第一章 ⑦
三鷹の大崎さんのおかげで、査定解雇の心配はなくなったものの、これに安住しているだけではいけないと真備は考えた。
やはり男として、姉弟子に頼りっぱなしで申し訳ないという理由が一つ。
もう一つは、嫉妬の念で他の営業の生霊が増えることを避けたかったからである。
営業である以上、数字を上げなければいけない。
だが、数字を上げれば上げたで、嫉妬するのも営業の性だった。
実に面倒くさいと思う。
数字を上げても上げなくても、結局は自分の収入に跳ね返るだけなのだ。嫉妬するくらいなら、その分、数字を上げる努力をすればいいと思うし、それが嫌なら嫉妬など起こすべきではないのだと真備は思うのだが、その考えは少数派らしい。
だから、改めて潔斎して卦を占った。
どの場所が飛び込みにふさわしいか、吉凶を占うのである。
真備の家は邪霊や生霊が侵入できないように結界を張っているが、その中でも特に祭壇のある一室は、真備が力を尽くして幾重にも結界を張り巡らせて聖別している。
この部屋だけは真備が許可しなければ、式神の梨華といえど立ち入ることはできない。
本来であれば、寺社や鎮守の森などの空間がほしいところだが、真備程度の年齢の若者が都内でそのような空間を確保することはまず不可能である。その条件下であっても、こういう呪的空間を確保したかったので、野に下るときに一戸建てを求めたのだった。
おそらく、隣りのゆかりの家も同様な作りにしてあるはずだ。
完全に霊的に聖別された部屋で、烏帽子と狩衣を身につけ、奈良時代に吉備真備が日本に持ち込み、平安時代に隆盛した陰陽の秘術を駆使し、式盤を回し、星を読み、地脈を尋ねる。
その結果、真備は土曜日にもかかわらず、玉川上水沿いの道を自転車で走っていた。西武多摩湖線の線路を越え、鷹の台の方へ向けて走れば、まだ午前中だというのに濃い木陰の涼もまるで感じられないほどに真夏の熱気が肺を満たす。信号待ちで自転車を止めると、汗が噴き出した。
「この辺、だよな」
真備の卦の示したのは、鷹の台と恋ヶ窪の中間あたりの住宅街だった。
土曜日の午前中である。人の気配はあまりしない。
自転車を止め、呼吸を整えながら汗を拭く。腕時計を見れば十時半。卦が示していたもっとも吉と出た時間は十時過ぎから十一時半。早すぎれば休みの日に迷惑だろうが、あまりゆっくりもしていられない。家から持ってきた冷たいお茶で喉を潤し、いつもの飛び込みセットを手に持つ。
インターホンを鳴らし、「おはようございます。メリー保険の小笠原と申しますが」と笑顔で飛び込みを開始する。
だが、卦で出たからと言ってアポが取れるほど単純なものではない。
勘違いされがちだが、霊能があればすべての問題が解決し、営業成績もうなぎ登り、なんて単純なものではない。
体力の限界で邪霊に勝てなくなることもあるし、日々の平凡に見える修行をおろそかにしては転落が待っている。
正しい導きか魔のささやきかを見破るには半端な知性では間に合わないし、そもそも頭が悪ければ『金烏玉兎集』や『占事略决』をはじめとする膨大な経典や仏典を読みこなすこともできない。
だから、本物の霊能者であればあるほど、自力の大切さを痛感しているはずなのだ。
(けど、俺があれだけ真剣に占って出した以上、何かあるはずなんだ)
占については、姉弟子の御子神ゆかりは当代屈指の使い手であるが、真備の占も姉弟子に肉薄するレベルであるのだ。
実質一時間の勝負だが、一時間あればかなりの軒数に飛び込みをできることができる。
……そして、一時間、ことごとく断られるづけると、さすがに嫌になってくるものである。
「では、またよろしくお願いしまーす」
インターホン越しに挨拶をして、汗をぬぐう。暑い。セミの音がわんわんと頭に響く。
腕時計を見れば、あと数分で十一時半になる。
「もう、おしまいにしようか」
ちょうど分譲住宅の端まで来たところだった。
見回せば、ちょっと離れたところに大きな白い家が建っている。このあたりの分譲住宅の数軒分はあるだろうか。大きな車庫はシャッターが閉まっていて、どんな車に乗っているか分からないが、家の大きさから考えていわゆる富裕層と考えてよいだろう。
「姉弟子は『高額保険契約も月払千円のガン保険も、営業の大変さは同じ』って言うけど」
富裕層はどの営業マンも狙いたがる。ただでさえ、世帯の九割近くが生命保険に加入している昨今、他社の生命保険営業ががっちり押さえ込んでいるものだ。
もっとも、それがベストの商品化と言えば、そうでないことも多いのだが。
そんな道理の合わないことが世の中なのだと、真備は営業をしながら徐々に学んでいた。
ちなみに、真備は飛び込みで富裕層のお客様を持ったことはまだない。
「よし、あの家で最後にしよう」
表札には「二条」と書かれていた。いかにもお金持ちそうな名字のように思えたが、不思議なもので、これで今日の飛び込みは最後と考えるとかえって気が楽になった。
インターホンを押す。ピンポーンと言う音が鳴ってしばらく待つ。微笑みは崩さない。インターホンのカメラにはもう真備の姿は映っているはずなのだから。
いい加減、留守かなと思ったころ、女性の声がした。
『はーい』