闇のクライミング
肉じゃがの材料をかごに入れ、百円の桃ゼリーと乾燥わかめも入れて会計へ向かおうとすると、レジがとてつもなく遠かった。
りん子は首をかしげる。いつもなら、お客さんの列が売り場まで伸びているのに、それも見当たらない。不思議に思って歩いていくと、売り場とレジの間に大きな溝があった。
「改装工事かしら」
溝の手前には、少し割高なチョコレートや塩せんべいが並んでいる。ここで立ち止まらせて買う気を起こさせようという魂胆だ。
「そうはいかないわ。さっさと渡ってやる」
溝は深く、向こう側までは十メートル以上ある。梯子もないし、命綱ももちろん持っていない。りん子は周りを見た。買い物客はみんな途方に暮れ、商品を棚に戻して帰ってしまっている。売り上げを伸ばそうとしたのなら、まったくの逆効果だ。
「は、だらしねえ奴らばっかりだな」
埃が吹きつけてきたような息苦しさを感じ、りん子は振り向いた。黒いオーラをまとった少年が、いつの間にか立っている。りん子と同じように買い物かごを持ち、にんじんやじゃがいもなど、入っているものもだいたい同じだ。
「俺は闇の支配者だ」
聞きもしないのに少年は言った。そしてりん子のかごをのぞき込み、馬鹿にしたように笑う。
「一番安い豚こまか。お前にはお似合いだぜ」
少年のかごには、国産牛肉のパックが入っている。しらたきと厚揚げも、一回り大きいサイズを選んでいた。
りん子はむっとして、早く話題を変えてやろうと思った。
「あの溝、あんたの仕業なの?」
「んなわけあるか。俺なら地球の裏側まで掘るぜ」
「ふーん。じゃあ結局、困ってる買い物客の一人なのね」
その言葉に、闇の支配者は目をぎらりと赤く光らせた。
「俺を誰だと思ってる」
「知らないわよ」
「見える……見えるぞ!」
闇の支配者は溝の向こう側を見て、息を荒げて言った。
りん子は目を凝らす。はるか遠くのレジに、何か書いてあるようだ。
「なになに……先着一名様、お会計無料」
りん子は飛び上がった。行きたい。何としても一番のりでレジにたどり着きたい。無料になるなら、もっとたくさん買い込まなければ。米に砂糖にお茶に、白だしに乾燥わかめをもう三、四パック。
そんなことを考えている横で、闇の支配者はざっと靴音を立てて助走をつけ、溝に向かって走り出した。りん子はシャツの裾をつかんでやろうとしたが、間に合わない。
「待ちなさいよ、飛べるわけないでしょ!」
「俺を誰だと……っ」
闇の支配者は片足で踏み切って宙に躍り上がった。黒いオーラが背中からなびき、たてがみのように揺れる。そのままスピードを増し、足を前後に大きく開き、一気に溝を越えていく。
「負けられないわ! えいっ!」
りん子も思わず後を追った。足が床から離れると、信じられないほど体が軽くなった。まるで紙飛行機に変身したようだ。重力をまるで感じない。鮮やかに風を切っていく。
と思ったのは一瞬だった。下を見ると、暗い海溝のような奈落が口を開けている。もうずいぶん飛んできたはずなのに、レジはまだまだ先だった。足首が重くなり、がくんと体が傾く。
「あ……あ……落ちる……っ!」
りん子は手足をばたつかせ、すぐそこにある取っ手にしがみついた。しかしそれは、前を行く闇の支配者の買い物かごの取っ手だった。
「なっ、何しやがる……あああああああ!」
二人はあっという間に、奈落の底へ落ちていった。
尾てい骨を激しく打ちつけたが、あまり痛みは感じない。奈落の底は思ったほど深くなかったのだ。それに絨毯まで敷かれている。
暗がりの中、りん子は手探りで自分のかごを拾った。中身は無事のようだ。
「嫌になっちゃう。もう少しで着くところだったのに」
全然もう少しではなかったが、りん子はすっかり無料でレジを通る気になっていたのだ。
目が慣れてくると、床にたくさんの紙が散らばっていることに気づいた。拾い上げてみると、電子マネー付きポイントカードの案内や、アルバイト募集のチラシ、宅配サービスの案内などだった。りん子は週末の安売り情報だけをバッグに入れ、後は床に戻した。
そこへ、周りの暗闇よりもさらに黒い塊がやってきて、りん子の捨てたチラシを蹴散らした。闇の支配者が、ふんぞり返って高笑いをしている。
「うるさいわね、何よ」
「こんなちっぽけな穴、一秒で出てやるぜ」
「どうやるの?」
闇の支配者はチラシを一枚拾い、びりびりに引き裂いた。そして息を吹きかけると、紙片は真っ黒な炎を上げて宙に浮かんだ。
「クラッシャー!」
雷が落ちたような衝撃が走る。黒い炎が一斉に壁に当たり、破裂音が響き渡った。闇の支配者は目の前の壁に人差し指を当て、体にまとうオーラをゆらめき立たせている。
「すごいじゃない! これで一気に崩すのね」
見た目は十二、三歳の少年だが、やはり闇の支配者だ。地形くらい簡単に変えてしまえるのだろう。りん子は感心し、煙が収まるのを待った。
しかし、壁は崩れていなかった。それどころか、穴ひとつあいていない。炎のぶつかった場所に焦げ目ができ、わずかに窪んでいるだけだ。
「完璧だ……!」
闇の支配者はかごをリュックのように背負うと、途端に目つきを変えた。腕まくりをし、すぐそばの窪みに手をかける。ひょいと体を浮かせ、その上の窪みに手を伸ばし、下の窪みに足をかけた。焦げ跡はばらばらな場所にあったが、闇の支配者は猫のように体をひねったり伸ばしたりし、壁を登っていく。
「しょぼいんだか超人なんだかわからないわ」
こうなったからには、黙って見ているわけにはいかない。りん子も窪みに手をかけ、壁を登り始めた。まだチャンスはある。彼よりも短いルートを見つけて、先にたどり着けばいいのだ。
ところが、闇の支配者の動きは驚くほど速かった。届くはずのない窪みにも横っ飛びをしてつかまり、足がかりのない場所にもヤモリのように貼り付く。追えば追うほど引き離され、彼の足の裏を見上げるばかりになってしまった。
「ううっ。悔しいけど真剣度が違うわ。何せあっちは国産牛肉だもんね」
りん子は汗びっしょりになり、何度も手を滑らせて落ちそうになり、どうにか壁を登りきった。レジでは闇の支配者が優勝を称えられ、紙でできた王冠をもらっているところだった。
「待ちくたびれたぜ」
闇の支配者は勝ち誇ったように言う。そのかごの中身を見て、りん子はあっと声を上げた。
「それ、私の!」
「え?」
「豚こまとゼリーと乾燥わかめ、私のよ!」
闇の支配者は自分のかごを見て、目を見開いた。そしてりん子のかごを指さし、わなわなと震える。落ちた時に、互いのかごを取り違えてしまったのだ。
「貴様……よくも……!」
走ってこようとした少年を、レジの店員が取り押さえる。はち切れそうなエプロンを着た、太った男だ。
「だめっスよ、お客さん。取り替えは無しです」
「俺は優勝者だぞ」
「当スーパーの決まりっスから」
男は肉厚な手で闇の支配者の肩をつかみ、にんまりと笑った。闇の支配者は憤怒の形相をしているが、暴れることはできないようだ。
りん子は自分のかごを見た。闇の支配者が買うはずだった国産牛肉、それに例の割高なチョコレートやせんべいまで入っている。
当然、りん子がこの代金を払わなければならない。
「ねえ、私二位なんだけど、半額になったりしない?」
しません、と太った男は言った。
「買わないなら、向こうに戻って返してきてください」
りん子と闇の支配者は、乗り越えてきた溝を振り返った。売り場は遠く蜃気楼に揺れ、溝は本当に地球の裏側まで続いているように見えた。