第二章 ②
(そんな連中に笑顔で接してもいいように使われるだけだぞ、と)
エンターキーを叩く。真備は別のコピー機のインクの補充をしていた。
なぜだか知らないが、社歴も年間成績も真備より下の新人にまで、用を言いつけられている。
これではパシリじゃないか――
適度に距離を取ればいいのにと思う。
そもそもほんとうの立場であれば、この辺の営業マン風情が真備と対等に口をきくなんておこがましいにも程があるのだ。
それを思うと悔しくて仕方がない。
(百年に一人の天才と言われた大陰陽師なのに)
設計書の印刷ボタンをクリックする。
陰陽師として比較したとき、自分は真備の狩衣の裾に触れることもできないくらいの実力差であるとゆかりは思っている。姉弟子であるのは単に年上だからに過ぎない。
自分は早々に本山での修行をあきらめ、下野する道を選んだが、真備はそのまま本山に残るべきだったのだ。
(真備くーん、交換したインクトナーはそこに置いておけば回収してもらえるよー)
陰陽師といっても人間だ。嫉妬もあれば権力争いもある。霊能力よりも政治力がモノを言う世界に、ゆかりはうんざりしていた。
巨大な力を持ちながらも、それらに無頓着すぎて、まったく何も感じていなかったが故に、真備は下野することになったのだ。
そしていまも、その人の良さにつけこまれて雑用を仰せつかっている。
ゆかりが思うに、陰陽師という者はもっとえげつなくていいのではないか。
歴史的に有名な陰陽師といえば安倍晴明だが、物当て対決では箱の中身を言い当てるのではなく霊力で自分の答えのネズミにすり替えるし、首切られても復活してるし、見た目もよかったようで宮中で晴明を慕うサロンのようなものもできていたみたいだし、結構えげつないと思うのだ。
晴明のライバルの蘆屋道満については、史実はどうあれ、呪術界の悪役の代表格に近い。
安倍晴明について付け加えるとするならば、特に、それまでは賀茂家が独占していた陰陽寮の要職を、晴明のときに天文道を賀茂保憲から授けられ、以後、安倍家が「天文道」を、賀茂家が「暦道」を受け継いでいくこととなったことに対して、ゆかりはえげつないなあと感じている。安倍晴明がそれだけ優秀だったからという見方もできるが、このとき暦道を授かったのは賀茂光栄。安倍晴明の十八歳年下の師匠である。一部では兄弟子とする見方もあるが、ゆかりたちに伝えられているところでは師匠だったとされているのだ。
陰陽師のスーパースターたる安倍晴明より十八歳も年下なのに、その師匠だったということは、賀茂光栄がどれだけの大陰陽師だったかが分かるというもの。
そのような若き天才の師を差し置いて、陰陽寮で頭角を現したというのも、底知れぬ政治力のようなものを感じる。
現に、安倍晴明は陰陽寮以外でも官僚の公職を転々としている。
かたや、安倍晴明の十八歳年下の師匠だった賀茂光栄である。
賀茂家といえば、平安時代の有名な陰陽師である賀茂忠行・保憲親子の直系でありながら、ほとんどと言っていいほど名前が出てこない。
その法力たるや絶大で、六大神通力のすべてを備えていたという。
だが、弟子である安倍晴明に天文道を取られ、歴史のなかでその名はほぼ忘れ去られている。
(ひょっとしたら、賀茂光栄って、真備くんみたいな人だったのかもね)
ゆかりは設計書を粛々と作りながら、ぼんやりと考える。
自分の名声に無頓着、政治にも無頓着。週末だけ、陰陽師としての力を振るって悪霊を調伏するけど、その行いは名を隠してなされるから、感謝されることもほとんどない。
一緒に修行していた小さなころからのほほんとしたところのある子だと思っていたけど、もう少し自分を大切にしてもいいと思う。
一通り雑務を捌いて、真備が自分の席に戻ってきた。ネクタイがちょっと曲がっていた。
「ネクタイ曲がってるわよ」
「あ、すいません」
真備がネクタイを慌てて直す。
「今日の同行の資料、できてる?」
自分のパソコンの画面から目を離さずに話しかけると、真備が手元のクリアファイルを取り上げた。
「できてますよ」
「見せて」
受け取って中身を一瞥する。
「終身の方はこれでいいとして、ドルの方、月払千ドルとそれの年払も作って」
「はい。って、結構高額ですね」
「決めるのはお客様よ」
この辺、真備は甘いと思う。
「いつも言ってるでしょ。私たちは保険の営業としてプロなんだから、一円でも多く契約をもらうのはあたりまえ。プロである以上、きちんと稼ぐ。そのかわり、お客様が万が一の時には必ず給付をお出しするお手伝いをする。そのためには営業の世界で生き残らないといけない。だから、もらえるコミッションも可能な限り多くなるように考える」
そのため、ゆかりの最終的な落としどころはドル建ての保険であることが多い。
保障と返戻金とコミッションが一番多くもらえるからだ。
財布に眠っている五万円は五万円でしかないが、それが保険契約で結ばれれば、お客様には保障と解約返戻金としての貯蓄を、営業にはお給料を生んでくれる。
金融の世界というのは面白いとゆかりは思う。
呪術の世界もかくやと言わんばかりの摩訶不思議。錬金術とはよくいったものだと思う。
だが、ゆかりと真備の作る設計書は必ず一つ仕掛けがある。
会社には内緒にしているが、高額のドル建終身保険は、必ず五年から十年で払済保険に移行する前提なのである。
三十歳のお客さんに六十歳までの三十年間、毎月二万円終身保険に入れましょうと言うよりも、三十歳から四十歳までの十年間、毎月五万円終身保険に入れましょうといった方がイメージしやすいからであるし、払済保険にすることで以後の支払は考えなくていいし、その後は解約返戻金が貯まっていくのを見ていればいい。解約返戻金の増加率も、ドル建保険の場合は払済後の方が実は効率がいいのである。
そのうえ、入金している十年間は、高い保障も約束されている。
十年後、その時にいちばんいい保険をまた考えればいい。
その辺が、単純に高額な保険を話法で押し切る前橋たちのような連中とゆかりの考えの違うところだと真備は思う。
もっとも、この考えも、一周回って前橋たちには金に汚い考え方と見られているらしい。
自分よりはこの世での立ち居振る舞いに強いゆかりであるが、前橋などの連中から金に汚いと見られるような筋合いはないと真備は許しがたく思っている。
だから、ゆかりも自分のやり方を他の人に教えようとは思わないようだし、真備も同じだった。
結局のところ、真備もゆかりも、週末を悪霊たちの調伏にあてるために、一生懸命なだけなのであった。
保険の営業はとどのつまり、誰かが代わることはできる。
目の前にあるマグカップのように、どんなにお気に入りでも割れてしまえば、他のマグカップで代用できる。
しかし、悪霊に悩まされ、生霊と化した人びとを救えるのは、ごく一握りしかおらず、少なくともこのあたりでは真備たちしかいないのだ。
「それにしても、土曜日の飛び込みの成果、よかったわね」
ゆかりが真備の方に顔を向けた。
「ええ、紹介を三軒いただきましたから」
「いろいろと面白そうじゃない」
ゆかりがちょっと人の悪そうな笑みを浮かべる。
「よろしくお願いします」
同行という意味だけではなく、週末の陰陽師としての仕事としてもお願いするという意味だった。




