(16)桔梗桜
深夜の吉原である。
じゃらり、じゃらりと金属の硬い音がする。金棒を引き摺る夜回りが各部屋の前を通り過ぎてゆく。
一階の廻し部屋は最安であったが、ひと部屋を屏風越しで二組の客が蠢いていた。ずいぶん居心地の悪い相部屋である。遊興というよりは、欲求を晴らすだけの場でしかない。
夜回りは女の呻き声に欠伸をしながら、朱塗りの階段を上った。二階からは三味線の音や女のかん高い笑い声が時折聞こえる。二階の廻し部屋は蒲団だけしかないが、ここでは二人きりにはなれる。客も女と遊ぶにはこれくらいの金子がなくては吉原に来る意味がないだろう。
だが、ここは遊郭。三階からが稼ぎ場である。
最初に登楼する客は初会、二度目は裏返し、三度目からはお馴染みと呼ばれる。遊興費も鰻のぼりであるが、もともと遊ぶために来ている客なので上限などない。
夜も更けて、芸妓を引き連れてのどんちき騒ぎも終わり、高座にいた花魁が一人寝する客の各部屋を廻って、宴の後の楽しみにふけっていた。麻でできた草履の音がするたびに、馴染みの客はついに自分の部屋に来たか! と心躍らせるのである。
花魁もかけもちで客の相手をしている。遣り手に大金を払って、ベッピンの花魁と縁を結ぼうとしても、花魁は歯牙にもかけず、つれないそぶりで顔を見せただけ、という場合もあるから切ない。当てがはずれて年の食った冴えない安女郎を買い、それが意外に人情深く、客の心を捕らえることもある。
桔梗楼でも、そのような日々が繰り返されている。
師走に入って、桔梗桜に朝霧という女郎がお蜀(売上№1)となった。
まだ若く美しい娘であるのは当然だが、元は武家の出だったという噂があって、上等な女を抱けると引っ張り凧であった。朝霧の草履のバタバタと歩く音だけが、静かな夜の廊下に響いている。
芸妓の小春は仕事を終え、置き屋に戻ろうしていたところであった。そこで朝霧とすれ違い、腕を掴まれた。
幸い、二人の他に廊下には誰もいない。
「ちょいと頼まれてくれるかい?」
「はい?」
「おテツが言っていたけど、本当に綺麗な顔をした芸妓だねぇ。――もちろん礼はする」
そう言いつつ、小春の袖の下に小判を差し入れた。
「!?」
「前金。あちきが外に出れないのは知ってるだろう。こういう時は芸妓に頼めって言われたの」
女郎である不自由さには同情するが、金で人を動かそうと思っているあたりはおテツに似ている。小春は不服だったが、朝霧は花魁らしく鼻の高い態度で、小春の気持ちなど気にもかけない。
「こんな大金で私に何しろとおっしゃるのですか?」
朝霧は小春に耳うちした。
「ある男をここに連れてきて欲しいんだよ」
「ある男?」
「お吉の旦那だよ。お吉がここんとこ顔ださないから、あたしの馴染みにしておきたいのさ。あの人がアタシについてくれれば、ここのお蜀はずうっとアタシのもんになる。それにはベッピンさんの芸妓さんに誘われて連れてきてもらうのが一番さ」
野望剥き出しの朝霧は、この世界で生きていくには丁度良い逞しさなのかもしれない。
「何も私でなくても」
「――使えるモンは何でも使う!」
女郎として体を張って生きていく以上、ここで一番になることが夢の舞台なのだ。豪華絢爛な着物を着てお蜀と呼ばれ、楼で働く者全員から大切に扱われれば天国だろう。それに良い旦那を見つけて、岡上げしてもらうことも不可能ではない。
だがその夢が破れれば、終いには年のいった端女郎になって終わる。ヒイヒイ泣きながら詫びを乞い、肺病や性病に苦しみながら借金だけがかさむ地獄の世界が待っている。
蜘蛛の糸のように頼りないたった一つの救われる道。「生まれては苦界、死しては浄閑寺」が通例で、他に行きつく場所などないのが吉原である。悲しくも切ないこの世界を切りぬけるには強くあらねばならないのだろう。
態度は気に食わないが、朝霧は今、お蜀だ。この願いを断れば、座敷の数が減ることは必至だ。それに不自由な女郎の願いを無視するわけにもいかなかった。
「できるかどうかは旦那さま次第ですが、分かりました。一応やってみましょう。――で、どちらの旦那さまをお連れすればよろしいのですか?」
「日本橋、井筒屋の末っ子三男坊、又吉さ」
またかと小春は呆れたが、確かに知らない仲ではない。今月に入って、井筒屋に行くのは三回目になる。とくに又吉は小春にぞっこんで、小春が推薦すれば、喜んで朝霧の馴染みにもなってくれるだろう。けれど、朝霧がそこまで事情を知っているはずがない。
「これもおテツの入れ知恵? そんなことをしてお吉さんが怒ったりしないのかい?」
小春の問いに朝霧は不思議な顔をして微笑んだ。
「お吉は戻りゃしないよ。あの女は消えちまったからね」
前にお吉に会ったのは酉の市だった。あの時は元気だったのに、何があったのか。
「消えたとはどういうことでしょう?」
「医者のところに行くっていったまま、戻らなかった。言葉通り消えちまったのさ。病気だったのか、逃げたのか、それとも逃げようとして拷問の挙句に殺されたのか。誰にもわからないけど、おテツだったら何か掴んでるかもしれないね」
* * *
師走も中ごろになって、寒さも厳しくなってきた。
火鉢にあたり、綿入れを着て襟巻きをしても、寒さには限りがない。つま先にはすっかり霜焼けができてしまい、痛痒くてしかたがない。
そんな寒い日、彦左衛門の上役の蒲郡が番所を訪れていた。
思わせぶりに帳面を広げながら、彦左衛門に近づいてくる。
「あの件はどうだ?」
「あの件? 何のことでございましょう?」
「随分のんびりとして、忘れたか――それとも諦めたか? 事件帳を見せてみよ」
蒲郡の偵察に彦左衛門は堂として、揺るがない。
「いえ、まだ。できておりませぬ」
「何? 半分くらいは書けておろう?」
その声は怒りを含むはずだが、若干嬉しそうに聞こえる。
「まだ書いておりませぬ」
「一枚も?」
蒲郡は呆れたというか、馬鹿した笑みを年上の彦左衛門に対して見せた。
「それは可哀想に……」
同情とも思える言葉の裏で蒲郡は賭けの勝利を確信し、影で微笑むのだった。
――昼行灯の小久保彦左衛門。やはり才能の無い男よのう。
蒲郡は要件だけ済ますと、足どりも軽やかに番所を去っていく。彦左衛門は腰を低くしてお辞儀をしていた。見送る姿を見た銀次が察して近づいた。
「ちょいとまずいんじゃないですか?」
彦左衛門は飄々としていた。
「あぁ? 調べが進むのと、帳面に書くのは別の問題だ。何度も描き直しするのは性に合わねぇ」
彦左衛門は番所の奥に戻り火鉢で手を温めなおすと、懐から半紙を二つ織りした分厚い束を取り出した。
「これが“下書き”よ」
彦左衛門は畳の上に一枚ずつ、時間ごとに並べはじめた。当日の主な動きと事件が六畳の部屋いっぱいに広がったが、ところどころ隙間が穴のように開いている。
「ここが不明なところだ」
特に大きく畳が現れた部分は酉の市のおゆうに関するものだ。
征四郎は酉の市に行っていないという証言と、おゆうと侍が歩く姿を見たという証言の紙が重なっている。
「俺が思うにこの侍は別の人物だ。――征四郎はおそらく無関係。それよりも、銀次、酉の市頃に桔梗で妙なことが起こらなかったか?」
「桔梗楼ですかい? おテツも金に緩くても、こういうことにゃ口の固い女でして。こういうことは関係者のおいらより、桔梗の女郎に直接聞いたほうが、いいんじゃないですかい?」
銀次は彦左衛門に調べを頼まれていたことをすっかり忘れていたが、うまくごまかせて、心の内でほっとしていた。
「お前は俺に女遊びしろというのか? それこそ吉原の昼行灯ではないか!」
彦左衛門は思わずニヤリと笑ってしまった。遊ぶことには賛成だが、世間体は悪い。男として興味をそそられるのは本能で仕方のないことだ。つい腕を組んで本気で考えていたところで、障子がカラリと開いた。
「ひこさま!」
小春の声が響いたので、彦左衛門は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
これが妻の志津であったなら、うまく言い包めることもできただろう。だが相手は芸妓の小春。全てを見抜かれている上に、扱いにも慣れている。彦左衛門の浮気心を見通すことなど、一声聞けばそれだけでピンとくる。
――このままでは痴話喧嘩になる模様。
銀次はトバッチリを食らわぬようそっと場を離れたが、それを追えるほど彦左衛門に心の余裕はなかった。
「小春、これは仕事じゃ。許せ!」
神仏に祈るように彦左衛門は正面で掌を合わせたが、小春のつり上がった眉は簡単には下がらない。彦左衛門が聞き込みとはいえ、女郎屋で遊ぶなど小春にはもってのほかだった。
小春が愛した彦左衛門の暖かさ。心が熱を失っていく。
――吉原は女にとって地獄。それを同苦してくれたのはただ一人、彦左衛門だけだ。その彦左衛門がよりにもよって、女遊びとは!
「許せませぬ。」
小春は下唇をきゅっと噛んで、寡黙になった。
「そう言わずに、なぁ。小春ぅ――このように反省しておろうが」
彦左衛門の差し出した手を小春は振り払った。
「嫌でございます。吉原の女にうつつを抜かすなど、そんなのはひこさまではございませぬ!」
小春が駄々を捏ねるのは珍しい。それも男の遊びに嫉妬してのことだ。嫉妬されているということは、まだ自分も捨てたものではない。美しい小春が、自分のことを好いているという証でもあるのだ。
そう思うと可愛いものである。小春は彦左衛門を一人占めしたいのだろう。
「俺は俺じゃ。どうすればいいのじゃ」
「吉原へ行く際には、小春もついて参ります。決してお一人でなど行かせませぬ!
それと……」
「まだあるのか?」
「今からお座敷に付き合っていただきます!」
彦左衛門はいとも簡単なことだと思ったが、小春には思うところがあった。