(12)呪縛
江戸の町の片隅。
ある青年に対して、呪術師は卑怯な笑みを見せた。
「呪縛とはまじないをかけて人を動けなくすることである。だが呪縛するには、実は奇術も魔術もいらぬのだ。呪いによって心を縛る。――すなわち呪とは言葉そのもの」
青年は鳥肌が立った。
人は誰でもその気にさえなれば、呪縛できるのである。
――あな恐ろしや。恐ろしや。
善き事か、悪しきことか。言葉の使い方もまた、人の心次第なり。
* * *
彦左衛門の屋敷を小春が訪れるのは酉の市以来であった。
塀に囲まれた小さな屋敷。門と庭があり、武家としての面目を保っている。どれも先代が築いたもので、彦左衛門の扶持では維持していくだけでやっとだ。妻の志津が足袋の内職しているおかげで家計が保たれている。そんな生活であるから、志津も洒落込むことなく子供を三人産んだ。腰や腕はすっかり太くなり、逞しく強い女になっていた。
小春が銀次から連絡で屋敷の前で待っていたのに、志津に見つかり家に招きいれられる。
「まぁ小春ちゃんじゃないの。そこは寒いでしょう。どうぞおあがりなさい」
酉の市の時は小春が案内役だったので一見して大人しく見えたが、今日は彦左衛門の屋敷である。自分の陣地に敵を招き入れるようなものだ。小春は顔には出さないものの、針山を登るような心境であった。
志津は小春を見て、正直羨ましいと思う。若く張りのある肌。丹精な顔立ちに薄化粧。頼りなげで静かな女の香りがただよっている。。
志津は小春を、火鉢の前へ案内した。
「奥方さま、宜しゅうございますか?」
「は?」
志津が訳も分からないままにとりあえずした返事に、小春は煙管を取り出し粉の煙草を詰める。
「失礼いたします」
やがて真赤な紅からほんわりと紫煙をあげた。志津は女が煙草を吸うなど考えたこともなかった。せいぜい歌舞伎役者の挿絵程度であり、女が煙草臭いなんて信じられない。
「煙草っておいしいの?」
小春は落ち着こうとしただけで、話かけられると思わなかったのでドキリとした。
「ええ。まぁ」
「あー。あたくしも戴けるかしら?」
小春は張り合おうとする志津を止めたがきかなかった。志津は嗅いだこともない煙と臭いに思わず咳込んで顔をしかめた。小春は苦笑して煙管の先をコンと火鉢で叩くと、ポロリと煙草が落ちた。
「立派なお屋敷でございますわね。それに奥方さまも粋な方で、小久保さまはお幸せな方でございますね」
咳き込みながらも笑う志津だが、内心穏やかではない。
――まるで何もないような言いぐさ。二人の関係を知らないとでも思っているのだろうか。もし小春が親友の娘でなかったら、塩を撒いて追っ払ってやるのに!
これが志津の本音である。
小春が憎いのだ。彦左衛門の人の良さに付け入り、夫婦の間に割り込んできた。その美貌としたたかな欲望で、小久保の門をくぐり、志津が二十年かけて作り上げた家を荒らしている。
――主人と何の話があるのか知らないが、いけしゃあしゃあと用を済ませて帰るつもりだろう。許すまい。ただでは帰すまい。二度と逢えないようにしてやる。
志津は平静を装いつつ何事もなかったように薄茶を入れた。
「小春ちゃんは幾つになったの?」
彦左衛門の親友の忘れ形見。粗末な扱いをすれば、主人の怒りを買う。言葉は選ばなくてはならない。慎重に、且つ効きめのある言葉を選ぶのだ。
「やだ、志津さまったらいつまでも子供扱いですのね。私も、そういつまでも若くはありませんのよ」
「小さい頃からの知合いだもの。私の子と同じよ」
その頃から志津の心は穏やかではなかった。
小春が初めて小久保の家を訪れたのは十三だった。その若葉のような美しさは素朴ながらも絶品。横に並んだ志津の娘は里芋みたいだった。その美貌からかどわかしに遭い、奇跡的に戻ってからは彦左衛門が常に傍に置くようになった。彦左衛門は大事な預かりものだからというが、それだけではない女の直感が働いた。
志津が小春に一線を引くようになったのはその頃からである。
「女が長屋で独り暮らしなんて危ないわよ。早く良い旦那さまを見つけなきゃ。いい人を紹介してあげる。日本橋の井筒屋に……」
志津は大事なところで話を中断せざるを得なかった。小春の長く吐いた煙草がけむってきたのである。
「結構です。私、誰とも所帯を持つ気はございませんのよ」
小春は志津が煙を嫌がっていることに気が付かないようだ。にっこり優しく微笑んでいる。
――この女、わざと煙を?
志津は激情を抑えることができず、立ち上がった。
「いいえ! ちゃんとお嫁に行ってもらわないと、亡きお父様への面目が立ちません!」
いわば結婚話の押し売りである。小春は志津の言い方に策謀の臭い感じた。あたかも「それが小春のため」と言わんばかりに説得に出た。
「年をとった芸妓なんてお終いよ。だから若いうちに相手を探してあげるわ。苦労して殿方に媚を売らなくても、もういいのよ」
小春が断るなら、帰ってきた彦左衛門の口から直接、結婚話を持ち掛けるように仕向けてもいい。かえってその方が面白いかもしれない。彦左衛門の女癖の悪さにとどめを打つことができる。
「日本橋の井筒屋が嫌なのは分かるわ。江戸じゃ芸妓で顔が知れてるものね。だから遠いけど、常陸のお武家さまとの縁談があって……実は小春さんのこと、もう話してあるのよ」
もう小春の思う通りにさせない。これを期に二度と旦那に近づかないようにさせてしまえばいい。田舎の武家に嫁がせれば、二度と江戸に戻ってこられまい。
志津は勝利を確信していた。
小久保の家にいる以上、主導権は私にある。これだけ話せば断る理由もないだろう。そして小春は断ることもできずに、旦那さまと離れ離れになる!
志津はその場に立ち、小春を見下ろしていた。
もっとがんじがらめにしてやるわ。もう身動きがとれないでしょ? 妻を甘くみるんじゃないわよ。
小春は立ち上がり、志津と正面から視線を合わせた。
「志津さま。私のような芸妓の仕事をしております女は、たいていの殿方には魅力を感じなくなってしまいますのよ。ですからお心遣いはご無用。お話は御免こうむります」
小春はピシャリと言い、志津の脇をするりと通りぬけて玄関に向かった。
――やった。勝ったわ。あの女、逃げた!
志津は名残惜しそうな顔を作ったが、半分は歓喜の笑みでほころんでいた。
「小春ちゃん、帰るの……?」
小春は黙って戸をあける。すると、そこに彦左衛門の姿があった。
「おう、小春、遅くなってすまん」
小春は彦左衛門の太い腕に抱きついて、寄り添った。
「随分待ったんですよ!」
志津は小春のことに夢中で、玄関の彦左衛門に気付かなかったのである。旦那のお出迎えは志津がすべき事だったのにしてやられた!
志津はわざと余裕ぶって彦左衛門を座して出迎えた。
「お帰りなさいませ。旦那さま。上がってお茶でも……」
「志津、せっかくだが時間がないのだ。これから小春と鍵屋にいってくる」
小春は優しい笑みで、志津に立ったままで会釈した。
「じゃ、そういうことで。」
小春の笑みが憎い。けれど彦左衛門は志津の気持ちに気付いていない。
――こんなはずじゃなかった。
二人を見送った志津は、縛られたように動くことすらできなかった。