第二章 ⑧
「蛇と狐。表のスナック辺りから流れてきたのかしら」
ゆかりが霊符を投げつけ、星を切る。口に呪を唱えれば、煙を吹き消すように蛇と狐どもが消えていく。
「真備くんの言っていたもう一体はどこかしら」
黒い煙のような動物霊の名残が、消えない。
「ひょっとして、もう堕ちていたとか?」
煙状になった霊体の一部が空間に残滓する。
ゆかりはもう一枚、霊符を取り出し、左手に構えた。
黒い煙がくるくると渦巻き始め、不自然に膨らんだ。
「おでましね」
生きていたときに来世の実在を信じず、六大煩悩に翻弄されていた人間が、死後、地獄に堕ち、悪霊となる。
六大煩悩とは、貪、愼、癡、慢、疑、悪見(仏法に反するものの見方)――。
その煩悩の強さに応じた地獄へ堕ちるのだが、人間性よりも動物性のほうが上回ってしまった場合、畜生道に堕ちることとなり、魂そのものが動物霊のようになってしまうことがある。
目の前の黒い霊体のように。
それは、人の頭をした大蛇とでも言うべき姿に変わろうとしていた。
コンピューター全盛の現代社会であるが、一皮むいた霊的実相は、『今昔物語集』などの古典世界から一歩も進んでいない。
なぜなら、この世に生きている人間の心理は百年前も千年前も二千年前も変わらないからだ。
むしろ、退化しているのではないかとゆかりなどは思う。
(平安時代の人のほうが、悪霊も生霊も百鬼夜行も実際のこととして知っていたのよね。こんなとんでもない大蛇もどきがいたら、絶対に気づいている)
そして自発的に陰陽師なり密教僧のなりに調伏を依頼しているはずだ。
分からないが故に悪霊に翻弄される。
真備の話ではここの家の奥さんは夫以外に複数人の男性と関係を定期的に持っているらしい。真備曰く、「見た瞬間に視えた」というから、ひょっとしたら真備が訪問する直前まで件の男性と関係していたのかもしれない。
その心が邪霊を引き寄せ、また邪霊がその人に影響を与え、人生の混乱を加速させる。
(その心を糺すのが最終的には必要だけど、こんな大蛇がいたら冷静になれっこないからね)
だから、ゆかりや真備が悪霊を調伏し、外科手術として邪悪なものの影響をいったん遮断するのである。
「ここにいる奥さんの心の波長と同通してここに来たのだろうけど、いまはここからいなくなりなさい」
人面大蛇は大きく口を割き、よだれをたらし、先の割れた長い舌をちろちろとしている。瞳は縦に長く、濁った緑色をしていた。髪は濡れた水草のように乱れて張り付いていた。
その蛇の身体でゆかりを巻き取ろうと蠢く。
ゆかりは大きく後ろに飛び退いた。
大きく鎌首をもたげたその首の少し下、人間で言えば胸に当たるバランスの所に膨らみが二つ見て取れる。
この人面大蛇は生前、女の人だったのだ。
(おそらく、ここの奥さんと同じように幾人もの男との情事をむさぼり、破滅した人生を送ったのだろう)
つまりは、いまこの邪霊の取り憑いている奥さんも、このままであれば同じような死後の姿が待っていると言うことなのである。
ゆかりが魂を込めてしたためた霊符を投げつける。吸い込まれるように霊符が人面大蛇の額に張り付く。
印を結び、不動明王の真言を唱える。
「のうまくさんまんだばざらだんかん」
ゆかりの唱える真言によって不動明王一字咒が発動され、不可視の霊的炎が一挙に大蛇の身を丸呑みにする。
『イヤアアアアアアッ!』
人面大蛇はおぞましくもまだ人声を発することができた。不動明王の怒りの火炎に包まれて、今度こそ、調伏――
「地獄の底へ還れッ」
ゆかりが渾身の気合いと共に印を振り下ろした。
次元を突き破るかのような法力の圧力が大蛇を押しつぶし、そのまま地獄の底へ叩き落とす。
黒い煙のような邪霊の想念のかけらも残っていないことを確認し、ゆかりは大きく息をついた。
「不倫はダメよ。邪霊のいないいまのうちに、目を覚ましなさい。そうしないとまたあいつが戻ってきて、今度こそあなたはあの大蛇と同じモノになってしまう」
玄関の扉の向こうにおそらく何も感じずに生活しているであろうあったことのない主婦に忠告しながら、祭壇で清めた塩を辺りに撒く。法力のこもった塩だから、簡易的な結界効果はある。
「いまの旦那さんと仲良く暮らしなさい。どうしてもダメなら離婚してから次の恋を探しなさい。物事は順序が大切なのよ」
ゆかりはアパートを後にした。




