第四章 ④
「ネタバレをしてしまうと、君がガン保険を申し込むときにきちんと話をするつもりだったんだ」
「そうなのですか」
「そうとう現象化している霊存在であれば、電気関連に干渉して携帯やスマホでメールや電話をすることもできるし、玄関の鍵を開けるくらいはできる。しかし、ボールペンを自分でもって署名できるなんて聞いたことがなかったから、君もできないだろうと思っていたんだ」
だから、契約時にどうやってもボールペンを持てないことを桜子自身に体験させて、おかしいと思わせ、「実は……」と説得しようと思っていたのだ。
「けれど、君は普通にボールペンを使って署名をした」
実際には真備は、無茶苦茶驚いていたのだ。
「ああ、だから、あのとき、わたくしのことをずっと見つめていたのですね」
「まあ、そんなところ」
だが、普通に署名をされてしまったので、説得のチャンスを逸したのだ。
「さらにそのあと、君が倒れた」
「はい――」
「君が夢に見たと言ってたのは現実だ。君は何体かの大蛇の霊に身体を締め上げられていた。そしてそれを、俺と姉弟子と俺の妹を名乗ってた式神で祓った」
「………………」
「どのタイミングで君に話そうかと思った。うちの姉弟子でさえ、昨日教えるまでは、君が生霊だとはまったく気づいていなかったくらいの高度な現象化を行える君を、どうやって助けようかとね」
「姉弟子、さんって、あのきれいな女の人ですよね」
「そうだね」
桜子の首が、かくんと横に倒れた。
「やっぱり、あの女の方がいいんですか――」
真備は組んでいた足を解いた。
桜子の眼窩が真っ黒になっている。
「そうですよね小笠原さんこんな寝たきりのわたくしより小笠原さんはああいう女の人のほうが小笠原さんはいいんですよね小笠原さん」
桜子の顔がゆがむ。悔しさ、悲しみ、怒り、憎しみ。
そして、嫉妬。
「ああああああァァァァ」
慟哭が桜子の清らかな面立ちに深いしわを刻みつけていく。
彼女の小さな口が裂け、牙が生える。
こめかみの上の辺りに小さな突起が生まれ、角と化す。
「般若……やはり、姉弟子を襲ったのは、桜子さん、君だったんだね――」
真備は悲しげにつぶやく。
両手は膝の上に置いたまま、印も結ばなければ、霊符も構えない――
『お父さん、あのね、今日も稲荷神社で遊んできたんだよ。白子がね、どんぐりくれたんだ』
『桜子、何を言っているんだ。白子なんて子はいない。しっかりするんだ』
『だって、ほら、どんぐりあるもんっ。お母さんはさっき白子に会ったよね』
『そういうお友達がいる振りをして遊んでいるんでしょ。お母さんが迎えに行ったとき誰もいなかったじゃない』
『いたよっ。お母さんにばいばいしてたよっ』
『もう四年生だというのに、変なことばっかり言っているとお父さん怒るぞ』
『あっ!』
『あなた! 娘に手を上げるのはやめてください!』
黒い霞に包まれ、般若と化した桜子が真備に襲いかかった。
鈎爪の生えた大きな手でひっかき、牙の生えた口で真備の首にかみつく――
『!?』
般若の鬼がその手応えのなさに肩すかしを食らった。
「心の在り方を、普通の人間のレベルから遊離させたから、もう俺に襲いかかることはおろか、触ることもできない」
真備の声がどこまで届いているか。
だが、届かせなければいけない。
「無意識のうちに霊能力を成長させ、無意識のうちに生霊と化し、無意識のうちに大蛇の霊の呼び寄せ、無意識のうちに般若の鬼と化して姉弟子を襲った」
悔しげにうめきながら、桜子は熊のように両手を振り回すが、真備の身体を通過していくだけだった。
「このままでは君はその姿の通り、般若の鬼となって肉体に金輪際戻れず、死を迎えて怨霊となってしまう」
その間も、桜子は真備の身体を襲い続けている。
「無意識のうちに君がしたことのすべて、そのほんとうの原因は君の気づいていない無意識の叫びにある」
暴れまくる般若の鬼をまえに、真備は立ち上がり、抱きしめた。
法力で抱きすくめられた桜子が、苦しげに身をよじる。
眼をきつく閉じ、真備の法力から逃げようともがき続けていた。
「君はさみしかったんだ――ご両親に理解して欲しかったんだ」
「つらかったよね」
「悲しかったよね」
「心が引き裂かれそうだったよね」
「わかるよ」
「俺も霊能力を持っているから」
「我慢しなくていいよ」
「でもね、桜子さん」
「ご両親を責めるのはもうやめよう」
「この世では、霊的なものが見えないのがルールなんだから」
「霊的に何も見えない世界で、よりよい人生を生きようとするところに、神仏の願いがあるんだよ」
「ご両親は君を愛していたんだよ」
「白子も」
「クラスメイトたちも」
「君は決してさみしくなかったんだよ」
「いままでも、これからも」
「君はさみしくなんか、ない」
「けれど」
「そのさみしい気持ちも、きみの大切な心の一部」
「どうしてもさみしくて」
「泣きたくなったときには」
「いつでも泣かせてあげる」
「だから」
「戻っておいで」
「君は――二条桜子」
「世界で、宇宙で、たったひとりのかけがえのない存在」
「君は、二条桜子――」
長い夢だった。
長いトンネルだった。
でも――終わらないトンネルはない。
明けない夜はない。
夜明け前がいちばん夜の闇が、深かっただけ――
桜子はゆっくりと目を開けた――




