没落令嬢はときめかない
火花が散る。
刀身と刀身がこすれ合い、耳をつんざく嫌な音がする。
あたしが咄嗟に身をかがめると、頭の上ギリギリのところを刃がかすめていった。
相対する騎士からは、感情は全く読み取れない。そう……いつも、こいつは何を考えているか分からない。
相手の燃えるような赤毛が青空に溶け、目がくらむ。琥珀の瞳は美しいけどどこか冷めていて、視線からは次の攻撃を読み取ることはできない。
首から下を覆っている黒鉄の甲冑はそんな彼によく合っている。……少なくとも、まばゆい銀の甲冑は似合わないのは確か。
円形闘技場に集まっていた訓練兵が一層騒ついた。潮騒のようにうねる歓声は熱を増し、闘技場を飲み込まんばかりに膨張する。
注目の一戦だかなんだか知らないけど、あたしにとっては決死の一戦。これが訓練試合だからって手加減してくれるような相手じゃない。
あたしは大きく飛び退き、剣を構えなおした。小柄なあたしの身体でも使いやすいよう、刀身は細く、しなやかなもの。
一方、相手の剣はその大柄な身体よりもさらに大きく、敵を斬るためというより粉砕するための代物。そんな大剣をやすやすと片手で操り、あたしの眼前に振り下ろす。
「……ちょっ! 待っ!」
「…………ふんっ!」
あぁ、聞く耳持たないっ! これだから粗野な男は!
相手は地面にめり込んだ大剣を軽々と引き抜き、目一杯の力で薙いだ
太刀筋は読めている。あたしだって、訓練試合の最後まで勝ち残っているくらいだもの。
でも、相手の方がスタミナも攻撃力もある。この長期戦、ついていくのがやっとのあたし。肩で息をしながら、間合いを取ろうともう一歩後退した。
「…………っ!」
ぐらりと視界が傾いた。一瞬、何が起こったのか分からなくなる。
踏ん張ろうと足に力を込めるけれど、うまく力が入らない。
やば……足がもつれた……!
この隙を、帝国一の剣士が見逃すわけない。思うように体の動かないあたしには、試合の様子がスローモーションで見えた。
くるぶしに衝撃。相手があたしの足を払った。
体勢を立て直すことのできないまま、あたしは地面に倒れ伏す。受け身は取った。でも、あまりの勢いに剣を取り落とし、口の中に砂利が入る。ザリ、と奥歯に嫌な感触。
すぐに体を反転させ、剣を探すももう遅い。
振り返ったあたしの喉元には、あの馬鹿みたいに大きな剣が突きつけられていた。
「勝負あり! 勝者、騎士団長レナルド・アズガルド!」
逆光で、相手の顔はよく見えない。きっと、いつもと同じ、無表情であたしを見下ろしてるに違いない。
それが……とても悔しい。
歓声が遠くに聞こえる。
最強の騎士を決める練習試合。勝ったのは自分たちが団長と仰ぐ男。
興奮と期待と誇りの入り混じった声援に、あたしの惨めさは増すばかりだった。
絶対負けられない試合だったのに。
やっぱり、あたしがこうなったことは避けられなかったんだ、って思い知らされる。
レナルド・アズガルド。
侯爵家であったあたしの家を没落させた張本人、そして――今のあたしの婚約者だ。
*
化粧台に腰掛け、鏡に映る惨めな自分をそっと撫でる。
白く、しなやかだった指は、剣の訓練や実戦ですっかりたくましくなってしまった。
最初は着心地の悪かった質素な部屋着にも慣れた。なめらかな肌触りの絹とは違い、スカートは足に絡みつくし、袖はギシギシときしむ。でも、今は贅沢を言える身分ではなくなったんだから仕方ない。
「エレイン……変わったね」
あたしは鏡の自分に語りかけた。鏡のあたしも淋しそうに笑い、変わったね、と言う。
艶のあった金の髪は日焼けで傷み、頬もカサカサだ。目の色だけはずっと同じ、深い森みたいな緑。
試合の後、あたしは表彰式にも出ずに自室に戻った。
きっと、みんなあたしが悲嘆に暮れているんだと思っているはず。それに、あたしを見咎める者なんていない。だって、普通、没落した貴族に関わろうとするわけないでしょ。
負けて悔しかったのは正しい。
でも、あいつが……レナルドが讃えられている姿なんて見たくなかったというのが本心。今頃、皇帝や大臣、軍総司令官といったお偉方から称賛を浴びているはず。
「わたくしは……」
言いかけて、ハッと口を抑える。
自分のことを「わたくし」と呼ぶエレインはもういない。あたしは貴族の「わたくし」を捨てたんだから。
あたし――エレイン・アースラは侯爵家出身だ。ううん、元侯爵家、ね。
本名はエレイン・フォンダイル。でも、フォンダイル家断絶の命を受け、あたしはフォンダイル姓から、母の実家のアースラ姓を名乗ることになった。
没落する前、父・フォンダイル侯爵は臣下からの信頼も厚く、皇帝陛下も父を重臣として扱ってくれた。あたしは第一皇子と婚約し、未来の妃としての人生が約束されていた。
幸せだった。
それはずっと続いていくものだと思ってた。
皇太子位をめぐる争いが起こるまでは――。
皇帝陛下にはたくさんの皇子がいたけど、その中でも特に皇太子として嘱望されていた皇子は二人いた。
正妃を母に持つ第一皇子と側室を母に持つ第五皇子。
なぜ第五皇子が皇太子候補に挙がったのかというと、そんなの簡単。第五皇子は他のどの皇子よりも優秀だった。
第一皇子は正統な血筋の持ち主ではあったけど、聡明さでは第五皇子に敵わなかった。
二人の皇子をめぐる派閥争いは激化した。
あたしの知らないところで争いは大きくなり、そして結末を迎える。
そう、第一皇子の敗北というかたちで。
父は反逆罪で処刑された。
母は帝都から遠く離れた地に流刑され、軟禁状態になってる。
兄は帝都で一兵士として従軍するよう言い渡されたけど、それを無視し、自害した。
忠実だった使用人達もみんなバラバラ。あたし達に手助けすることのないよう、ある者は金品を握らされ、それに従わなかった者は命を落とした。
そしてあたしは……亡くなった兄の代わりに、従軍するよう命じられた。
自害する勇気なんてなかった。
だって当然でしょ? 死ぬだなんて、怖くてたまらない。
銀食器より重いものを持ったことのないあたしの手には、自分の命を奪うナイフも毒薬の瓶も重すぎた。
囚われたあたしは右も左も分からぬまま、軍に放り込まれ……必死で剣を振るった。
ただ生きていくために、貴族の令嬢であったプライドを捨てた。
フォンダイル家を制圧するために、兵を連れて攻め入ってきたのは、レナルド。
あの黒鉄の甲冑で、美しかったフォンダイル家を土足で汚した。
……分かってる。
権力争いに負けたあたし達に言い訳なんてできっこないってこと。
勝った者が正義で、絶対。世間知らずのお嬢様だったあたしでも、それだけは叩き込まれて育ってきた。
負けたあたし達に言い訳の余地なんてなくて。命を奪われなかっただけでも良しとしなければいけないってことも。
でも……そんな簡単に割り切れるものじゃない。
そして、軍に入隊した直後……皇太子となった第五皇子から、あたしはレナルドとの婚約を命じられることになる。
「はぁ……」
コンコン。
ため息と同時に、ドアをノックする音が聞こえた。
あたしは浮かない声で返事をする。
ちなみにあたしの部屋は兵舎の女子棟二階の角部屋。誰もあたしの部屋を訪れようとはしない。ただ一人、レナルドの家の使用人・ローラを除けば。
「どうぞ」
あたしはドアに振り返りもせず、髪をとかし続けた。輝きのない髪でもとかさないよりマシ。この殺風景な軍隊の中で、せめて美しくある努力だけは怠らないでおこうと、あたしは身だしなみを整える。
「エレイン様。ローラでございます。レナルド様より言付かって参りました」
鏡ごしに見たローラの腕の中には、薄青のドレスが一着。仕立ては細やかで、一目見ただけで上等のものだって分かる。
そばかすだらけのローラはあたしと目を合わせると、にこりと笑った。
「そのドレスは?」
「レナルド様より贈り物です。本日行われる晩餐会に、こちらのドレスをお召しになっておいでになるようにとのことでございます」
「晩餐会? 何それ、聞いてないわよ」
「あの……先日、申し上げたのですが……エレイン様が剣の稽古をなさっている時に……」
あ、とあたしは小さく唸った。
そういえば、剣技場で稽古をするって言って、ローラから逃げていたんだっけ。レナルドの話なんか聞かない! なんて言って。
その時、ローラが何か言っていたような……気がする。
「大変申し訳ありません、エレイン様……」
粗相をしたと、ローラはすっかり俯いてしまった。ローラの耳元で、彼女の黒髪が一筋、ハラリと落ちる。
別に、レナルドが憎いからといって、その周りの使用人まで恨む気なんてさらさらない。あたしの勝手で困らせてしまったんだから、ローラは何も悪くない。
あたしは丸椅子に座ったまま、ローラに体を向けた。
「やめて、ローラ。悪かったのはあたしなんだから。それより……晩餐会って、ど〜〜〜しても出席しなきゃいけないのかしら?」
できれば……っていうか、絶対に出たくない!
晩餐会なんて、余計に落ちぶれた自分の身が惨めになるだけなのに。なのに……。
「はい、本日の試合の祝賀会も兼ねているそうですので、必ずご参加下さい、とのことでした」
「あー、えーと……じゃあ百歩譲って出るとして……このドレス、着なきゃダメ? 試合の祝賀会も兼ねてるんなら、軍服の方が正装としては相応しいんじゃないかな〜? だから、そのドレスは……」
「いけませんっ! レナルド様の仰せですのでっ! 今宵はエレイン様はレナルド様の部下としてではなく、婚約者として参加されるようにとのことですので!」
むぅ、手強い。手強いぞ、ローラ。
あたしにドレスを着せようと、ずいっと迫ってくる。
貴族だった頃なら喜んで着たと思う。でも今は……。
それに、婚約者としてだなんて……周囲が認めても、あたし自身が認めてないのに。
「エレイン様が着て下さらなければ、私がお叱りを受けてしまいます……。エレイン様ぁ」
グズグズとローラが鼻をすすった。焦げ茶の瞳が潤み、大きな目から今にも涙がこぼれそう。それでも懸命に涙を流すまいと、口をへの字にして耐えている。
もう〜、こんな顔されたら、断れないじゃない……。
あたしはむぅと唇を尖らせながら、ローラからドレスをもぎ取った。
「わかったわかった。わかったわよ、着ていけばいいんでしょ! で、晩餐会は何時からなの?」
ドレスを受け取ったあたしを見て、ローラはぱぁと顔を輝かせた。
「夕刻六の時より、軍本部のホールで行われるそうです」
「…………って、もうすぐ始まっちゃうじゃないの! ローラ、着替えを手伝って!」
「かしこまりました」
言っとくけど、ドレスを着ていくのはあいつのためじゃないわ。ローラが叱られないために着ていくのよ。
あたしは婚約なんて、断じて、絶対認めない。
あたしの平穏を踏みにじったあの男と人生を共にしなきゃいけないなんて……死んでも認めないんだから。
*
軍本部・応接ホール。
きらびやかな光が目を刺す。太陽の光とはまた違った光。シャンデリアに灯された蝋燭の明かりがガラスに反射して、七色の光を放つ。夜の虹みたいなこの光が、以前のあたしは大好きだった。
試合後の表彰式とは違い、祝賀会は内輪で行われる。祝賀会なんて堅苦しい言葉で飾っているけど、ていのいい打ち上げっていうこと。
参加するのは軍の上層部ばかり。皆、パートナーとして奥方や恋人を連れてきていた。
祝賀会の開始時刻ギリギリになって到着したあたしを、レナルドが迎えた。入り口で呆然と立ち尽くしていたあたしの前に、筋肉質な大男が現れる。
「エレイン。遅いじゃないか」
「…………別に、間に合ったんだからいいじゃない」
固そうな赤毛の髪、琥珀の瞳。
濃紺の軍服の襟にはいくつもの勲章がつけられている。
こんな豪華絢爛な場所には馴染まない、無口で無表情な根っからの軍人……それがレナルド。
六つも少し年上だからって、偉そうにして……!
あたしの受け応えが気に入らなかったのか、レナルドは難しい顔であたしを見た。
そもそもドレスを贈るのが遅すぎるのよ。祝賀会直前に贈るなんて、あたしに遅れて恥をかかそうとしてるみたい。こっちが怒られる筋合いなんてないわよ。
あたしはツーンとそっぽを向いてやった。
「君のことを紹介する。私と来なさい」
固い口調。レナルドは私に手を差し出した。
こんなやつの手に触りたくなんてないけど、あたしには拒否権なんてない。しぶしぶその手を取り、レナルドのエスコートに従った。
何人ものお偉方に紹介され、その都度、笑顔を貼りつかせる。
いやはや、美しい婚約者ですね、だって。
嘘ばっかり。その目が笑ってないこと、ちゃんと見抜いてるんだから。
影であたしがなんて言われてるか知ってる。
レナルドは貧乏くじを引かされた、って。生き残った逆賊の娘を引き当てて、なんて不幸な御方だろう、って。
一通り挨拶を終えたあと、レナルドはあたしを解放した。
「私はまだ上官と話があるから。君はゆっくりしていきなさい」
言われなくても好きにしてやるっての。
あたしはふん、と鼻息を荒げ、踵を返した。
こうなったらとことん食べてやる!
そう言えば、あっちに美味しそうなスイーツがあったわよね。シャンパンもいただいちゃお。
給仕からシャンパングラスを受け取り、あたしはぐいと飲み干した。
婚約者だなんて、冗談じゃない。……でも、あたしにはもう頼れる人は誰もいないのも、本当。
かつての婚約者だった第一皇子とは、数回しか会ったことがなかった。婚約を交わす時に贈られてきた皇子の肖像画だけが、あたしの恋人だった。
どんなにお優しい方なのかしら。どんなに素敵な方なのかしら。
世間知らずのあたしはそんなことばかり夢見ていた。皇子と過ごす甘い時間を信じて疑わなかった。
だけど、現実は違った。
皇子はお忙しくて、なかなか会いに来て下さらなかったし、文すら送ってはくれなかった。
お会いする時になっても、皇子は頑なで、決してあたしに笑顔を見せてはくれない。いつもおいでになるのは、父と仕事の話をするときだけで、あたしのためじゃなかった。
恋に恋していたんだと思う。この人はあたしの夫になる人だと、そう思い込むことで。
結局、蓋を開けてみれば、一人残されたあたしの中に、皇子の思い出は何一つなかった。婚約者という確かな地位があったはずなのに……。
あたしを見つめてくれない瞳。
あたしにかけられることのない声。
あたしに触れることのない手。
今、皇子がどうなっているのか、全く知らされてない。
どこか遠くの領地に流刑されたか、戦地の前線に送られているのか……それとも、もうこの世にはいらっしゃらないのかも。
あたしは薄情で、皇子の今の境遇を想像しても、なんの感情も湧かなかった。本当、最低なひどい女。
だからかしら……逆に何かに期待することもなかった。
皇子はきっと生きていらして、あたしをこの境遇から救ってくださる……なんて夢は見なかった。
目を瞑っても、皇子の面影すら思い出せなかったんだから。
あたしは一生、この軍で剣を振るい、国を脅かす者と戦う定めなんだ。
それは死罪になるより果てがない。
名も知らぬ誰かの手にかかり、荒んだ戦地の只中に転がる運命かもしれないんだから。
だから、あたしはあたしの手で運命を切り開いてみせる。
生きるも死ぬも、剣一本で選んでみせる。
「はぁ……頭がくらくらする」
試合の後、ろくに休みもしないで晩餐会に参加したせいか、酔いがまわるのが異様に早い。
顔が火照ってぼぅっとする。足元がふわふわとして覚束ない。
「まずいな、こりゃ」
一応、今晩の主役の婚約者なのに、この体たらくじゃみっともない。なんとかして、酔いを覚まさなきゃ。
あたしは誰にも気づかれないよう、ホールを後にした。壁伝いに廊下を歩き、階段を上る。
三階の会議室にバルコニーがあったはず。そこで夜風に当たって涼んでいこう。
あたしは会議室の扉を開けた。どうやら今日の晩餐会の準備用に使われているみたいで、磨かれた銀食器や皿がおかれている。使用人は一人もいなくて好都合だった。多分、厨房にある皿が間に合わなくなったときのための、予備の道具を置いてあるのかもしれない。
部屋の最奥までなんとか辿り着き、バルコニーのガラス扉を開けた。
すっと澄んだ風。庭に植わっている柑橘類の果実の香り。
階下のホールのざわめきが遠くに聞こえた。
うんと伸びをして、凝り固まった体に血を流す。束の間の自由を味わい尽くさなきゃ。
眼下に見える街の明かりはまるで星の砂。夜の闇に淡くにじんで、揺らめいて。満月の光がしんと差し込み、部屋を仄白く照らす。
こんな景色を見ているとしんみりしちゃう。湿っぽいのは好きじゃないのに、涙が出てきそうになる。
ガタ。
「誰っ!」
今、確かに背後で物音がした。あたしはすかさず振り向いた。だけど、人影は皆無。
誰と問いかけても答えがない……ってことは使用人じゃないわよね。
聞き間違いかもしれない。そう思い込もうとしても胸騒ぎが止まらない。あたしは音を立てないようにそっと歩いた。この部屋の床が絨毯でよかった。じゃないと、靴のヒールが音を立ててしまっていただろうから。
部屋の中央にある四角い長テーブル。あたしは周囲をうかがいながら、白いテーブルクロスに指を這わせ、銀のナイフを探り当てる。武器になりそうなものは、他にない。
さっとナイフを引き寄せ、ドレスの袖口に隠す。ヒラヒラの趣味じゃないドレスだけど、役に立つものね。
「…………」
息を潜め、一歩後ずさる。
あたしの思い過ごしならいいけど……。早くここから出なくちゃ。
だけど、突然、ぐるりと天地がひっくり返った。
襲ったのは背中を打ちつける衝撃。
肺の中の酸素が全部吐き出される感覚。
「かはっ!」
受け身を取り損ねたあたしは、襲いくる痛みに顔をしかめた。
悲鳴をあげる体にムチを打ち、急いで体を起こす。ドレスの裾を鷲掴み、靴を脱ぎ捨てた。
「逆賊の娘よ!」
ガシ、と足首を掴まれる。
テーブルの下から伸びた不気味な手が、あたしを掴んで離さない。
「こ……の!」
あたしは脱いだ靴を拾い上げ、ピンヒールを思い切り敵の手の平にお見舞いしてやった。敵はすぐさまテーブルの下に手を引っ込め、うぅ……とうめく。
「卑怯者! 姿を現しなさい!」
テーブルの下に隠れている敵に向かって言い放つ。
ガタリとテーブルが揺れ、その下から男達が姿を現した。
一、二…………五人、か。
祝賀会に潜入するため、全員軍服やタキシードで正装している……が、頭は黒頭巾で覆われている。
彼らはめいめい手に短刀を握っている。……あたしに敵意があるのは明白。
あたしはグッと下唇を噛んだ。あたしが持っているのはただの銀ナイフ。短刀ほど切れるわけでもなく、リーチがあるわけでもない。
横目で部屋中を物色しても、使えそうなものは何もない。ならば……このナイフ一本で乗り切ればいいだけのこと!
「エレイン・フォンダイル。貴様をのさばらせておくわけにはいかんのだ」
「あたしはエレイン・アースラよ。フォンダイル家はもうどこにもないわ」
「ふん、フォンダイルの血が残っておることが問題なのだ。意味がわかるか、小娘」
「…………いいわ。ただし、このあたしに勝てれば、ね!」
ダン、と地を蹴る。
あたしはドレスを翻しながら、バルコニーへと走った。
バルコニーの窓は大きいとはいえ、一度に通り抜けられるのは一人だけ。小柄な女子供ならまだしも、大の大人が二人以上通り抜けられる幅はない。
同時に五人を相手にするのはキツイけど、一人ずつならば活路は開ける。
これでもあたしはレナルドに次ぐ剣士。
パワーがないなら、スピードと知力で勝負よ!
バルコニーに躍り出たあたしは振り返り、敵を迎え撃つ。
切りかかってきた敵の斬撃をかわし、ナイフを突き出す。
手の甲や腕の筋を狙い、敵の手から短刀を引き離した。
怯んだ敵の手を掴み、捻りながらバルコニーへ引きずり出す。勢い余って柵にぶつかった相手の背を一蹴り。
真っ逆さまに落ちて行く敵の悲鳴をバックに、次の敵に応戦する。
相手はあたしを女と舐めてかかっていたのか、仕留められないことに焦り始めた。
焦らせてしまえばこっちのもの。冷静に、着実に敵をさばくあたしに勝てるはずもない。
五人のうち四人はバルコニーから落ちて行くか、手を負傷し後退した。まぁ、三階くらいの高さなら、訓練された暗殺者にとっては問題ない。
命を奪うのは目的じゃない。負傷させて、騒ぎに気づいた誰かに捕縛させるのが目的なんだから。
残るは、一人。
おそらくリーダーなのか、身に纏う気配は尋常じゃない。
「エレイン・フォンダイル、覚悟!」
「…………っ!」
疾い!
あたしは一気に間合いを詰められ、咄嗟にナイフを振るった。
相手はそれを読んでいたのか、体をわずかによじり、一閃をかわす。
短刀を頭上に振りかぶり、あたし目がけて振り下ろした。
この程度なら避けられる……!
そう過信したのが間違いだった。
避けようと一歩下がった体が、グン、と引き戻される。
重心がずれ、あたしの視界は再び揺らいだ。
「くっ!」
バルコニーの石畳が目の前に迫り、あたしはその場に倒された。
這いずって逃げようとしても体が動かない。
相手の手には短刀は握られておらず、あたしは短刀の行方を急いで探した。
「ふ……逆賊の娘の貴様に不似合いなドレス。その中に埋もれて見えんのではないか。貴様が探しているものは、な」
ハッとしてあたしはドレスを引っ張った。
レースをふんだんに使ったフワフワのドレス……その襞の奥に、短刀はあった。地面とドレスを縫い止めるように、短刀は石畳の隙間に深々と刺さっていた。
「貴様には罪人の服が似合いだ。恥知らずめ!」
男があたしの上にのしかかってくる。
そして……あたしの首に手をかけた。
ナイフ……ナイフはどこ!?
男は容赦なくあたしの首を締め上げた。
戦わなきゃ……と、倒れた瞬間に落としてしまったナイフを懸命に探す。
あたしの顔の横、手が届くか届かないか分からない、ぎりぎりのところで輝く銀。
あれさえあれば、切り抜けられる……!
あたしは必死で手を伸ばした。
「させんよ」
……そんな…………!
男はすかさず足でナイフを払った。
ナイフはクルクルと回転しながら、あたしの手の届かない、遥か遥か遠くへと飛ばされた。
「ふぅ……ぐっ……!」
男の手を振り解こうと、手首を掴み、目一杯の力をこめる。
浅黒い手首に爪が食い込み、男は呻き声をあげた。
でも、足りない。振り払うには力が全然足りない……!
あたしの意識は朦朧とし始めた。
酸素が足りない、喉が痛い……!
唇が震え、やめての一言さえ言えない……!
頭上に輝く月がやけに綺麗で、あたしの目から涙が溢れた。
男の血走った目が、荒い息が、あたしへの怨嗟が。
どんどん遠くなる。
あぁ…………あたし、死ぬのかな……。
そう思って、瞼を閉じた瞬間。
締め上げる手の力が緩んだ。
そして、男があたしの体に力なくのしかかる。
目の前がチカチカとする中、男の背後に見慣れた影が見えた…………。
*
あまぁい蜂蜜、ふんわりとしたバニラの香りがする。
ここは死後の国かしら。
あたしが蜂蜜のたっぷり入ったパンケーキが好きなのを、神様は知っていたのかしら。
こんな香りがしていたら、お腹がすくわ。
グゥゥゥゥゥゥ。
「ぷっ」
お腹が鳴っちゃったじゃない。そう言えば、昨夜はろくなもの食べてなかった気がする。
……昨夜?
それから、今、誰か笑わなかった……!?
「あ、あたしっ……確か! い、痛たたた……!?」
あたしはぱっちり目を開け、ガバリと起き上がった。
急に起きたせいか、頭がくらくらして、おまけに喉もズキズキ痛む。
「あ、ここは……」
何もない、殺風景な部屋。
馴染んだベッドの感触。
ここは……あたしの部屋だ。
そう、思い出した……あたし、殺されかけたんだっけ……。
「大丈夫か、エレイン」
「な、な、な、なんで、あんたが! っていうか笑ったの!? あたしのお腹の音聞いて!?」
「すまない、そんなつもりはなかったんだ」
無愛想な声、だけどちょっぴり微笑む口元……あたしの婚約者レナルド・アズガルドだった。
「ローラに言って、パンケーキを焼かせた。好きなんだろう、これが」
「え、あ、そうだけど……あんたにそんなこと言ったことないわよね」
「言われていないが知っている。君が休みの日に、パンケーキ目当てで街のケーキ屋に通っていると」
ローラあたりが喋ったのかしら。本当にローラはおしゃべりなんだから。
レナルドから差し出されたパンケーキの皿を、あたしは迷わず受け取った。
こいつから施しを受けるなんて不本意だけど、空腹には代えられないし。
あたしはフォークを使ってケーキを切り、ほかほかのそれをパクリと頬張った。
「おいしい〜!」
「殺されかけたというのに呑気なものだ。私が間に合わなければどうなっていたことか」
「え……あんたが助けてくれたの?」
好きにしろ、と言ったくせに意外だった。
レナルドはあたしに無関心なんだと思っていた。いつもあたしのすることに口出しもしない。婚約者らしく振る舞えとも、自分に従えとも。
「ホールから君がいなくなったことに気がついて、私は探しに行ったんだ」
レナルド曰く、道行く使用人に順番に問いただし、あたしの行く先を探した、って。
なにそれ、なんでそんなことするのよ……。
確かに助けてもらって感謝してる。でも、あたしは放っておいて欲しいのに……。
素直にありがとうと言えたらいい。
素直に笑いかければいい。
だけど、それはできない。
一瞬開きかけた心に蓋をする。
だって、こいつは……フォンダイル家を破滅に導いた男なんだから。
「……そのまま放っておいてくれたらよかったのに。逆賊の娘なんかを婚約者に据えられて、あんたも災難ね」
「エレイン、私は……」
「あんたほどの実力者なら、有力貴族の令嬢とだって婚約できるんじゃないの? 本当、引く手数多ってやつよね。よりによって、あたしなんていう貧乏くじ引かされてさ」
「違う、そうじゃ……」
あたしはきつく、レナルドを睨みつけてやった。
逆賊の娘……あいつらが言った言葉が耳から離れない。
あたしは、あたしは……!
「皇太子の命令だから逆らえないんでしょ! あたしを生かす意味なんてそれだけなんでしょ! あたしだって、あたしだって……!」
「エレイン!」
力強く肩を掴まれ、レナルドはあたしの顔を覗き込んだ。
真っ直ぐで、ひたむきな瞳。
あたしの目からは知らず涙が溢れていた。その瞳に気圧されないよう、必死で見つめ返すけど、あたしの方が先に折れてしまいそう。
「婚約を申し出たのは……私だ」
「え……?」
なにそれ、どういうこと?
あたしの頭は固まって、思考がまとまらない。
困惑するあたしを前に、レナルドはぽつぽつと語り始めた。
「あの日、私がフォンダイル家に攻め入った時……初めて君に出会った。広い屋敷の真ん中で、運命を受け入れようと気丈に我々を迎えた君と……」
そう……あの時、屋敷に取り残されたあたしは、せめて誇り高くありたいと思っていた。
使用人も皆逃げ出した中、あたしは屋敷の応接間で佇み、審判の刻を待った。
庭から聞こえる悲鳴、廊下を近づいてくる甲冑の音、そして、扉を乱暴に開け放ったレナルド。
敵将がレナルドだと瞬時に察知したあたしは、レナルドの目を見据えてこう言ってやったの。
エレイン・フォンダイルをお探しですか、って……。
レナルドは顔を背け、ベッド脇の椅子に腰かけた。
手の中にあるケーキの皿が冷めていく。レナルドはしばらく黙り込み、意を決したように口を開いた。
「皇太子を説得して、君を婚約者にしたいと願い出た。おそらく、フォンダイル家の生き残りということで、君は狙われるだろう。家は断絶したが、君自身に罪はなく、非難の目に晒されるのは忍びなかった。だから……私の婚約者になれば、そういった声も抑えられるだろう、と」
レナルドはあたしのためを思ってくれていたのだと分かった。
けれど、かえって惨め……。
「同情なんていらないわ。そんな気遣いは不要よ。おかげさまで、軍で鍛えられて、少しは身を守る術を覚えたつもりよ。憐れみなんかで婚約しなくて結構。なんなら、今すぐ皇太子に謁見して、婚約を解消してくれても構わないわ」
あたしはパンケーキの皿をレナルドの手に押し戻し、口元を手の甲で拭った。蜂蜜が唇についてベタベタする。バニラの香りが口に残る。
「違うんだ……」
ポツリとレナルドが呟いた。
何が違うっていうのよ。
あたしとレナルドは本来敵同士。
失脚した第一皇子を支持していたあたしと、現皇太子の第五皇子を支持していたレナルド。
こんな風に同じ空間にいることさえ不自然なのに、それの何が違うっていうの?
あたしが無言で冷ややかな視線を浴びせかけているのに気づいたのか、レナルドは肩をすくめ、自嘲めいた口ぶりで答えた。
「私は……勝者の権利を振りかざしたに過ぎない。君に蔑まれても仕方ないと思っている……」
勝者は絶対で、敗者に選択権はない。それはあたしが身をもって知っている。
なのに……どうして勝者のあんたがそんな顔するのよ……。
「あの日、私は一目で君に恋をした。誇り高く、私を睨み据えた君に」
「誇り高くて当然でしょ、あたしはフォンダイル家の…………って、え? こ、恋?」
「君を手に入れたくなった私は、皇太子に願い出た。君を、婚約者に、と。敗者の君が拒絶できないのを知っていて」
「な、な、な……」
こいつが? あたしに? 恋?
だってあんたはあたしを婚約者らしく扱ったことなんてなかった。
平気であたしに向かって剣を振るうし、訓練だってスパルタだった。
そんなあんたが、あたしに……!?
目の前にいるのは、帝国一の武人のはず。
だけど、今は……ただの男にしか見えない。
あたしは慌ててレナルドから目をそらした。
こいつは一族の仇。討ち倒さねばならない存在……なのに……。
「婚約を解消したいなら、君から奏上してはくれないか。私は……受け入れよう」
レナルドは席を立ち、あたしに背を向けた。
扉に向かって振り返らずに進む。
「ちょ、待ちなさい……っ……!」
本調子ではないのか、ベッドから飛び出そうとした瞬間、目眩がした。
レナルドにあたしの言葉は聞こえなかったのか、それともわざと振り向かなかったのか……。
パタンと乾いた扉の音がして、あたしは一人、部屋に取り残された。
*
晴天、絶好の訓練日和。
襲撃の晩から一週間、あたしの傷も完全に癒え、再び訓練場に舞い戻って来た。
一週間も訓練をサボると、筋肉もスタミナもすっかり衰えてしまって、ウォーミングアップさえままならない。
早く元の調子に戻さなければと、あたしは誰よりも早く起きて、早朝の訓練場でトレーニングを続けた。
あたしは強くならなきゃいけない。
あの晩、一人で襲撃を阻止できなかったことが悔しくてたまらないの。
もっと強ければ、窮地に陥ることも、誰かの助けに頼ることもなかった。
強くなるの、もっと、もっと。
自分で自分の道を切り開けるように。
剣を構え、目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶ仮想の敵。目を開け、想像の敵と対峙する。
「はっ!」
縦、横、攻撃をかわして、突く。
終わりの見えない勝負に、あたしは全身全霊をかける。
ところが……その勝負は低い声にかき消された。
「朝からご苦労。もう傷は癒えたのか」
「……っ! 治りました」
集中力が切れ、空想の敵が霧散する。
あたしは息を切らしながら、剣をおろし、声の主――レナルドに振り返った。
「朝練か? まだ早いのに……無理をするな」
「無理などしていません。なまった体を鍛えなければ、すぐに他に追い越されますから」
「殊勝な心がけだ」
堅苦しい口調であたしは答えた。
一応、レナルドは上官だ。部屋で二人でいる時とは違う。
レナルドも同じく、表情は固く、気難しげな……あたしのよく知るレナルドだ。
君に恋をした。
襲撃の後、なんとも言えない表情で本音を漏らしたレナルド。
あれは夢だったんじゃないか、って思うくらい。
でも、心なしかいつもと視線の熱さが違う気がする。
あたしは顔を背け、地面を見つめた。
「皇太子殿下に奏上しなかったのか?」
あたしは無言で頷いた。
あれほど婚約解消を願っていたのに、いざとなると……できなかった。
別に、好意を抱いたわけじゃない。
でも、前みたいに心の底から恨みきれない。
怨念の炎を燃やそうとする度に、あたしに想いを打ち明けたレナルドの顔がちらついて仕方がない。
流されちゃいけないのに、流されそうになる。
絶対、ただで恋に落ちたりしてやるもんか。
あたしは持っていた剣の切っ先をレナルドに向けた。
レナルドはあたしの怨みを全て受け入れるつもりなのか、身動き一つせず、立ち尽くしている。
「剣をとって。レナルド・アズガルド」
「どうする気だい」
「あたしと勝負して。あたしが勝ったら婚約解消。あんたが勝ったら婚約継続よ」
レナルドは面白そうだと不敵に笑った。
やっぱり、剣の勝負となると武人の血が騒ぐらしい。
「いいだろう」
勝負で巡り会ったあたしたちには、やっぱり勝負で決着をつけるのが似合っている。
あたしの勝算? 万に一つってこともあり得るでしょ?
あんたのことを……素直に受け入れてなんかやらないんだから。
背に担いだ大剣を抜きはなったレナルド。
あたしはレナルドに向かって、大きく跳躍した。