第一章 ③
真備は陰陽師である。
闇の中にうごめく悪霊や生霊を調伏し、病気平癒を祈祷し、物事と時の吉凶を占って、人々を導くのが本務である。
その立場からすると、保険契約の額で一喜一憂し、がんがんに叱り飛ばしているマネージャーの姿が何か不思議な演劇じみたものに見えてしまうのだ。
しかし、ある程度の数字を上げないことには御飯を食べていけないことは事実なのだ。
下位五人へのお説教は三十分ほどもあっただろうか。解放されて席に戻ろうとすると、すでにゆかりは退社していた。
スマートフォンには「終わったら今日は帰りなさい。数字については後で話をするから」というゆかりからのメールが入っていた。
普段なら自宅周辺を自転車を使って飛び込み営業したあと、ゆかりに報告メールを入れて直帰しているのだが、今日は都合一時間のお説教を食らうためにわざわざ会社に戻ってきている。
これからさらに二時間ほどかけて家に帰ることになる。
普段あまり使わない帰宅ラッシュの電車に揺られ、家路を急ぐ。
いちばん後部の車両に乗り込んだものの、帰宅時間の中央線は、体力と霊力がどんどん周囲に吸われていくようだった。
(一日中、仕事で疲れてストレスためて。そりゃ、いろんな動物霊にも捕まるよな)
真備は左眼に念を込め、周りをちらりと見る。
吊革につかまっている疲れたサラリーマンの腰には犬の霊がしがみついていた。犬の霊、ということは仕事でごまかしやズルをしたのかもしれない。
その前に座っているOLは肩に緑色のマフラーをしている。よく見たら蛇の霊だった。蛇になつかれるということは、嫉妬深い女の人なのだろうか。
あたりまえだが、当の本人たちはそのようなものは一切見えていない。
それはそれで幸せなことなのだと思う。
身体が重い。
真備は眼を閉じた。
霊視の効く真備には人の多いところは堪える。
だから、朝の出勤もなるべく早い時間の電車に乗り、疲労波動と邪霊のたぐいに接触しないで済むように狙っている。
朝、会社で朝礼に出た後は、さっさと小平に戻って、地元を自転車で飛び込み営業をして、そのまま直帰しているのも、多くはその霊体質ゆえの行動だった。
「保険の営業というのは自由がきくからね」と言ったゆかりの言葉は、嘘ではなかったのだ。
そもそもゆかり自身が真備と同じ陰陽師であり、小さいころは一緒に修行した姉弟子でもあるのだから、自身の経験を元に、表の世界で生活することになった真備を誘ってくれたのは大変ありがたいと感謝している。
スマートフォンのバイブが振動した。
『差出人:梨華(式)
題名:晩ご飯
本文:遅くまでお疲れ様です。
なので、今日は真備様の大好物のハンバーグです。
がんばって帰ってきてください』
同居人からのメールを一瞥して、思わず頬が緩む。
電車は武蔵小金井駅を過ぎ、もうすぐ国分寺駅に着く。
電車から吐き出され、むっとする熱気の残る長いホームを歩く。蛍光灯が一本切れていた。
改札を通過して、階段を降り、駐輪場へ向かう。みんなが同じように歩いていて、少しだけ愉快だった。
自転車をこいで夜の道を駆ける。アスファルトの熱は収まっていないし、セミの鳴き声は夜の闇を押しつぶすようだったけど、頬に当たる風が心地よかった。
駅から三十分ほどで、真備の家にたどり着く。
近くには警察学校があり、広大な敷地の小平団地が続いている。団地の灯りを左手に見て、さらに信号をいくつか越えれば、小さいながらも一戸建ての真備の家だった。
自転車を止めて鍵をかける。玄関に灯りがついていた。隣りの家を見ると、やはり玄関に灯りがついている。
小平市の住宅街の中のごくありふれた一戸建てである。一部、呪的にリフォームしてあることを除けば。
鞄を自転車のカゴから取り出し、玄関に向かうと、扉がひとりでに開いた。
「ただいまー」
自動ドアのように勝手に開閉する扉が、真備を迎え入れたあと、鍵がかかった。オートロックと違っててきぱきしている。チェーンがふわりと持ち上がり、チェーン自身でロックした。
まるで見えないドアマンがいるような動きだった。
これも真備の陰陽師としての力のなせる技だった。
「おかえりなさいませ、真備様」
少女の声と、フライパンで何かを焼く音、食欲を刺激する香りがした。
革靴を脱いで玄関に上がろうとしたところで、バシッと言うラップ音がした。
「真備様、生霊がついてきてますよー」