第一章 ⑧
インターホン越しの声を聞いて、真備はかすかに怯んだ。
想像していたよりもはるかに若い女性の声だったからだ。
住宅街を回っていれば、インターホンに出るのは、三十代以降の女性がほとんどだ。
これだけ大きな家になれば、もっと年上、夫が仕事で一財産なした五十代以降の女性の声が返ってくるだろうと想像していたのだが、実際にはとても若い。
(下手すると十代くらいじゃないのか)
だが、これまで何千軒にも言い続けてきた飛び込みトークは自然に口をついて出た。
「こんにちは。私、メリー保険の小笠原と申します。テレビでもおなじみかと思いますが、保険の資料、ご請求いただいたことございますか」
勘のいい人なら会社名を出した段階で保険の営業だと分かる。
ここで「医療保険いかがですか」などと言えば、いきなり断られてしまう。そこで資料請求をしたことがあるかと論点をずらすのである。
『あ、いいえ、ないですけど』
「いまテレビでやっている最新の医療保険のパンフレットを名刺と共にお渡しさせていただいているのですが、ご挨拶させていただいてもよろしいでしょうか」
真備の属しているメリー保険はテレビCMを積極的に行っている。その知名度を利用して親近感を高めつつ、名刺を添えることで相手に決断を促す話法だった。
社会に出たことのある人なら分かるが、日本では名刺はその人自身のように大切に扱うものとされている。
ただパンフレットだけを渡すよりも名刺を添えることで、相手に対して「これは粗末に扱えない」という印象を与えるのである。
パンフレットだけであれば、郵便受けに入れておいてくれと言って終わってしまうことも多いが、名刺を添えるとなると、安易に郵便受けに入れてくれと言う人はかなり減る。
もらわないか、きちんと玄関に出てきて受け取るか、真っ二つに分かれて、郵便受け対応というグレーゾーンがなくなることが多い。
これが御子神ゆかりから真備が習った飛び込みの話法であった。
『あ、はーい』
若い優しげな女性の声がした。この返事は、玄関のドアが開くパターンのはずだ。安心と緊張で背筋が伸びた。
『すみませーん、いま手が離せないので』
ああ、これはダメなパターンだったかと、笑顔が引きつった。しかし。
『暑いでしょうから、鍵は開いてますので、玄関に入って待っててもらっていいですか?』
「は、はい……」
初めてのパターンだった。
門扉を越えて敷地の中へ入り、玄関へ歩いて行く。植え込みの木々が青々とした葉を生い茂らせていた。
これまで飛び込みで怒鳴られたことはあるが、このようにウェルカム的な対応をされたことがないので、むしろ警戒心が先に立ってしまうのだ。
大きな黒いドアの前に立ち、改めて思う。果たして開けていいものだろうか。
(せっかく入ってくれって言うのだ。もう今日は最後にするつもりだったのだし)
時間も時間。夏の日差しが本気を出し始めているのだし、日よけだと思えばいいか。
ドアに手をかける。日が当たっていなかった取っては思ったよりもひんやりしていた。
見た目よりも重いドアだったが、それほど大きな音もせず、するりと開いた。
「失礼しまーす」
やましいことはないのだが、なぜかこっそり玄関に入ってしまった。なるべく音を立てないようにドアを閉める。
「いま行きます。あ、不用心だからドアの鍵は閉めてください」
「あ、はい……」
十分不用心だったことは心にしまっておくことにした。上下の鍵のうち、片方だけしめた。チェーンは下ろさない。
「お待たせしました」
振り返れば、廊下の向こうから先ほどの声の持ち主が、廊下をとたとたとスリッパで走ってくるところだった。
思った以上に若い声だと思ったが、思った以上に若い女性だった。
年齢はまだ二十歳前後くらいだろうか。いかにも育ちの良さそうな、優しげな眉と目をしてた。微笑みにも品がある。抜けるような色白の肌だったが、かすかに桃色の頬が美しい。つややかな黒髪が揺れていた。
サマーカーディガンとスカートという姿が、いかにもお嬢様っぽい。通常、飛び込みでは奥様方の対応をすることが主である真備にとっては、存在自体が新鮮だった。
「すみません、ありがとうございます」
真備の方が家に入れてもらった側なのに、女性の方が謝罪とお礼の言葉を述べていた。かなりいい人らしい。
「はじめまして。メリー保険の小笠原と申します」
真備はいつもの営業の手順に従って挨拶をし、手にしているパンフレットと名刺を差し出した。
「このあたりを担当していまして、パンフレットお渡ししているのですが、保険とかはすでにお入りですか?」
「あ、保険、ですか……」
パンフレットを受け取りながら、女性が口ごもる。
「両親がいろいろやっていると思うのですが、あいにく二人とも海外に出ているもので」
「ああ、そうですか。ご旅行か何かですか」
「父は公立小学校の校長をしているのですが、海外研修ということで。母も一緒に」
「そうなんですか」
両親共に海外に仕事なんて、あるところにはあるものなのだなと真備は感心した。
だが、両親が保健を管理している以上、海外出張ではどうすることもできないかもしれない。
「では、保険の内容とか、おわかりになりませんよね」
「気にはなっていたんです」
ちょっと困ったような表情で女性が言う。
「たぶん、書類とか見つけられると思うのですが、少しお待ちいただいてもいいですか」
おっ、と真備は思った。感触はずいぶん積極的ではないか。
ただ、閉め切った玄関で、暑い。真備は前髪を整える振りをして額の汗をぬぐった。
「ああ、ここでは暑いですよね。どうぞお入りください」




