(13)天誅
道すがら、小春は征四郎とのことを彦左衛門に話していた。
「征四郎はおゆうが死んだことを知らず、鍵屋が探していた時は不在だったと? そんな都合の良い話……。それで、二人が最期に会ったのは何時と言っていたんだ?」
彦左衛門が聞きたかったのはその件だ。そのために小春を花田家の屋敷に忍び込ませたのだ。
「それが……泣き出しちゃって」
小春は少し困った顔で彦左衛門を見た。
「泣き出した? 小春、怒ったのか?」
「いえいえ。泣き上戸なんですもの。意外とお優しい方で、鍵屋さんで付き纏いと言われていたのが嘘のようでした」
豪腕の武士、征四郎がめそめそ泣いている姿を想像すると、彦左衛門も思わず笑みがこぼれたが、これでは確たる真相は掴めそうにない。
「おゆうさんを殴ったことも一度きりの過ちで、反省していたみたいだし、最近ではおゆうさんが違う男の人と遊んでいたようなことをおっしゃっておりました」
彦左衛門は顎髭を指でさすった。近頃の若い女は判らぬものだ。
「信じられん」
「どちらのことです? 清七さま? それとも征四郎さまですか?」
小春は彦左衛門と手を絡めながら無邪気にはしゃいでいた。志津から受けた、当てこすりの縁談話に対抗すべく、彦左衛門の肌に唇を押し当てた。
「これ小春、何をする。紅が落ちてしまうぞ?」
「愚かな女とお笑いください。今だけでも残しておきたいのです。ひこさまが奥方さまのもとに帰ったら、あたくしのことなどきっと忘れてしまうでしょうから」
潤んだ小春の瞳はもの悲しくも美しかった。かえって彦左衛門の方が罪悪感を覚えてしまう。
「忘れなどせぬ。考えすぎて忘れる暇もないわ」
彦左衛門は小春を黙って抱き寄せた。
――小春が愛おしい。誰よりも。
容姿の美しさもあるが、その瞳に惚れている。男であり武士であるから口に出して言うことはないが、この街で女がひとりで生きていくのは厳しい。それでも芸妓として力強く生きていこうとしている有志の瞳だ。
それを助け、守ってやりたくなるのは彦左衛門だけではない。
「ひこさま。鍵屋さんが見えてきましたよ」
小春は彦左衛門と結んだ手をほどいた。暖かかった小春の手の温もりが消えて、冬の冷たい風が指の隙間を抜けた。
「お邪魔いたす。清七殿はおられるか?」
暖簾を潜ろうとした時、小春の足がピタリと止まり、その瞳が上方に吸いつけられた。
「お? 小春。何じゃ」
驚いた彦左衛門も同じ方向を向き、一転して眉根を寄せた。
外の看板近くの高い場所に白い半紙がひらひらとしている。
「何が書いてある?」
針のように尖った棒が柱に食い込み、紙には『天誅』と書いてあった。
「ふざけおって!」
彦左衛門は背伸びして、その半紙を取ろうとして一瞬躊躇った。
「なんだ?」
半紙を刺していたのは女の簪だ。
「これは小久保さま。何事でございますか?」
清七が急ぎ足で奥から出てきた。彦左衛門は軽く会釈し、簪を差し出した。
「これに憶えは?」
清七の手はわずかに震えていた。
「これは亡き妻の形見……いや、今となっては妻とおゆうの形見でございます。妻が亡くなって以来、おゆうは肌身離さず身につけておりました。てっきり吉原の堀に流されたものだと思っておりました」
彦左衛門はもう片方の手にある半紙を清七に見せた。
「この簪で看板近くに刺さっておったぞ。背が高く、力の強い者でなければできぬことだ。心当たりはないか?」
清七はふらふらとその場に座りこんでしまった。小春は清七の肩に手をまわして宥めるが、その言葉も耳に入る様子も無い。
「お前はどのような恨みをかっているのだ?」
「恨みなど……見当もつきませぬ!」
清七はその想いのままに、拳を激しく何度も土間に打ち付けた。天誅など、滅相もない。彦左衛門は口を堅く結び、小春と目を合わせた。
「旦那さま、奥で少し休まれたらいかがでしょう。どなたか、旦那さまに白湯を」
清七は小春に寄りかかりながら、奥の座敷に引っ込んだ。
彦左衛門はまわりの喧騒に気にとめず、黙ってその二人の様子を眺めていた。そして再び顎鬚を指で摩りながら、屋敷の裏にまわった。
――狙いはおゆうではなかったのか? おゆうが死んで終わりではないとしたら清七に対する恨みなのか?
「何故蒸し返す。目的は何だ?」
彦左衛門は井戸の周りで野菜を洗う下女に目をとめて話しかけた。お篠は四十くらいの、口の軽そうな女で、すぐに返事が返ってくる。
「殺されたうえに顔を焼くなんて酷すぎるよ。でもね、いいとこのお嬢さんが外に出てばかりいるからそういうことになるんだよ。女は家で働く生き物だってのに! やっぱり男に恨まれたのかもねぇ」
「そんなに出かけていたのか?」
お篠は頷いた後、微笑んだ。
「あれは絶対に男がいたんだと思う」
「男?」
「鈍いねぇ。べっぴんさんだよ? 男が放っておくわけないだろう。この界隈じゃ有名だったんだから」
「おゆうはそんなに綺麗だったか?」
「そりゃあ、もう。あの大きな目で見つめられたら、神さま仏さまでも放っちゃおかないよ。ご立派な花田さまが許婚じゃ、誰も手だしできないはずなのにねぇ」
「何か見たのかい?」
お篠は頬に手をあてて、含み笑いで首を傾げた。
「あたしゃ厠に行く途中で、つい覗いちまったんですよ。お嬢さんの部屋の前を通ると、冬なのにちょいと障子が開いていたんだ。男の声がして。最初は旦那さまかと思ったんだがどうも声が若い」
小久保はふんふんと軽く頷きながら袖の下から小筆と半紙の端切れを取り出し、筆の先をぺろりと舐めて何やら書き足した。
「男の声? それは花田征四郎?」
お篠はあたりを見まわすと、小久保に手招きをした。こっそり小袖で口元を隠し、耳打ちした。
「――なに?」
お篠は声が大きいと彦左衛門を窘めた。
「間違いないよ。花田さまは豪快な男だもの、いくら色恋沙汰でも、あんな優男の話し方はしないだろうよ」
「顔は見たんだろうな?」
小久保は帳面からチラリと目を外し、お篠を見た。
この女、たまたま見ただけと言っているが、ちょくちょく覗いていたに違いない。どうみても噂と詮索好きだ。
「その小袖、ちょっと地味じゃねぇか。最近の反物は金糸だの、縫いだのご禁制の品が出まわってるのになァ。あんなご禁制ひくから、うちの番所にゴロゴロしててよ、処分に困ってんだ。何せうちは吉原大門番所だからな。贅沢な反物がごっそりだ。ちょいと用立ててやってもいいんだがな?」
お篠は少し間を置いてあいまいに頷いた。
「ええ、でも……はっきりとは」
――もうひと押し。
「玉吉……だと思う」
彦左衛門は伸び始めた髭を手で擦りながら、暫く黙っていた。
「では話をきかなくてはな」