第二章 ①
高額の契約を取ってくると、いつの間にか広まっているものである。
「小笠原よぉ、何かデカいの取ったんだって?」
朝礼の後、早速絡んできたのは、オフィスのなかでも古株の井上だった。
席が丁度、真正面だったから声をかけてきたのだろう。ゆかりは飲み物を買いにいって席を外していた。
井上自身は成績が悪いわけではない。これまでの実績によって、成績査定は免除されているし、極端に言えば、一件も新契約を取らなくても、これまでの保有実績からのコミッションでサラリーマンの役員程度には食べていけるはずであった。
ごま塩頭を丸刈りにした井上は、人はいいのだと思う。いまも愛想笑いで真備に話しかけてきたのだから。
ただ、こちらは自分の席に座っているところなので、逃げられないのが難点だ。
「いえ、御子神先輩と共通の知り合いで、アドオンしてくださったんで……」
「いくらの取ったの?」
「年払で五百万円くらいで……」
「五百万!!」
井上が大きな声を上げたので、他の者も堂々とこっちを見ることができるようになってしまった。
こういうところが井上のちょっと面倒くさいところだった。
「スゲエじゃん、おまえ」
「いえ、あね……御子神先輩がすごいんで」
「いいんだよ、そこはおまえがやったって胸張れよ」
営業マン的には正しいのかもしれないが、それを言ってしまったら人間としてどうなのか。
「何でその契約、取ったの?」
井上の質問は続く。契約した保険商品を聞いてきているのだった。
「ドルです」
「ドル!? ドルかよ!! おまえ、来月の給料すごいんじゃねえか」
お願いだから声を小さくして欲しい。というか、放っておいてほしい。目立ちたくないのである。
そんな真備の気持ちは知らずに、真備の電卓を勝手に叩き始める。
「年払で五百万で、折半だからその半分だろ。換算かけて……おまえこれだけで来月三十万以上もらえるじゃんかよ」
「ええ、たぶん……」
会社支給のノートパソコンに設計を打ち込めば、そのあたりは間違いなく計算されるから、真備も来月自分がどのくらいもらえるかは知っている。ほんとうに、姉弟子様々である。
だが、返す返すも、(井上さん、声が大きいっ)と内心念じている。
(ほら、周りからざわざわした念波と蛇の霊が何体か来てはじめた――)
井上に責任を取ってもらいたいくらいだった。
「よう、こんだけもらったんなら、おまえ、少しおごれよ」
「いえいえいえ、井上さんの方が稼いでらっしゃるじゃないですか」
「俺なんか、全部、母ちゃんに取られちまって、全然使えねえよ。いいなあ、おまえ独身だろ?」
「ええ、まあ」
井上がちらりと周りを確認した。
「で、どうなんだよ、おまえ」
「何がですか」
「御子神さんとはもうヤったのかよ」
真備はげんなりした。普通の社会人というものは朝からこういう話をするものだろうか。声を潜めることもしない。
「何言ってるんですか」
(ほら、色情系の狐の霊が一匹増えた)
真備から見れば、だんだん井上が魑魅魍魎に覆われ始めて見えるのだが、本人は何も気づいていない。
いいことなのか、悪いことなのか。
井上の方でも、まさか真備が、ゆかりをして「天才」と言わしめる巨大な霊能力を持った陰陽師だとは思っていないだろう。
「照れんなよ、おまえ。御子神さん、おっぱい大きいし、美人じゃねえか。さっさとヤっちまえよ」
「いやいやいや」
さあ、どうやってこの場を切り抜けようか。
邪霊退散には念力だけでは限界があるが、柏手をいきなり打つわけにもいかない。祝詞・真言もってのほか。九字だって切れない。
(となれば、いちばんいいのは――)
耐えるしかない。不用意に姉弟子に念を飛ばせば、姉弟子が何事かと戻ってくるだろう。周囲の好奇の念は、姉弟子にとっても迷惑なはず。
ならばここで、内心で静かに不動明王真言を唱えて耐えるしかない。
前橋がマネージャールームから顔を出した。
「小笠原くん、このまえの新契約の書類不備、どうなった?」
「あ、すみません。いま出します」
飛び込みでいただいたガン保険の書類不備だった。月払二千円の内容である。
書類を持って行くと、マネージャーが確認する。
「はい、これクラークに出しといてね」
大きな契約を取ってきたので、そこそこ機嫌がいいのではないかと真備は期待している。
「自分、御子神さんと取った契約あったじゃん。あのくらいのを自力で取れるようになったら、この世界でずっと食っていけるよ」
「はい」
「そうしたら俺の所にもオーバーライドのお金がもらえて、楽になるから。がんばって」
何となく生霊と同じようなことをいっているように聞こえた。
書類をクラークに出して戻ってくると、ゆかりも戻ってきていた。
逆に井上はもう別のところでおしゃべりしている。
「おーい、小笠原くん、約款補充しといて」と前橋が声をかけた。
「はーい」
「あ、小笠原くん、シュレッダーの掃除も頼めるかな」
「はい」
「ついでにコピー紙の補充もよろしく」
「はーい」
「小笠原くん、ここの設定の変え方分かる?」
「ああ、そこはね――」
こういうとき、ゆかりは基本的に手を出さない。社内であまり親しげにして、よいことはあまりないからだ。
それは真備自身がゆかりに言ってきたことだった。
ゆかりは、自分で言うのもアレだが、美人である。そのゆかりが年下の真備をいつもかわいがっていたら何を言われるか分からないというのも、ゆかりは分かる。
だが、そんな程度でゆかりが社内で居づらくなるのではないかという真備の心配は見当違いだ。
周囲の好奇の視線の一つや二つ、念返しでたたきつぶしてやると、ゆかりは考えているのだが。
(相変わらず、真備くんはお人好しよねー)
自分のノートパソコンで設計を打ちながら、ちょっとあきれる。
コピー用紙くらい自分で入れさせればいいのだ。




