静かな夜であった。
眠る江戸。遠くから微かな音が聞こえる。
てぃん…。てぃん…。
三味線と女の唄声。暗がりの八畳間に、蝋燭の光が一つ。背の高い男の影がぼんやりと障子に映っている。花田征四郎の屋敷であった。
征四郎は旗本の若武者。未だ将来は定まらず、今日も家に留まっている。後継の兄が三人おり、家も安泰となれば、そう急くこともない。浮き雲のような毎日。
膝元には膳が置かれ、鱈を焼いた皿の他に小鉢が三つ。冬大根のおかか和え、鳥と南瓜の煮物、ぬか漬け。そして鰭酒。寒さが染み入るような夜であっても、酒と女と長唄があれば、ほろ酔いで暖かい。
征四郎は青鼠色の着物は普段着で、ゆったりとくつろいでいる。一間ほど離れて、蝋燭の光も届くかという距離に芸妓が端座している。白塗りの顔と三味線をひく手が暗闇に浮いて見える。
「そなたも一杯どうだ?」
静かに三味線を脇に置き、暗闇から抜け出すように現れた美しい女。弱々しい蝋燭の光に照らされた男と女、そのほかは闇。二人だけの濃密な時を過ごす。
小春は微笑んで杯を受け取る。そして顔色ひとつ変えずに一気に飲み干した。征四郎は負けじと三回ほど小春と酒を酌み交わしたが、堂として揺らがず、征四郎が悲しくて泣いた。
「今宵も私の膝枕で泣くおつもりですか」
「大丈夫だ。――それほど酔うておらぬ」
酔いが廻っても醒めても征四郎は少し寂しげであった。
「征四郎さま? いかがなされました」
「小春に逢うのもこれが最期になるかもしれぬ」
「何ともつれないお言葉ですこと」
小春は征四郎の手に指を絡め合わせた。
「奉行所からおゆうを殺したかと審議され、妙な噂が立った。そのせいで評判がガタ落ちじゃ。父上は年明けに地方に俺を飛ばすことにしたそうだ。――俺は何も悪いことはしてないのに!」
征四郎の語尾は怒りに満ちている。
「何とも理不尽なお話にございますね。幸い、吉原大門番所に小久保彦左衛門という捕り手がおります。その者がきっと征四郎さまの無実を証明してくださるでしょう」
「吉原を見張るだけの下っ端役人ではないか」
小春の眉がキッとつり上がった。僅かな理性で場を保とうとしているが、微笑むことは難しかった。
「小久保は年内にもこの件を解決するつもりで奔走しております」
「年内とは。もうすぐではないか」
「とても有能な方でございます。女には優しすぎますが」
「信じて良いのだな?」
小春はにっこり頷いた。
「一度逢ってお話してみてはいかがでしょう? 場は小春が設けさせていただきますわ。その前にひとつだけ伺いたいことがございますの」
小春の細い手が征四郎の腰にぶら下げた印籠を差した。
「俺の酔い覚ましに興味があるのか? 芸妓は酒を飲むのも商売だからな」
小春は苦笑い。さすがに素直に話してくれそうもない。
「根付けでございますよ。以前、前のものが気に入っていたとおっしゃっておりました」
「何のことだ? 憶えておらぬぞ」
「では、これはご存知でしょうか」
小春の掌に木彫りの毘沙門天がある。
毘沙門天とは仏法を守る四天王の一人。鎧や兜をつけ、矛を持ち、力強く構えている。桜の木で彫刻されて、小さいながらも丁寧に作られている。これは土産物の類ではなく、名のある工芸師が作ったものだろう。
征四郎が明らかに真顔になる。
「とても精工な品でございますね。根付にするにはもったいない。作者名も彫ってあります」
「……。それはおゆうにくれてやったものだ。なぜ小春が持っている」
「小久保さまからお預かりしております。亡骸の傍にあったそうです。小久保さまは、毘沙門天を持つならば、お武家さまのほうがよろしかろうと」
征四郎は根付を握りしめ、半泣きになった。
「――あぁ、おゆう。とても寂しがったというのに。毘沙門天を持って亡くなるとは。苦しかったであろう。
酉の市の朝、急な用で出かける俺に、何かひとつ、いつも身につけているものをくれと言われ毘沙門天をくれてやったのだ。おゆうは『毘沙門天は、俺そのもの』といった。これを身代わりと思って待つ、と」
「征四郎さまはおゆうさんに愛されていたのですね」
「なのに俺は疑ってしまった。浮気しているような気配もあったが、夫婦になる前のことだ。いろいろあってもおかしくない。ある友人の冗談を聞くまでは、おゆうも好いていてくれるものだと疑わなかったのに」
「冗談?」
「家紋のついた印籠そのものなら話はわかる。ではなく、印籠に紐で繋がった根付だ。勇ましい振りをしているが、実は家紋にぶらさがっている、ただの飾りよ。――俺は花田のぶら下がり者だ」
「本当におゆうさんがそのようなことをおっしゃいましたの?」
「どうかな。もう聞けぬ。あれは我侭な女であった。真実は根付けを欲しがった」
征四郎は酒を呷って、そしてすこしだけ涙ぐんだ。
「いけねぇな。しょっぱい酒になっちまう――ほら、小春も」
小春は注がれた杯を飲み干しながら征四郎を見ていた。征四郎の瞳はまっすぐだ。浮気をされようが、何を言われようが、彼女を受け入れてしまうほど征四郎はおゆうが好きだったのだろう。このような男がおゆうを殺すはずがないと小春は確信した。
彦左衛門は吉原大門番所へ小春と銀次、そしておテツを招いていた。仕事を中断されたおテツは居心地が悪そうに部屋の隅に座っている。
「いつまでこんなトコで待たせるんだい。儲からない匂いがシミついちまうよ」
「わざわざ悪いなおテツ。でもな、お前のためを思って番所にしといたんだぜ」
おテツは、少しドキリとした。
「あたしゃぁ、何も悪いことはしてないよ」
「――だといいが」
彦左衛門はおテツの顔をなおも見つめた。じっと見つめられれば勘違いしそうな熱い眼差しだ。
「何だいジロジロ見て。気持ち悪いよ」
おテツは鼻を鳴らして彦左衛門の視線を避けた。
「おテツ。桔梗楼で何かあっただろう?」
「知らないよ。何にもありゃしないよ!」
「最近お吉の姿が見えないが、どうした? 稼ぎ頭のお吉がいなきゃ、お前の懐もさぞ寂しかろう?」
彦左衛門が顎で銀次を使うと、銀次はおテツの巾着財布を取り上げた。
「あたいのだよ! 触らないどくれ!」
嫌がったおテツが巾着を引っ張ると、重すぎた袋が破れ、小判が雨のように降り注いだ。急いでかき集めるおテツに彦左衛門は不敵な笑みを浮かべ、落ちていた一枚を差し出した。
「不景気な割に、随分金まわりがいいじゃねぇか?」
おテツは不機嫌そうに彦左衛門から小判を奪い取った。
「何疑ってんだか知らないけど、これは支払う金だよ。明後日は浅草寺で羽子板市だろ? 今流行りの押し絵羽子板を作らせたんだ。板に描いただけのより、ふっくらして飛び出てる感じが本物に近いだろ? ――こりゃ絶対売れるとアタシは踏んでんだよ。
それでうちのお蜀の図柄で羽子板にしてさ。店に飾る分と、あと市で売って一儲けしようと思ってたくさん作ったんだ。その支払い代金だよ」
相変わらずの手腕を発揮するおテツに感心して小春と彦左衛門は視線を会わせた。
「ところがどうだい。肝心のお吉は突然いなくなっちまって、こちとら大損だよ。慌てて名前のところだけ朝霧に変えたけど、顔はお吉のまんまだから通な客は買いやしない。
どうせ売れやしないだろけど、代金は支払わなくちゃならないからねぇ・・・・・・」
おテツの泣き言は嘘とも思えない。
「誰かから口止め料じゃねぇのか?」
銀次はおテツに顔を寄せてきたので、おテツは軽くはたいてやった。
「調子に乗るんじゃないよ! 疑うなら店に来るがイイさ。たっぷりと羽子板の在庫を見せてやるから!」
彦左衛門は興奮するおテツをなだめた。
「……金の件は分かった。でもお吉が消えた理由をお前が知らないはずないだろう? なんなら取り調べしてやってもいいんだぜ」
彦左衛門の含み笑いは隠し立てすれば厳しい拷問が待っているのだとのメッセージだ。これにはおテツも不服そうに頷いた。
「――仕方ないね。恥になるから言いたくなかったのに。特に銀次あんたにはね。ちょっと耳をお貸しよ」
おテツは彦左衛門の耳元で囁いた。
『実はお吉に逃げられたんだよ』
彦左衛門はその日の女郎の出入りを書いた書面を調べたが、お吉が吉原を出たようすはない。銀次は吉原のどこかにいるとの一点ばりだ。
「まったく目付けときたら、女が化粧を落とすと誰が誰だか分からなくなるらしい。お蜀だから逃げやしないだろうと信じて警護を薄くしたのが悪かったのかねぇ……」
「目付けの責任じゃねぇぞ。吉原から出た跡はねぇからな!」
銀次もおテツもふて腐れてしまっている。視線を合わさない。彦左衛門は帳面を出して読み始めた。
「時は酉の市の翌日だ。堀に浮かんだ女の亡骸。首を締めた後があり、顔は焼かれている。亡くなったのは鍵屋清七の三女、おゆう。鍵屋清七が亡骸をおゆうだと確認した」
おテツはつまらなそうに襟を正した。
「またその件かい。あたしには無縁だね。何か関わりがあるのかい?」
彦左衛門は続けた。
「金品目的で殺されたわけでもない。後日、鍵屋に「天誅」の張り紙があり、鍵屋に恨みを抱く者の犯行とも思える。おゆう個人に関して大きな争いごとは見当たらない。
酉の市の少し前に許婚の花田征四郎と喧嘩をしているくらいだ。その裏には鍵屋の番頭、玉吉との浮いた噂があったと思われる。
最期におゆうを見たのは、酉の市当日。おゆうと武士が吉原近辺を歩いていた証言がある。花田征四郎はその朝甲州に出かけている。それ以降、おゆうを見た者が居らず、翌日亡骸になって発見される。
鍵屋の者は花田征四郎の元にいると思いこんでいたという」
彦左衛門は帳面を置いて小春を見た。
「酉の市の翌日、暮れ六つ、俺と小春は弦斎と清七に会った。
あの時は誰かを探す素振りなど微塵もなかった。前日の朝からあの時まで大店の娘が帰ってこないなんて、かどわかしかと思うのが普通だろう。必死で行方を捜すのが普通ではないか。なのに、どうして捕り手である俺に会っておきながらひとことも言わなかったか」
おテツは笑った。
「二人はまだ、おゆうさんがいないことに気付いていなかったんじゃないのかい?」
「娘がいないことに気付かずに吉原に遊びに来たと? それほどの遊び人ではないぞ。正確に突き詰めれば、それどころではなかったということだ」
「何か、事件が起きてたんですね! 娘よりも大事な誰か。…奥方はいないから……恋人?」
銀次が喜々として彦左衛門の答えを待った。
「かもしれぬ。もしくは娘の所在をすでに承知していたかだ」
銀次は頷いた。
「酉の市におゆうが武士といたというのも気になりますね。その武士とは誰でしょう」
彦左衛門は鼻で笑った。
「だから聞いたよ。弦斎に酉の市に行ったかってな。奴は返事を拒んだ。行ったとも、行かないとも言わずだ」
おテツは笑った。
「幻斎は清七に気をつかっているんだねぇ。娘がいなくなって、実は殺されているかもしれないその日に、まさかオンナに会いに通っているなんて知ったら世間体が悪いもんねぇ」
銀次は耳をほじりながら、話半分で宙を見つめている。
「銀次、俺らが清七とあったのは夕刻だ。今から吉原が再開するって時に、吉原から帰る客がどれだけいる?」
「そんなもんいるかよ。みんな女と遊ぶために来るんだ、よほどの急用か、肝っ玉のちぃせぇ奴なら別だけどよ」
「でも実の娘さんですもの。内緒で探していたのかもしれません。おゆうさんを最期に見たのが吉原ならば、可能性のあるところは全部行ったのではないでしょうか」
彦左衛門はしばらく目を瞑ったままだった。
「自分の娘がいなくなって、親が吉原を捜すか? 貧しい家ならあるかもしれんが鍵屋は大店。門の閉まった吉原を捜すより、普通は浅草寺あたりを捜すだろ?
どちらにしても清七が吉原の者に会ったということだ。そしてお吉がいない。お前なら知ってんだろ?」
彦左衛門の視線はおテツに向かっていた。
番所の隅で煙草に火をつけているのを見られたおテツは不機嫌そうだ。時は金なりで、時間があったら桔梗楼に戻って仕事をしたいのである。
「見方を変えれば解けない謎も解けるってもんだ。お吉は外に出た。ただし、顔のない骸になってな」
小春はすこし驚いた。
「あれがおゆうさんではなく、お吉さんだとおっしゃるのですか?」
「酉の市から翌日までおゆうはどこにいたと思う? 生死は別として、女が隠れるのに一番最適な場所は吉原だ。そして同時期にお吉も姿を消した」
小春とおテツは見合わせた。
「清七さんが勘違いしたのかしら?」
「所詮水死体なんてのはな、身内だって判別不可能だ。着ている服が娘のもんだったら、これは自分の娘だと思っちまうだろうよ。ぶよぶよに水を吸って、しかも顔はぐちゃぐちゃとなりゃ当然だが、これでは確証がない。
ホトケは土の中で腐ってやがる。だから生きている人間の口を割るしかねぇ。……おテツ、桔梗楼に上がらせてもらうぜ。協力してくれるな?」
「捕り手が?」
おテツは眉間を寄せていた。無言でも露骨に嫌だと顔に書いてある。
役人が十手を振り回して楼を歩かれては、見る間に客は寄り付かなくなる。だからこそ目付けの銀次であって、こういう時にこそ活躍してもらいたいものなのだ。銀次としてみれば、余計な火の粉が降り掛かってきたようなもので、今更出番はないだろうと気配と姿を消そうとしている。
おテツは窮地だ。このままでは桔梗楼、商売あがったりだ。小春が救いの手を差し出した。
「せめてお忍びで潜入してみればいかがでございましょう? 井筒屋さんと朝霧さんの引き合わせも近いことですし、その際は小春も同伴いたします。約束、お忘れではないでしょうね」
「又吉は俺が行ったら嫌がるだろう?」
小春の気持ちを察しての言葉だ。先日彦左衛門が仕事の邪魔をしたばかりである。もう一度同じような状況になるのはいかがなものか。
「……小春と一緒ではお嫌ですか?」
吉原の女たちと彦左衛門が深く接触することに、小春は警戒感を強めていた。信じてはいるが、それ以上に女は狡猾な生き物だということを、彦左衛門は理解していないと思う。吉原の女たちは彦左衛門に取り入るためなら何でもするだろう。彦左衛門の人の良さに付け込まれたくはないのだ。
小春のなかで、母性と情念の炎が燃え上がっている。
――誰にも渡したくない。!
「何があろうとも、小春はついて参ります」