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第一章 ②

 三越前駅の階段を駆け上がり、日本橋オフィスに滑り込んだときには、腕時計はすでに十八時を示していた。普段、腕時計は数分早めに設定しているから、ほんとうの時間はもう少し前かもしれないが、ロスタイムの範疇でしかないだろう。


 エレベーター待ちの人数が多い。外回りから帰ってくる人たちとかち合ったようだった。


 オフィスのある六階までのエレベーターが長い。


 首に提げた社員証でオートロックを解除する。フロアの中には複数のオフィスが入っているが、真備が所属している第二日本橋オフィスの方を見やる。三十五人の営業マンのほとんどがミーティングのために戻ってきている。


 マネージャールームの扉が開いている。つややかな黒髪のゆかりが、最近生え際の後退著しい前橋と何事か談笑してくれていた。オフィスの時計を見るとちょうど十八時。滑り込みセーフであってほしい。


 知的女性エグゼクティブとでも言いたくなるような華やかさと年相応の落ち着きのあるゆかりの微笑みに、前橋のご機嫌が保たれているようだ。目を見張るような完璧な脚線美とボディーラインは、いつも自信に満ちた絢爛な美しさを感じさせる。


 ゆかりが会話をまとめたのか、一礼した。タイトスカートとハイヒールのゆかりが淑やかに席に着く。色白の顔に口紅が映える。真備の席はゆかりの席の隣りだった。


 ゆかりが小声で「ごめん、ダメだったかも」とつぶやいた。マジか。


「じゃあ、ミーティング始めまーす」


 前橋が資料を配る。今月の営業成績に対する中間ミーティングだ。


 もらった資料をざっと目を通す。真備の名前は一番下にあった。


「あと小笠原、十八時からって言ってんのに、なんで遅刻したの」


 開口一番、前橋が露骨ににらみつけてきた。


 やっぱりバレていた……。


「あ、すみません。飛び込みで、お客様との話が長引いて」


「ふーん。で、アポは取れたの」


「あ、いえ、ご年齢が高くて」


「ふーん。紹介は」


「いえ」


「ふーん。で、遅刻したんだ」


 前橋がじっとりとした目つきで真備を睨む。ねばねばしたものが身体を這う感覚がした。


「今月の見込みはどうなの。おまえさ、今月数字行かなかったらヤバいんじゃないの」


「が、がんばります」


「だからさ、どうがんばるの」


「えっと」


 具体策は、なかった。


「以前、私が同行した案件で、アドオンが出ます。それからいくつか同行案件があるので」


 助け船を出してくれたのはゆかりだった。


「そう。わかりました。ちょっと中断しましたけど、みなさん資料見てください」


 あっさりと前橋が引いてくれた。ゆかりの一言に込められた霊力のおかげだった。


 だが、真備の営業成績がオフィスビリであることも、今月が査定解雇のぎりぎりのラインであることも代わりようのない事実。ミーティング中にもちくりちくりと嫌みを言われっぱなしだった。


(三十分くらいのミーティングのために、なんでわざわざオフィスに戻らないといけないのだろう)


 ミーティングが終わってからも、下位五人は隅のミーティングスペースに呼び出された。真備も含まれている。


 内容は聞かなくても分かっている。契約を取ってこいと言うことだ。


「だからさ、俺だってこんなふうに言いたくないし、みんなも言われたくないだろうし。でも、みんなの目標クリアしなかったら、みんなのほうが食べていけないだろ。目標クリアすればお給料もちゃんとした額が出るし、誰からも何も言われなくなるんだから」


 こんなふうにねちねちと言われるのが嫌なら成績上位者になれというのだが、だからといってそんなふうに保険を売れるようになるわけもない。


 ほんとうに、生きていくことは大変だよなとどこか人ごとのような気持ちで、神妙に考えていた。


 怒られる方も大変だけど、怒る方も大変だと思う。


 散々がんばって仕事してきて、年を取って亡くなって、自分が死んだことも気づかず、最終的に今日の昼間に引導を渡した老人のようになるのだとしたら、毎日の仕事がなんとも言えないペーソスに彩られていると思う。


 マネージャーの前橋も、成績上位で年収一千万円超の営業も、成績の振るわない者も、一日中仕事をしている。土日もなく働いている者も多い。


 だが、食事や飲み会ではだいたい仕事や上司の愚痴が飛び出してくる。


 そんなに文句ばかり言うことに自分の人生の時間の大半を捧げられるということに対して、皮肉ではなく、俺にはまねできないなと真備は感心していた。


(この人たちは仕事に命を賭けているのだろうか)

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