(1)酉の市
かなり前に描いたものです。懐かしくなってアップしてみました。
本堤に出でくるところが衣紋坂で、吉原の入口である。その道端に痩せ細った柳が一本あった。見返り柳と呼ばれ、吉原大門口の目の前にある。
遊び帰りの客が後ろ髪をひかれつつ、この柳の下で振りかえっていた姿から、その名がついた。
吉原遊郭。男の夢と幻の都、ひと時の恋に想いを馳せながら、ここを去っていく。
きぬぎぬの うしろ髪ひく 柳かな
見返れば 意見か柳 顔をうち
見返り柳の正面に、遊郭の番所があって、郭の役員や目明かしなどが詰めていた。郭の取締であり、事があれば関所のような役目もやっている。
そこに勤める小久保彦左衛門もその一人だった。ただし彼だけは役人である。
最近配所変えにされた彦左衛門。現代でいえば天下りのようなものだった。特に仕事らしい仕事があるわけでもなく、現場のことは下の者がすべて滞りなく済ませてくれる。大事件さえおきなければ、安逸とした生活を送れるはずだ。
ところが、年に何回か吉原にも違う風が吹くときがある。十一月の酉の市には、多くの門が一斉に開放されるのだ。今日だけはどこからでも出入り自由で、大引けなしの終夜営業であった。
噂に聞く吉原を一度は見物したいと思っている町の女房や娘達が、今日だけは恥ずかしがらずに見物に来ていた。
この日ばかりは祭礼のようなの混雑で、吉原でありながら、遊郭らしくない一日である。
十五メートルある仲の町通りは土が踏み固められ整然として、木造三階立ての豪奢な瓦屋根の日本家屋が並んでいた。庶民の素朴な干乾びた板張りの家の概観とは違い、純白の塗り壁や艶やかな細工の入った瓦屋根だけでも、庶民にとっては夢のような街に見えただろう。
通りを歩く客の多くは徳川幕府の城を守る侍たちであった。地方の藩から幕府を守るために番兵として遣わされたのだ。知らぬ土地、江戸で単身の身は寂しいものがあったのだろう。彼らの遊び宿としての遊郭が出来たのは当然なのかもしれない。
仲の町通りには一応小料理屋、一杯飲み屋などがあるものの、やはりほとんどが遊郭であった。
間口十間(18m)もあるような大きな店の外側は格子になっている。奥には金屏風があり赤い毛せんを敷いて、女たちは皆そこにいた。
打ち掛けを着て、おしろいつけて座っている。ずらりと並んだ花魁や女郎たちを格子ごしに見るのは壮観であった。あれやこれやと好みの女を物色しながら練り歩く男たちに花魁たちは声をかける。
「そこのお侍さま。煙草はいかが?」
猫なで声で煙管を差し出し、あれやこれやと手を使って楼の中にひきいれようとする。
「まずはゆっくり。話をしましょうよ」
肩ぎりぎりまで開いた襟足から見える白い豊胸の谷間が客を誘っている。
女郎たちも今日は稼ぎ時で、新しい客を捕まえるにはもってこいの日であった。
普段は番所から離れ、吉原をふらついている彦左衛門も、今日は番所の奥で閉じこもっていた。白髪交じりの曲げをきっちりと結い、番所勤めの着物の上に黒無地の綿入れを着ている。
何しろ冬である。寒さも本格的になってきたので、手を揉んで火鉢に手をかざしていた。
仕事ははなくとも酉の市。人が多ければ事件も起こりやすかろう。こういう時に不在では面子が立たないから。そんな理由で今日は勤めに出た。
けれど通る人の多さには呆れるばかりで、番所が一番快適だ。外に行けば気に食わない部分も目に入ってしまうので、番所にいるほうが良い。
吉原で女を買い、遊びにきた訳でもなく、ただ興味本意で女郎に白い目を向けて笑うのはどうも納得がいかないのである。
だから妻と母には「やめろ」と言ったのだ。それでも酉の市と新しい職場を妻と母がのぞいてみたいという。自分が吉原を案内することはないし、女が遊女を見て何が面白いのか。豪華な衣裳と派手な朱塗りの建物がいいのか? 「遊郭は女が来て楽しいところではない。楽しいのは男だけだ」と言いつけたのに、彦左衛門の意思を無視して、来るという。
元来、江戸の女は一生のほとんどを自宅で過ごしている。買い物に出かけてみたり、外で遊ぶことはほとんどない。食料も反物もみな配達してくれるし、仕事は家ですることばかりだからだ。こういった祭りの時でなければ出かけることもないので、吉原を見てみたいのだろうが、出歩くことがないわけだから、当然道など右も左も分からない。
妻と母が知っている者で、吉原を案内できる者がいないかと聞くから、それを小春に頼んだ。
芸妓の小春ならばしょっちゅう出歩いているし、旨い店や出来の良い簪売りも心得ている。小春の立場からすれば酉の市は掻き入れ時で、妻と母を相手にする時間はないだろうに、この役を引き受けてくれたのはひとえに彦左衛門のためであった。
「小春、大事ないか?」
年末の酉の市ということもあり、夕刻になると、今年最高の盛り上がりを見せていた。他の町では酉の市もお終いだが、ここ吉原ではこれからが稼ぎ時である。今夜は大引けなしだ。明日の朝まで女郎たちは寝ずに掛け持ちで客の相手をする。
彦左衛門も一日番所に篭もるのにも飽き、仲ノ町通りを歩いていた。それを追うように小春が歩いている。
小春は芸妓だが、吉原には馴染みがあり顔もきく。彦左衛門も小春の働きには一目置いていた。それに見た目も凄く良い。例えれば中秋の名月。闇を祓うほどの美しさだ。
「ヒコさま。置いてかないでおくんなまし」
雑踏の中で一人先に進む彦左衛門の節くれた手。それを小春は握り、指を絡め合わせた。
「人が多くて敵いませぬ。奥方さまは無事に帰れましたかねぇ。」
小春の心遣いに彦左衛門は鼻息をフンと出した。
「来るなというものを。言う事を聞かぬ女など放っておけば良い。心配など無用だ。小春だって今日は掻き入れ時であろうに。煩わしい用事を頼んでしまったなぁ」
彦左衛門の声は優しかった。役人でこんなに優しい言葉をかけてくれるのも彦左衛門だけだ。所詮、芸妓など町人以下の扱いが普通だった。
「いいんですよ。ヒコさまの頼みなら、いつだって歓迎でありんすよ」
小春は頑張って案内をしていたのだが、やはり相手が小春だと面白くないらしく、帰りの案内までは断られてしまったのである。嫁姑にとって、小春は知らぬ仲ではないが、好んで付き合っていない。
何よりも小春の美しさは妖艶で、道すがらの男衆が振り返るたびに、驚くやら呆れやら。道案内のために女三人並んで歩くにしても、美しさの比較対象にもならない。小久保彦左衛門の妻と母という公な立場の割に、案内されなければ右も左も分からぬ状況では、どうも歩が悪かったのである。
おかげで彦左衛門は小春と会えた。それだけで上機嫌だった。
「小春、今夜は忙しいだろうから明日の晩はどうだ?うまい物を食わせてやろう」
「ええ。喜んで。」
彦左衛門を見上げた小春が笑うだけで、ぞくぞくした。
明日の晩が楽しみだった。家には幕府の御用で帰れぬとでも言っておけば良いだろう。本当は泊まって二人でゆっくりしたいところだが小春にも仕事があるし、何しろ彦左衛門も家庭持ちだから分別は弁えねばならない。何とも残念だが、次があると思うとそれも楽しみのひとつ。
小春の足が遠のき、絡めた指が離れる時が来た。
「では小春は桔梗楼に寄って参ります」
「桔梗楼?」
桔梗楼は中店の女郎屋である。ここの遣り手のおテツはかなり面倒な女で奇策を練っては儲けをあげていた。この人物には彦左衛門も注視していた。
「ええ。おテツが顔見世だけでも頼むというので」
彦左衛門は早足をピタリと止めた。
「お前、店に出るのか!」
いくら酉の市で人手が足りないからといっても、小春は芸妓だ。誰かと枕を共にする可能性があるだけでも黙認するわけにはいかない。
あからさまに顔色が変わる彦左衛門を小春は軽く笑った。
「ヒコさま。なに客引きの三味線程度でございますよ。おテツが上手く仕事を割り振りしておりますから、間違っても引き合わせ部屋には参りませぬ」
それでも彦左衛門は首を縦にふらなかった。
「あのやり手ババァ、油断ならねぇ。客が小判一枚でも上乗せすりゃぁ、その約定は簡単にひっくりかえるだろうが!」
彦左衛門は腹の虫がおさまらない。小春を心配しての怒りであるだけにそれが嬉しくもあるが、勢いは止まらない。
「でもおテツにはお座敷の口利きを頂いていおりますので蔑ろにはできませぬ。お偉い方からのお口添えがあれば、別なんでしょうけどねぇ……」
小春は頬に手をあて、困った素振りで上方を見上げた。
口端の片方が僅かに上がったが、彦左衛門は見ていなかった。すでにその足は桔梗楼向かって進んでいたのである。
「おテツめ!」