第二章 ⑨
時間は、少し戻る。
クラシックを聴きながらゆっくりしていた真備は、隣りの家からゆかりが禹歩で調伏先に移動したのを感得すると、立ち上がって、シャワールームへ向かった。
シャワーの水を頭から浴びる。
冷たい水が、身体の表面の薄い汗の膜を洗い去り、疲労素とともに肉体感覚自体が抜け落ちていくような感覚になる。
「真備様ー、着替え置いとくねー」
言い方こそ普段通りだが、聞く者の心のどこにも刺さらないよう注意された声だった。
「ありがとう」
真備の声が柔らかい。
深い精神統一で、心が生まれたての赤ちゃんの肌のように柔和になっていた。
それ自体が幸福そのもであるような心。
人間としての自分が精神を統一しているのではなく、神仏の光のパイプそれ自体になったような境地。
神仏の掌に心一つで飛び込んだような開放感と至福の状態。
古代の人々が「神体験」としていた世界に限りなく近い場所。
陰陽師・小笠原真備としての最高の状態である。
身体を丁寧にぬぐい、用意された着替えに袖を通す。
式神の梨華が用意してくれた白い狩衣を身につける。動きやすいようにやや細身に作ってある。
烏帽子をかぶる。
深く、息を吐いた。
切れ長の目に神秘の光が宿り、額を叡智が飾る。
いまの真備の姿を奈良や平安の時代の人が見たとしたら、御仏の尊さを感じて自然と手を合わせたかもしれない。
祭壇のある一室へ行くために階段を上がろうとすると、巫女装束の梨華が待っていた。
互いに無言で軽く一礼。
真備、梨華の順で祭壇のある部屋に入る。
二礼二拍手一礼。
大祓祝詞を上げる。
「陰陽師・小笠原真備、謹んで調伏つかまつります――」
真備が深くぬかずく。
しばらくして面を上げた真備が「梨華」と呼びかけた。
梨華が軽く一礼して立ち上がり、真備の背後に立つ。
刹那、巫女姿の梨華が大きな烏の姿に変化。
いや、梨華だけが変化したのではなかった。
梨華は真備ごとその姿を漆黒の烏へと変化させたのだ。
闇夜を切り取ったかのような大烏は、壁をすり抜けてそのまま黄昏の大空へ――
真備も梨華も禹歩を扱うことはできるのだが、梨華と共に調伏に赴くときには、だいたい大烏への変化を用いる。
どの方角に飛ぶかの指示は、真備の意識にゆだねられていた。
大空を自在に飛翔するひととき。
真備は人間的悩みも欲望も執着も、一切を忘れることができる。
そしてそのまま、調伏対象のいるマンションへと舞い降りる。
入り口はオートロックになっているので、ふわりと上空から回り込み、マンションの内側、目的のフロアである五階へ直接飛んでいく。
大烏が音もなく羽打ちしながらフロアに下り、再び梨華と真備に分かれる。
「奥の部屋だ」
「どんな人なの?」
相変わらずいつも通りのしゃべり方で梨華が尋ねた。
「ご主人が小さな会社の経営者。奥さんがその経理を手伝っている。子供はいない」
九字を切って結界を張り、真備と梨華の姿を隠行する。
「悪霊憑依を呼んでいるのは旦那さん? 奥さん?」
「奥さんはかなり吝嗇の気はある」
「リンショクって?」
「ケチってこと」
真備は懐の霊符を確かめる。
先日の保険営業の面談でのやりとりをぼんやりと思い出す。
「とにかく保険って損ばっかりするから嫌なのよ」
五十過ぎの奥さんはやたらとその台詞を繰り返していた。
「医療保険なんていったって、一度も入院しやしないんだから、損ばっかりじゃない」
まるで真備が諸悪の根源だと言わんばかりの文句の付けようだった。
「でも、奥様がお支払いいただいたその保険料のおかげで、日本のどこかのご家庭が助かっているわけですから」
「そんなどっかのご家庭なんて興味ないわよ。とにかく保険って損ばっかりするから嫌なのよ。とにかく保険、安くてお金をくれるのにして頂戴」
身につけている物はずいぶん高価そうだった。指輪を三つ位して、宝石のたくさんあるネックレスをしていた。
ちょうどご主人もお休みだったので同席してくれていたが、ご主人のほうは筋肉質ではあったが、実に質素な格好をしていた。
奥さんに関する物はやたらときらびやかだったが、ご主人の気配のようなものは感じられない家だった。
ご主人のほうが、桜子のご両親と知り合いとのことだった。
「まあ、そんなにこの人に言ってもしょうがないだろ。そんなにお金お金言うな」
「そんなこと言ったって、いままでどんだけ保険で損してきたのよ」
「その分、何もなかったんだから。お守りですよねえ、小笠原さん」
「ご主人様のおっしゃるとおりです」
そして奥さんの言い分ももっともだったろう。
聞けば、会社を経営してすでに二十年以上。赤字のときもあったが、基本的には黒字経営をしてきたというから、いろんな保険会社にとってはいいお客さんだったろう。
案の定、経営者保険にやたらと入っていて、しかも条件がいまいち。
それを知ったときの奥さんのキレっぷりは、その瞬間に餓鬼霊と阿修羅霊が数体寄ってきたくらいだった。
真備の話を聞いていた梨華が、あきれたように笑った。
「あちゃー。阿修羅霊もいるんだ。で、あたしなんだね」
「姉弟子には言ってなかったけどね。梨華、頼む」
「あいあい」
梨華が表情を改め、深呼吸を数度。
真備は静かに場を見つめ、阿修羅霊たちを呼びつける。
血にまみれ、粗末な武器を手にした亡者がゆらゆらと現れる。
その一方で、真備が右手を梨華にかざし、霊力を分け与えた。
梨華がいつの間にか手にした矛先鈴を手に、静かに舞を始めた。
式神である梨華も、呪を操り、魔を調伏することができる。
しかし、彼女ならではの祓い方もある。
それは――神楽。
梨華が透明な声で小さく詠いながら、神楽を舞うと、阿修羅霊たちが苦しみ始める。
阿修羅霊は生きていたときに主として怒り、闘争、破壊の人生を生きてきた連中。神楽の持つ美と調和の波動が苦手なのである。
そして、梨華の神楽は場を清める力において傑出しているのだった。




