第四章 ②
「桜子さん、今日は『あなた』に会わせてください」
桜子が意味を尋ねる前に、真備は素早く靴を脱いで家の中に入った。
「えっ、えっ、えぇぇっ!?」
うろたえる桜子を尻目に、真備がずんずん歩いて行く。
「お、小笠原さんっ!?」
いつの間にか取り出した小さな錫杖を振るいながら、二階へ上がっていく。
その錫杖の音を聞いていると、歩く速度が遅くなるのを桜子は感じた。
真備は二階へ上がるとまっすぐに奥の部屋を目指した。
ドアには「桜子」と書かれている。
ドアノブをつかむ。何かしらの霊的反発を予想したが、意外なことに何もなかった。
「開示する」
それでも万が一があるので念を集中してドアを開ける。
薄いレースのカーテンのおかげで、日差しがさんさんと降り注ぐ部屋は、エアコンで温度調整がされているのか、思いの外過ごしやすい空気だった。
勉強机があり、クローゼットがあり、本棚があり、ピンクのタオルケットのあるベッドがある。
目指すべき対象はすぐに見つかった。
「ここでしたか、桜子さん」
真備は優しく声をかけた。
ベッドに横たわって眠っている二条桜子の肉体に――
☆☆☆☆☆
(えっ、何、なに、ナニっ!?)
桜子はとにかく気が動転していた。
真備がやってきたと思ったら、突然、家に上がってきた。
両親がいないこの家に、いまは自分しかいない。
真備はなんと大胆なのだ。意外だ。意外すぎる。でも、それもいいかも?
いくつか段階をすっ飛ばしている気がするが、あの人なら、などと考えていると二階へ上がっていってしまった。
(いきなり、わたくしの部屋でですか!?)
もはや桜子は尋常ならざる混乱の極致にいた。
だが、しかし――
(あの人の後を追わなければいけない)
(あの人に見られてはならない)
不思議なまでの脅迫的心情がわき上がり、真備の後を追った。
洗濯物を出しっぱなしだったろうか。部屋が散らかっていただろうか。
とにかく、二階に着いたときには、すでに真備が自分の部屋に入ろうとしているときだった。
桜子が真備の背中に追いついたとき、真備が言った。
「ここでしたか、桜子さん」
近くで見ると意外と肩幅のある真備の背中を見上げながら、
「え、わたくしはここに――」
真備がするりと部屋の中に入った。
するとそこには――
ベッドで眠り続ける自分自身の姿があった――
「ああ、あああああ、ああああああああああああ――」
その瞬間、桜子は思い出した。
「わたくしは、ずっとここで寝たきりだった」
「両親もいない家の中で、わたくしはひとりぼっちだった」
「じゃあ、いまここにいるわたくしは、一体何なのですか――ッ」
慟哭のような叫び声を上げる桜子に、真備は寂しげに微笑んだ。
「桜子さん、このベッドで寝ているのが君の身体。そして、いま俺としゃべっているのが、君の魂」
真備は錫杖をベッドの傍らに置きながら続けた。
「君は魂だけが抜け出て、現象化している状態なんだ」
「魂……わたくしは――死んでいますの?」
「死んではいないよ。自分で気づかないうちに魂が肉体から遊離していたように、知らないうちに肉体に戻って生命維持を図っていたんじゃないかな。でも、魂の自由自在さに比べれば肉体は重い潜水服みたいなものだから、すぐに嫌になったかもしれないね」
思い当たる節がありすぎる。
絶句している桜子に真備が続けた。
「だから、いまの君は、正確に言えば生霊の一種になる」
「生霊……」
桜子は自分の手を表裏返す返す見つめている。
「でも、わたくし、こうしてここにいますわ。小笠原さんともお話しできている」
「普通の生霊は、普通の人には見えないね。でも、桜子さん、君の場合は完全に現象化している。俺も長年、生霊の相手をしてきたけど、ここまで完全に現象化した事例は初めてだ。幽体離脱と言ったほうがいいかな」
「『長年』? 『相手』? 小笠原さん、あなたは――」
桜子が動揺し、戦慄した顔で真備に問いかけた。
真備はまっすぐに桜子を見つめて言った。
「俺のほんとうの職業は、陰陽師だ」
「陰陽師――」
「悪霊を調伏し、生霊を解決するのが、俺のほんとうの仕事」
桜子の顔に生理的な恐怖が浮かぶ。
「いつから、お気づきでしたの――」
真備が桜子の手を取り、ベッドの端に座らせる。お互いにお互いの手の感触をしっかり感じた。これでどこが生霊だというのだろうか――
真備は桜子が普段使っているのであろう椅子に座って告げた。
「初めて君に会ったときから、俺は気づいていた」
桜子が目を丸くした。何かしゃべろうとするが唇がわななくだけで、言葉の形にならない。
「俺の名前」と、真備が続けた。
「『小笠原真備』という名前は、大陰陽師でもあった『吉備真備』から取ってきている名前。名前は縁。俺の名前には『吉備真備』の呪力が、霊的な力が込められている」
だから、生きている人間には普通の名前だが、悪霊や生霊の類は反発する。
「君は俺の名前を口にすることができなかった。その時点で分かっていたんだ」
桜子の呼吸が荒い。
「あと、付け加えるとしたら、夏のさなかにあれだけ長話して、君は喉が渇くそぶりも見せなかった。霊体だから飲み食いの必要はないからね。だから君は夏に汗だくでやってきた俺にも飲み物を出さなかった。さすがに、冷蔵庫を開けてものを出すようなことはできないみたいだね」
「でも、どうして……わたくし、どうしたら……」
泣きそうになっている桜子に真備は淡々と語りかけた。
「稲荷神社の白子」
その名を聞いたとき、桜子はびくりと震えた。




