(17)吉原参り
日本橋の井筒屋に二人の姿があった。熟年の役人小久保彦左衛門と紅葉ように艶やかで憂いをもつ芸妓、小春である。
井筒屋の三男、又吉は月に何度か小春を呼ぶ常連客だ。
小春に“ぞっこん”で、余る財力を盾に小春を妾にしたくてしかたがない。小春の弾く三味線や長唄に興味はなく、専ら酒の相手として脇に置いてチクチクと男女の付き合いをするのが好きらしい。
小春はその座敷に彦左衛門を同行させようというのである。その先に生まれるのは嫉妬か、怒りか。いづれにしても波乱を呼ぶ怪しい雲行きであった。
何よりも好きな事に夢中になると我を忘れる彦左衛門である。
「小春が又吉さまと仲良くしても、決して御怒りにならぬよう。『これも仕事』でございますから」
小春はどこかで聞いたような台詞で釘を刺す。彦左衛門は吊し上げを食らった気分だ。吉原の女郎に会いに行くと話していたことを相当怒っている。
「どうして俺が一緒にいかなければならんのだ。仕事の邪魔にならんか?」
彦左衛門の呟きに小春は微笑んで黄金色に光る小判を見せた。
「これは前金。又吉が桔梗楼のお蜀の馴染みになってもらったら、あと二両はひこさまのものですわ」
「おおっ!」
彦左衛門は俄然燃えてきた!
では又吉と共に桔梗楼へ行くのかもしれない。丁度いいことに桔梗楼には用事もある。うまく誘えば金も手に入り、一石二鳥だ。
「――ただし」
「?」
「ひこさまが、小春のお座敷でひと言でも喋ったら、これはお渡しできませぬ」
「話せない?」
「ご機嫌をとるために必要なことですの」
彦左衛門は快諾した。小春の乱行に多少我慢すれば、金は手に入り、小春の怒りも収まるかもしれない。
井筒屋の豪華な庭が見える席に有名絵師の壮大な屏風が飾られている。彦左衛門はその屏風の裏で、待機している。浪人扱いのような、武士の面目もない対応だ。
部屋に入る時に見たが、豪華な膳がひとつあった。他に客の姿は無く、会席の余興ではないことに不信感を抱いた。聞き耳を立てていると、隣奥の部屋には豪華な布団が敷かれてあるという。
彦左衛門が二枚並べられたの屏風の隙間から必死に覗いている。つい指を差し入れて隙間を大きくしようとすると、ミシッと擦れる音がした。小春が少し笑った気がする。
「小春ぅ。何であんなのを連れてきた!」
又吉はやきもきしながら小春の袖を引っ張った。
小春は又吉にピッタリと寄り掛かり、又吉の出す杯に酌をしながら微笑んでいた。色気の漂ううなじと、横顔を見ているだけで、彦左衛門は誘われてしまう。けれど流し目のその先にいるのは又吉で、屏風向こうで我慢するする彦左衛門など、どこ吹く風の侍か。
凛として百合のように歩く小春とは思えないほどの変わり様だ。客を相手にする時は女っぽく、しっとりしているように見える。
「あのお侍は用心棒にございます。つき纏いがおりまして困っております」
又吉は肩をビクリと振るわせた。
「ご安心なさいませ。ただの置物でございますよ。それに又吉さまは、見られる方が燃えるほうでしょう?」
小春の手が又吉の頬をぐるりと撫で、顔をグイと鼻先まで持ってきた。胸元に忍ばせた匂い袋が又吉の鼻をつく。脳髄を突く良い香りが漂っているし、一寸先に真っ赤な紅をのせた唇がある。又吉は餌に飢えた魚のように目をぎょろぎょろさせ、あたりを見回し、口をパクパクさせ、重ね合わせる機会を窺っている。
「小春ぅ~。今夜は泊まってくれ~!」
彦左衛門はじりじりと胸を焦げつかせ、額から汗が噴き出てきた。ちゅうちゅうと口を吸って楽しむ又吉と小春の熱い姿を想像しただけで、今すぐ怒鳴りこんで『やめろ!』と言いたくなる。
これのどこが『仕事』だというのだ!
小春の奴、いつもこのような危ないことをしているのか? 男なんぞ考えていることは皆同じ。
三味線も長唄も分からぬ青二才が金の力で小春をどうこうしようなんて許せぬ。
小春も小春だ。吉原で女遊びという名目はついたが、本来は聞き込みのため。なのに客と仲良くしているのを見せつけて、どうしてほしいのか。
又吉が接吻の流れのままに小春の肩に手をかけ、そのまま後に押し倒した。
「又吉さま。それはいけませんわ」
小春はもがいたが、又吉はめずらしく強気だった。
「小春は俺のもんだ! 今宵こそ一緒になろう!」
彦左衛門も我慢の限界だった。
――ああっ 俺の小春!
小判やら吉原に行くやら、そんなことはどうでもいい。この場に乗りこまなかったら、ただの腑抜けだ。その時小春が振り向いて、彦左衛門の目が合った。
彦左衛門は憤怒の表情で屏風を蹴飛ばし、仁王立ちになった。
「小春!」
どこまでが小春の作戦であって、どこまでが危機であったのか定かではない。ただ彦左衛門は小春のすがるような瞳があれば、すぐに本気で駆け付ける。
彦左衛門の睨みだけで又吉は命の危機を感じた。
「ひいいっ!」
坊ちゃん育ちで修羅場を知らない末っ子、しかも甘えん坊となると侍に食ってかかる根性もない。斬り殺されるかもしれないと思った又吉は恥も外聞もなく、股を開いてフンドシを覗かせたまま呆然と彦左衛門を見上げていた。
組み伏せられた小春は、すぐにでも彦左衛門の胸元に飛びこみたかった。又吉も今日は真剣に迫ってきたので、小春の足はすくんでしまっている。
それでも小春は目を瞑り、襟を正し、そして軽く微笑んだ。今は甘えてはいけない。
こっそり彦左衛門に礼を言った。愛おしい気持ちは心の奥に秘めて、愛と芸を売るのがこの仕事。
「これが女子の仕事でございますゆえに、どうかご容赦下さい」
勢いよく彦左衛門の背中を押して廊下へ出すと、障子をピシャリと閉めた。くるりと着物の裾をなびかせて、又吉の正面で深く頭を下げた。
「場を白けさせてしまいましたお詫びに、桔梗楼にて特別な一夜にご招待いたしましょう。新しいお蜀、朝霧。武家の出で、上品な方でございます。きっと気にいられます。勿論私もお座敷で盛り上げさせていただきます」
「桔梗楼か。しばらくぶりだ。お吉も気の強い女子じゃったが……。今度は姫のような高飛車なのも、良いかもしれんなぁ」
小春と又吉は仲良く小指を絡め合わせた。
「約束でございますよ?」
又吉が喜ぶ様子に小春も微笑んだ。
水は低いほうへと流れていく。美味い話には誰もが飛びつくが、理由もないのは怪しまれる。
男と女で酒と宴。日が昇れば忘れてしまう夜に「桔梗楼へ」と願い出て、相手が愛想よく引き受けたとしても所詮は泡のような会話。しかしこのように一つの事件になれば、よもや忘れたとは言うまい。小春の招待となれば尚更だ。これで又吉を朝霧の元に送ることもできる。
それに彦左衛門も痛痒に感じたに違いない。当然だ。
小春は吉原の女の悲しみの深さを知っている。そして彦左衛門がその悲しみを誰よりも分かっていると思っていた。だから冗談にしろ、女遊びは許せなかった。
吉原の女は愛を売らなければ生きていけぬ。その心は傷ついて血を流している、それでも女は笑うのだ。男の前で。
――生きるために。
見返り柳を過ぎ去れば
あぁ格子越しのやるせなさ。
吸い付け煙草に誘われて
飽きなく続く男たちの吉原参り。