アメリと破れた卵
「このパリパリを割るのが楽しいんだよ」
そう仁美は、クリームブリュレのキャラメルが焦げた部分をスプーンで割ってカスタードの海の中に沈めていく。
「昔流行ったフランス映画の主人公みたいだね」
題名は何だっけ? 仁美も「ああ、あったね……それ観てからかも。なんの映画だっけ?」と私と同じく思い出せない様子で、あの映画の女の子みたいに悪戯っ子ぽい可愛い笑みを浮かべる。
***
秋が終わって、すっかり冬化粧が整った今日この頃の季節。
路面の水たまりが凍って薄氷になっている。クリームブリュレを思い出して割りたくなった。片足で恐るおそる踏みしめるといとも容易く割れて泥の海の中に溶け込む氷。なんだかその様子を見ていると、冷たく凍えた自分の心が割れて後悔の海の中に沈んでしまうような気がしてトボトボと歩を進めた。
“私ね、智が好きなの”
仁美から告白された。
クリームブリュレを食べながら、何でもないことのようにサラッと言われた。
友達として? とか考えたけれど、仁美は平然を装っているだけなのに気が付く。スプーンを持つ手が震え始めるし、返事が怖いというように一度私の姿をとらえた視線を下の方にそらす。
「……ごめん」
その告白を受けて私の中に芽生えた気持ちは、嬉しさや嫌悪というハッキリとしたものではなく、ぼんやりとした恐怖だった。気の利いたことも言えない私は考える素振りすら見せずに直ぐ断ってしまった。
仁美は一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべたが「清々しく断ってくれてありがとう」なんてヘラヘラと笑う。
その様子を見ていて、断った私の方が泣きそうになりその場から逃げ出してしまった。それ以来、仁美とは余所よそしい感じになってしまい、学校でも話すことが無くなった。
思い出す度に泣きそうになる。
鼻の奥が熱くなって涙が出そうだったが、冬の風の冷たさがそれを気休め程度に癒す。
ぼんやりとした恐怖の正体は関係が変わってしまうことだけ。私も仁美が好きだった。返事は勿論「私も好き」だったはずなのに、よりにもよって否定して逃げ出してしまった。
“こんな私のどこが好きなんだろう?”
ため息が白い煙になって消えたが、私の憂いはそのまま。
だから、むしろこれで良かったのかもしれないと考えた。
“仁美はもっと良い人と結ばれるだろうから”
そう思うと前向きになれる気がすると、自分に言い聞かせたけれど無駄だった。仁美が誰かのものになってしまうと考えただけで、自分の意志とは関係無く涙があふれて止まらない。
馬鹿な私の姿を隠そうとするように雪がしんしんと降り積もり始める。
「にゃー」
猫が鳴く声がした。
声がする方を探す前に私の足元へすり寄ってくる。それが少しくすぐったくて思わず笑ってしまった。
白くてフワフワな毛並みの青い瞳の猫。すました感じでこちらを見上げてもう一度「にゃー」と鳴く様子が悪戯っぽく笑っているように見えて仁美を思い出す。
「いい子だねえ」
逃げることなくすんなりと私に抱き上げられる猫。
人懐っこいから多分飼い猫だろう。迷子かな?
「私のこと慰めてくれたんだね。ありがとう」
きっと飼い主さんが悲しんでいたときは、今の私にしてくれたように優しくすり寄って慰めてるんだろうなあとか考えた。
散歩中? 飼い主さんは近くに居るだろうと抱き抱えながらうろうろしていると、猫が私の手をすり抜けて走り出す。
「待って!」
そう言っても私の言葉が通じるわけがないので猫の後を追う。
猫は速いので走って追いかけていると転びそうになった。雪が氷を薄く目隠ししていたから、それで滑ってしまったのだ。転ばないように追いかけるのは至難の業で、怪我はしたくないから見失ったら仕方が無いかと走るのをやめた。それと同じくして遠目に止まっている猫と倒れている人の姿が見えた。
「大丈夫ですか!?」
猫は私に飼い主を助けてほしかったのだろう。
慌てて駆けよったが、倒れている自分物を確認して私は更に驚く。
「仁美……」
仁美は大の字で倒れながら白い空を仰いでいる。雪が彼女の身体を隠そうとするように薄く降り積もりつつある。
「仁美転んだの!?」
「……ん? あ、え!? 智?」
「頭打ったの!?」と上半身を抱き抱えると、仁美は顔を真っ赤にしながら首をブンブンと横に振って、それから拒絶するように私の身体を押し退ける。
「大丈夫だから、ただちょっと転んで膝ついて、でもやらかしたなあってなんかどうでもよくなって……寝転がったていうか」
やらかした? と考えていると猫が「にゃー」と嬉しそうな声で道端に落ちているスーパーの袋に近寄るなり「あんたのせいなんだから絶対だめ!」と仁美がそれを制す。
スーパーの袋からはパックの蓋が開いて卵が割れて黄色い中身が飛び出している様子が見えた。
「……仁美料理したっけ?」
「誰かさんに避けられてひとりぼっちになっちゃったから、新しい趣味でも作ろうと思いまして」
嫌味っぽい敬語がやけに胸に突き刺さる。
私の傷ついた様子を察したのか「まあ、私の所為だけど……」と仁美は自虐した。
仁美はなぜか私しか友達を作らなかったけれど、自分が傷付いていても相手を気遣うぐらいとても優しくて良い子なんだ。
「じゃ、なんかごめん、もう関わらないから安心して」
仁美は雪を軽く払って歩き出そうとするから、私はその手を掴んだ。
「何? ほんとに大丈夫だからお節介は止めて、余計惨めなんだけど」
私をキッと睨みつける瞳には涙が溜まっていた。
こうやって強がっちゃうから「生意気だ」って周りの人に言われちゃうんだよね。
仁美の手を引いて抱き締めた。
「ちょっと、馬鹿にしてるの!? 私のこと秒で振ったくせに!」
どれぐらいの時間寝転んでいたんだろう? ってぐらい冷たい身体にちょっと呆れる。それに秒でって言い方……それはひとまず置いておこう。
「そう思うよね。でも仁美もあの時に私みたいに帰ろうとしたでしょ?」
「怒っているの?」と不安そうな声。
怒られるのは私の方なのになあ。どんだけ強がっても本当は不安でいっぱいで傷付きやすい仁美。
それを知っていて私は傷付けてしまったことは事実は変えられない。
「私、仁美のことが好き」
一瞬私の腕の中で動揺なのか寒さなのかで震える様子が伝わった。
「こんな風に言っても信じてもらえないかもしれないけれど、馬鹿にしてるとか同情とかじゃなくて、私も仁美が好きなの。でも、関係が変わってしまうのが怖くてあの時逃げ出して、逆に関係壊しちゃったね。何やってるんだろうね」
さっき抱き上げたときみたいにまた拒絶されるかもしれないと思うと、身体が震えてくるのを感じた。仁美はあのときもっと怖かっただろうに、勇気を出してくれたのにと考えると更に自分に嫌気が差す。
「……身体震えてるよ、寒いの?」
仁美の声が耳元で聞こえる。
「仁美だって震えてるじゃん」
「そうだよ、寒いもん」
仁美が私から離れて「だから腹いせに智で暖でもとってやろうと思ったに、全く温まらないね」なんて言うから本当に私が寒がっているなんて勘違いしているのかと思ったら、私が何か言おうとするのを制する様に唇を唇で塞がれてしまった。
たった数秒のことだったけれど、私の顔は恥ずかしさで真っ赤になり熱を持つには十分だった。
「仕方がなく温めてあげたよ。なんかお礼してよね?」
同じように真っ赤な顔で余裕ぶって悪戯に笑う仁美。そう、本当は純粋で可愛い子なんだって皆知ったら好きになっちゃうから私だけが知っていれば良いと思って、今度は私からキスをした。
***
「この子がすり寄ってきて可愛がってたのに、逃げちゃったから思わず追いかけようとして転んじゃってさ、卵も割ちゃったから……投げやりになってね」
猫を撫でながら、仁美が先ほどのことの顛末を話す。
「私も同じ感じで追いかけたら仁美が倒れていて……恋のキューピットだね」
私と仁美を仲直りさせようとして現れたのかな? なんて思ってしまう。
「最初は飼い主のところへ行くのかな? なんて思ったけれど」
仁美の言葉へ、同じくと言う代りに頷く。
「君は本当に天から降りてきたのかなあ?」
猫を抱き上げる仁美。
生卵食べていいのかな? と思って食べる前に引き離したけれど、白い毛の猫の口元が天使の輪みたいに卵の黄身で囲われている。なんだか本当に私たちの不穏な関係性の殻を破って食べてくれたみたいだ。
「私たちの恩人? 恩猫? は変わりないからおもてなししないとね」
***
生卵に手をつけるくらいだから、よっぽどの食いしん坊かお腹が空いていたんだと思った。
家に連れて帰って買った餌をあげた。
飼い主さんが見つかるまでお世話しようとしたけれど結局みつからなかった。
恩猫さんは私たちの飼い猫になった。
「アメリ、似合っているよ」
首元には何となく赤いリボンが似合う気がして、ペットショップで買ってきたのをさっそく付けてあげる。その様子を考えるように仁美が見ている。
「……似合わなかった?」
「そうだよ、アメリだよ」
仁美がすっきりしたとでも言いたげな表情をするから、変わりにちんぷんかんぷんな私は怪訝な顔をしたと思う。
「あのフランス映画の主人公の女の子の名前!」
「あ! そうか」
あの映画のように私たちの物語もハッピーエンドを迎えられそうと、アメリとアメリにそっくりな仁美に笑顔を向けた。