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夏に降る雨  作者: お菊
本編
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1


 7月も終わりに近づき、梅雨も明ける頃だというのに、大粒の雨が降り続いていた。

 じめじめとした湿気は、暑さに紛れて肌にまとわりつく。

雨のやむ気配はなく、灰色の厚い雲が空を覆いながら山の向こうまで続いていた。

 大学のテストが終わり夏休みに入る時期、今年は母方の実家がある長野へ長期の滞在をすることになっている。

 夏休みは9月の半ばまであり、実質二ヶ月の間祖父母の家で過ごすことになるわけだが、それには理由があった。

 祖父母は大正の頃から続く老舗の旅館を営んでいる。しかし数年前から祖母が体調を崩して、経営のほとんどを祖父一人で行っているのだという。

老舗ではあるが大きな宿ではなく、一日三組限定という定員つきの宿で、母の兄である南雲晴彦とその娘の彩乃が今は手伝いをして成り立っていた。

 嫁いできた彩乃の母親はだいぶ前に病気で亡くなっていて、それ以降宿へ出入りなどしたことのない彩乃が手伝いをするようになったと聞いた。

従姉であるにも関わらず、離れて住んでいることから、話をすることはほとんどない。

 夏休みを祖父母の家で過ごすことになったのは、長期の休みをどう過ごすか決めかねていた俺に、宿の手伝いをすればお小遣いが出ると母に言われたからだ。

久しぶりに訪れた由緒正しい宿は、広葉樹が建物をぐるりと囲んで、手入れのされた松の木がどんと構えている。

大きな道から外れて小道を入り、昼には何種類も鳥の鳴き声が聞こえて、夜は都会のビル明かりなど一切届かない田舎にあった。




 持ってきた荷物は、大きなリュック一つに収まるものだけだった。

 宿の仕事を手伝うためだけにきた俺に、必要なものなどそう多くない。

制服のようなものはあるときいているし、食事も三食つくという。

宿のまわりに商店など見当たらないし、買い物をするわけでもない。

下着と若干の着替えさえあれば二ヶ月の間、生活に困ることなどないだろう。

課題のレポートは、空いた時間にすませられるものが1つある程度だ。

 降り続いている雨から荷物を守ろうと、持っている傘を後ろの方へ傾ける。音をたてて傘に勢いよく落ちる雨粒にうんざりしながら、急いで日差しの下まで走り込んだ。

 〝蓬林庵〟と墨で書かれたさほど大きくない表札があり、レトロなガラスを拵えた引き戸のある場所が表玄関の目印だ。

 子供の頃に蓬林庵へ母親ときていた頃は、建物の裏から入ることがほとんどで、そちらがメインの出入り口だと勝手に勘違いしていたときがあった。

 表は裏口の倍も大きさがある両開きの玄関であったし、裏の下がり口はセメント埋めであったけど、表はきれいな石が埋め込まれた玄関だっにも関わらずだ。

 雨から逃れた俺は、傘の雫を気にしながら中の様子を窺った。

 呼び鈴らしきものは外にはなく、ガラス越しに奥を覗く。

「裕希か?」

 駆ける音に次いで雨音と混ざりながら、呼び掛ける声を後ろに聞いた。

 聞き覚えのある男の声で、すぐさま傘をたたみながら隣へ走り込んでくる。

 はいているジーンズの足元は水を多く含んで、色が変わっている。

雪駄のような履き物で、俺のように靴の中までびしょ濡れということにはなっていないようだった。

「晴彦おじさん、出掛けてたんですね。ご無沙汰してます」

 多少息を切らしていたものの、すぐにそれを整える初老の男性は、短く切り揃えた黒い髪をかきあげる仕草をする。

清潔間のある白いTシャツが、雨で濡れた肩に貼り付いていた。

 俺の母親は伯父である南雲晴彦にとてもよく似ている。別に母が男のような容姿をしているわけではないが、顔立ちが同じだというのも少し違う。

しかし今隣で蓬林庵の戸口を横に引きながら、久しぶりだと笑いかけてくるその表情を間近で見て、気付いたことがあった。

母が似ていたのではなく、晴彦おじさんに母が似ていたのだ。

「裕希が午後の新幹線でくるってさっき妹からメールがきてな、それならもうつく頃だと慌てて中町から戻ってきたところだ」

 事前に今日蓬林庵へ行くと言ってはいたが、時間帯まで連絡が行き届いていなかったのかと疑問に思った。

今言っていた妹というのは母のことだろう。ギリギリになって大事なことを伝え忘れることなど数えきれないほどある。さすがというべきか、兄である晴彦おじさんはもう慣れたようにそれを笑い話にした。

 伯父さんの後に続いて中へはいると、奥に中庭があるのが見えた。

数年前に見た光景と同じものがまだそこにはあって、久しぶりの蓬林庵に安堵する。

 伯父さんは雫をつけた傘をそのまま陶器製の傘立てへ突っ込むと、俺の傘もそこに入れろと指を指す。

「急がせてしまってすみません、母さんもそういうところ全然なおらないんですよね」

「かまわんよ、あいつらしい。それにたいした用事でもなかったから、むしろ駅まで迎えなの行かなくてすまなかったな、雨で濡れただろう」

 雨足は強くなる一方で、先程よりも大きな音をたてて地面を叩きつけていた。

「服は大丈夫なんですけど、靴がちょっとやばいかも」

 同じように傘をそのまま片付けていると、玄関口に用意してあったのだろう藍色の手拭いで、上がり口に座って濡れた足を拭いていた。

「それなら裕希も足を拭いていけ、篭に入っているのを使えばいい」

 伯父さんが目配せした方には、同じような手拭いが数枚入った篭があって、一番上にあった白い色の手拭いを取った。

 靴と一緒に濡れた靴下もそのまま脱いで、雨で冷えた足を拭く。先に奥へ行った伯父さんの後を裸足のまま急いで追った。

 正面から左は客室で、右側に隣接する祖父の住居があることは知っている。後を追っていくと、中庭を平行に内縁を通って長い板敷の廊下を進む。

「靴は後で乾かしておいてやる、服は本当に大丈夫か?なんなら早いが先に風呂に入ってもいいぞ。今日の営業はないから宿の風呂に入ってもいい」

「服は本当に大丈夫です。お風呂もそうですね、まだいいかな」

「じゃあまず裕希の部屋まで案内するな、とその前に」

 いいながら今ほど使った手拭いをよこせと手を出して、代わりにリュックと同じくらいの大きさをした葛籠を内縁に通じた座敷から持ってきて俺に預ける。

「これは?」

「明日から使う羽織と、今日の寝巻きだ」

「服は何でもいいんですか?」

「ああ、上からそれを羽織れば大丈夫だ」

 昔祖父が宿を仕切っていたのを思い出すと、着物を着て何でもこなしていた姿が頭に浮かんでくる。それと同じように着物を渡されず、俺はこころなしかほっとした。




 部屋へ案内されるが、そこは幼い頃から俺が祖父母の家に泊まるといつも使わせてもらっている部屋だった。

 十畳ほどの座敷に縁側のついた部屋で、蓬林庵の客間である桜という座敷の庭に回り込める場所にある。

 ガラス戸から見える外は昔と変わらぬ風景で、今は庭の向こう側に見える藪がしきりに揺れる。

窓の外から一瞬光が部屋を照らして、雷まで鳴り出したと外の様子を窺う。

まだ遠くで鳴る雷の音と同じに、勢いよく部屋の襖が開け放たれた。

「ちょっと!帰ってきているなら声をかけてよね」

 そう文句を言って俺と晴彦おじさんを睨み付けたのは、俺の従姉である彩乃だった。

女性にしては背が高く俺と同じくらいで、長く伸ばして茶色に染めた髪を後ろで束ねている。

 歳は3つほどしか変わらなかったが、妙に大人に見えた。

子供の頃に面倒を見てもらったことだけは記憶にあって、いつも俺を弟のように扱っていたのを覚えている。

「ああ悪かったな。急いで帰ってきたし、裕希も疲れたろうと思ってな」

「まあいいわ、裕希も久しぶりね。にしても全然変わんないのね、あんたも」

「彩乃もね」

彩乃は物事をはっきりさせたいタイプなのか、優柔不断だと俺にいつも小言をいっていた。そのせいか久しぶりに会うというのに、なぜだか圧力を感じざるおえなかった。

「そんなことより父さん、明日の村上さんから電話が入ってたよ。早く折り返して!」

「本当か?それはちょったやばいな」

 晴彦おじさんは一瞬青ざめたような表情を浮かべて、俺に悪いと詫びながら急いで部屋を出ていった。

「今おじいちゃんが用事で町に丘上の西川さんと出てるから、帰ってきたら夕飯ね。それまでゆっくりしてていいわよ」

「わかった」

 返事を聞き届けることなく彩乃は部屋から出ていく。

 俺はスマホをジーンズの後ろについたポケットに押し込んだ。

 そのまま部屋を出て表玄関の方まで戻ると、その先に続く蓬林庵の内縁まで進む。

 途中伯父さんが遠くで電話口に会話をしているのが聞こえて、先ほどの青ざめた表情からは連想されない穏やかな声で話していた。

 蓬林庵の内縁は奥に行くと一人掛けの椅子が二脚と丸テーブルがおかれている場所がある。中庭に面していて、天気のいい日などは陽射しが暖かく寛ぐにはちょうどいい場所だ。けれど今は落ちる日と、大きさの違う庭の敷石を打ち付ける雨を眺めることしかできなかった。

 俺は椅子のひとつに腰を掛けて、ガラス越しに外の風景をスマホで写真に納めてみる。ガラスをつたう雨筋が庭の木々をぼやけて写した。

 ハイバックの椅子に深く腰かけると、体はすっぽりと背もたれに隠れてしまう。その状態がやけに心地よく感じて眠気を誘い、俺はそのまま重たくなった瞼を抵抗なく下ろす。

 降り続く雨の音がだんだんと遠くなった。

続きは近いうちにあげる予定です。

読んでいただいてありがとうございます。


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