(10)負けられん
吉原の高い壁は先の尖った鉄柵が上向きになっている。その向こうに薄紫色の三階建ての木造建築。屋根に桔梗紋様の鬼瓦がある。
「ひこさま。小春は今から桔梗に向かいます」
彦左衛門は小春の手を取って、別れを惜しんだ。
「実はなぁ、――なぁ小春」
役人とはいえ彦左衛門も武士である。しかも髷に白髪が混じる年だ。それが芸妓の金を毟るなど、面目丸潰れもいいところだ。武士は食わねど枝楊枝。そんな言葉もある時代である。決して恰好のいいものではないが、頑としてこの賭けを降りるつもりはなかった。
「奉行所は『花田征四郎はお咎めなし』でこの件を解決するつもりだ。下手人が誰か判らないというのに、このまま放っておくことはできん。清七の無念を晴らしてやりたいのだ。だから俺は猶予を貰うことにした。年内中にこの件を解決しようと思う。だが、それには金がいる」
「?」
「賭けたのだ。そうするしか期間を延ばす方法がなかった……」
彦左衛門が肩を落して吉原の堀を見つめている。
おはぐろどぶと呼ばれたこの堀は女郎を閉じ込め、町娘おゆうが浮かんだ場所。彦左衛門とて女が酷い目に遭うのは見ていられない。だがそれが原因で小春に金を借りなければならないのも悲しいことである。
小春は懐から財布取りだし、そのまま彦左衛門袖の下に入れた。彦左衛門の武士としての威厳を傷つけたくないのだ。
「では小春も賭けさせていただきます」
「!?」
本当は賭けなどしたくなかったが、賭けにしておくことで彦左衛門も心が軽くなることだろう。
「下手人は花田征四郎ではない。そうね、吉原の者。いかがでしょう? お受けになられますか」
「何故、吉原なのだ?」
「簡単に言えば直感。ここが吉原の堀だからでございます。もし下手人が花田さまであったり、この件が解けなかった時は、お返し願いますわよ」
小春は鮮やかな紅の唇で微笑む。楽しく話せれば何でも良いのだ。賭けたつもりなど全くない。ただ彦左衛門の心の負担が軽くなり存分に活躍できるならとの思いである。
その小春の想いが分かるからこそ、言葉遊びでも彦左衛門は心を射止められてしまうのだ。
夜の吉原、仲の町通りを彦左衛門は歩いていた。
蝋燭で照らされた金屏風。見世に花魁たちが並び、客引きも華やかであった。
格子越しに編み笠の隙間から覗く者、きょろきょろと落ち着きなく見回す者。好みの女を物色し、やり手にことづてを頼む者、あるいは花魁の持つ火のついた煙草を乞い、耳もとで囁いて駆け引きを楽しむ者。いづれにしてもいかがわしい。
桔梗楼の店先では客引きの声がする。
『吉とでるか凶とでるかぁ! キッキョウ楼の花魁の新顔、朝霧天神だぁ。皆様ご覧あれ!』
彦左衛門は近くの茶屋に入り、小春の仕事が終わるのを待っていた。
夜も更け、真暗な江戸の町を一人で帰らせるのは危険であり、それを彦左衛門が心配してのことである。黙って待っているうちに、目付けの銀次がひょっこり顔をだした。
「旦那が茶屋にいるとは珍しいこともあるもんですな」
銀次は足を引きずりながら、彦左衛門の正面に座った。
吉原の中のことはおおよそ銀次が取り仕切っているので、彦左衛門がわざわざ何かをしに来ることは滅多にないことだった。いわゆる彦左衛門は目の上の瘤で、銀次の仕事の邪魔になるようなものなのだ。
「お前は急がしいみたいだな」
「そらぁ、これが本職ですからね。旦那は?」
「暇って訳じゃねぇ。この間の、顔を焼かれた女のホトケの件が残ってる。頼んでいた件は分かったか?」
「――あ? あれですかい」
吉原の女で行方不明が何人いるか調べておけと頼まれたが、適当に調べていたので報告するのが遅くなっていた。
「それがはっきりしねぇんで。あっしの予測じゃ二人いる。だけどみんな病気だと言ってごまかしやがる。仕打ちが酷くて死んだのを隠したいんだ」
「そうか。まぁいい。ありがとよ」
銀次は彦左衛門が礼を言ったので内心ほっとした。
「あのホトケどこの女なんでしょうね?」
「――それはわかった。隅田川の花火師鍵屋清七の娘、おゆうだ」
「じゃ、吉原の女じゃなかったんですかい?」
銀次は目を丸くした。
「ああ」
おゆうを最期に見たのは酉の市。それからホトケとなって見つかるまで丸一日ある。その間にどこで何をしていたのか。
吉原か。それとも江戸の街か。もし吉原ならば、誰かがおゆうが隠れるのを手引きしたか、吉原で殺されて隠されたかということだ。
「下手人が郭の中の者かどうかは分からんが、吉原とおゆうには必ず何かある。妙な話があったら連絡をくれ」
「かしこまりやした」
銀次は簡単に返事をして笑った。愛想良く返事をしたものの、現実は毎日数えきれないほど痴話喧嘩や騒動が起きており、細かいことなど気にしていられないものだ。銀次はまたしても調子よく相槌を打っただけであった。それを知らぬ彦左衛門でもないが、吉原といえば銀次。彼の助けなくば事を成せそうにない。
「じゃ、あっしはこれで」
銀次は多くの用事を頼まれるのは御免蒙りたいので、早々に座を立った。
「おう。宜しくな」
彦左衛門は薄茶をすすりながら考え、最期には頭を抱えた。
蒲郡のせせら笑いが聞こえる気がする。どうせお前には無理だと言っているように思えるのだ。
――負けられん。
謎が多いが、まずは花田征四郎である。おゆうと一緒にいるのを吉原で見かけた者がいる限り、征四郎の関与は拭い去れない。
だが真実を知ろうにも、一介の役人が旗本の花田家に手を出すことは難しい。門前払いを食らうのが関の山である。しかも当の征四郎はあれ以来屋敷に篭もりきりで、外に出たようすがない。
それでも事件の真相に近づくには、まずこれをどうにかせねばなるまい。
彦左衛門が足りない知恵を絞ろうと苦戦していると、小春が名月のような笑みで肩をポンと叩いた。
「ひこさま。お待たせいたしました」
小春の美しさにはどんな男でも癒される。いい女だ。
その瞬間、彦左衛門の頭に計画が浮かんだ。