ねえねえ、夏のホラー2016だって!
天乃陽子は器用に指を使って手の上でナイフを回した。大振りのナイフだったが、まるで重力の影響を受けていないかのように、するすると回っていた。
「お、陽子、ナイフ回すの上手くなったじゃない」
ディスプレイの向こうで月夜見菜々が感心した。
二人は今ビデオチャットで会話をしていた。
「まあね、菜々ちゃんが教えてくれたからね」
陽子はナイフを回すのをやめ、愛用の鉛筆を見つめた。ナイフの使い方も上手くなった。鉛筆の先端は鋭く尖り、鈍く光を反射していた。先端をじっと見つめて、陽子は不気味に口角を上げる。
力を加えると折れてしまいそうなほど繊細に尖らせてある。そんな鉛筆で小説を書くことが陽子は好きだった。
その様子を見ているのかいないのか、軽い調子で菜々は話しかける。
「ねえねえ陽子、夏のホラー企画だって。『裏野ハイツ』を舞台にして書いていいんだってよ。陽子のためにあるようなもんじゃん」
菜々は話を戻した。二人は次にどんな小説を書こうか相談していたところだった。
「えー怖〜い。私ホラーってダメなの。私は絶対書かないから。菜々が書いてよ。ほらほらー」
ぱたぱたと手を振りながら答える陽子は本気で怖がっていない。少し離れた場所にいる奈々もそう思っただろう。
「それダジャレ? 陽子、面白くないよ〜。ホラーだから『ほらー』って。ぜったい陽子に書かせてやるから。死んでも書かせてやるからねー」
「だじゃれじゃないよ。たまたまだもん。私は『たまたま』無いけど、たまたまだもん。書かないったら、書かないもん」
陽子は深い意味など考えずに「たまたま」を繰り返した。こういう下ネタを悪意なくぶち込んでくるあたり、絶対確信犯だと奈々は考えている。
「陽子、『たまたま』言い過ぎ。女の子なんだからさ、言葉選ぼうよ」
「ごめんごめん。でもさ、怖いことって現実にはなかなか起こらないよね」
「そうだよ、怖いことなんて起こらない、起こらない。小説の中だけの話だよ。それにしても陽子のいるとこが裏野ハイツって名前なのも、たまたまだよね」
本当に偶然だった。いくら宇宙が広いといってもありえないくらいの確率だ。
夏のホラー企画のホームページを見てみるとそこには用意された舞台設定として「裏野ハイツ」の文字があった。陽子のいるまさにここの名前が出てくるだなんて予想していなかった。いったい何の悪い冗談かと思った。
この場所でそんなホラーなことが起こるわけがない。陽子はそう信じていたし、小説と現実の区別がつかないほど愚かじゃないと自分でも思っていた。
小説のホラーなんて怖くないと知っている。あれは作り話だ。
しかし夏のホラー企画のホームページを見てから、この場所にも何かいるんじゃないか、物陰に何かが隠れているんじゃないかとやたら用心深くなってしまった。微かな音にも敏感になり、寝るときにはつい明かりをつけて寝てしまっている。
「陽子さあ、夏のホラー企画のページ見てからちょっと怖がりになっていない? まあ無理もないよね。裏野ハイツって書いてあったんだから」
「何いってんの。全然怖くないよ。関係ないじゃん。偶然同じ名前ってだけで、あっちはアパートでしょ。こっちは最新の設備が整った居住空間なんだから!」
陽子はむきになって答えた。ホラー企画のページを見て、ちょっと気になってしまっただけだ。考えていなかったことでも、意識させられると気になってしまうものだ。だがそれは自分の思考が作り出したもので、本物ではないと知っている。
陽子は鉛筆を見つめる。先端をぺろっと舐めた。ほら、勇気が出た。もう大丈夫。
気を取り直してまたナイフをするすると回した。
「最新の設備って、陽子のやつ十五年位前にできたんじゃん。もう型落ちだよ。それよりさ……え!? 陽子の後ろにいる——」
菜々は突然言葉を切った。
菜々の顔は硬直した。視点が一点に定まって、すぐに怯えた表情に変わる。
外は暗黒に包まれている。時刻も本当なら就寝時間をとっくに過ぎている。
夜中の二時を過ぎていた。
菜々が私を怖がらせようとしている? 悪い冗談、陽子はそう思った。
「後ろにいる?」
陽子は軽い気持ちで菜々の台詞を繰り返した。
その言葉を口にしながら自分の背後に意識を向けてしまう。まったく頭になかったことも口に出して言われると気になってしまうものだ。だが大抵は気のせいなのだ。言われたから気になってしまうだけなのだ。
しかし菜々の表情を見て陽子は不安を感じた。菜々はじっと一点を見つめている。嫌な予感が陽子にまとわりつく。次に菜々から飛び出た言葉が陽子の嫌な予感を増長させる。
「振り向かないほうがいいよ。後ろを見ちゃだめ」
振り向くな? 菜々は後ろを向くなと言う。
そこに何があるというのか。なぜ見てはいけないのか。
陽子は自分の首の後ろ辺りにぞわりとした感触を覚えた。
「何? やめてよ、菜々」
陽子は友人の悪い冗談だと思った。私のことを怖がらせようとしているんだ、よくある手だ、そう考えた。
気持ちの動揺を悟られないように、陽子はナイフを回し続けた。
「振り向いちゃだめ」
菜々は繰り返す。
「え? 何? ほんとヤダ。やめてって」
何か音が聞こえた気がした。背後に嫌な気配がある。その気配はすぐ近くではない。少し離れたところだ。いや、気のせいだ、気のせいに違いない、菜々が怖がらせるから。陽子は自分の感覚を否定した。
続いた菜々の声はさらに切迫していた。
「見ちゃだめ」
完全に菜々の声は本気の声だった。強制力のある強い口調。抗うことを許さない。耳をつんざくような響き。
「え? 見たらどうなるの?」
奈々に気おされて、震える声で陽子は聞いてしまった。だが陽子は聞くべきではなかったとすぐに後悔することになる。
「こうなる……の……」
陽子は思わず回していたナイフから意識を外してしまう。手から飛び出したナイフが床に突き刺さる。
ディスプレイ越しの菜々に異常が発生する。突然菜々の顔面が蒼白になり、虚ろに陽子を見つめる目から赤い液体がにじみ出る。赤い液体がたらりと垂れた。
「え、菜々。菜々! 菜々! 目から血が出ているよ! 大丈夫? 菜々、菜々」
陽子は思わずディスプレイに手を伸ばして菜々の顔を掴もうとした。指がかつんとディスプレイにぶつかる。
「わ……かっ……た? ふり……むいちゃ……だめ……。にげ……」
菜々の言葉は途切れ途切れだった。呼吸も荒く、表情には絶望が浮かんでいる。
菜々の最後の語尾が聞き取れなかった。「逃げて」と言おうとしたのだろうか。
「大丈夫? 菜々ちゃん大丈夫なの? ああ、菜々ちゃんの目が、目が破裂して……。肌が溶けて……」
菜々の顔が崩れていく。いつか見たホラー映画のように醜くゆがんで溶けていく。それは現実ではないようで、まるでホラー映画でも見ているようで。でも確かに画面の奥で親友の顔が溶けているのだ。
どうして、どうして奈々ちゃんが……。陽子は声が出なかった。陽子の顔は引きつっていた。陽子は両手で顔を覆いながら溶けていく菜々を見つめていた。
菜々は振り向くなと言った。
陽子は振り向くなと言われた。
そう言われて見ないでいられるだろうか。何が起こっているのか、確かめなければ。理性はそう囁く。
だが恐怖がそれを否定する。後ろを見ちゃだめだ。怖い、見たくない。
それでも陽子は振り向かずにはいられなかった。理性の力が少しだけ勝っていた。見えない力が陽子の頭を脳天から押さえつけ、ゆっくりと回転させるように捻っていく。
振り向いちゃだめだ。見ちゃだめだ。恐怖はそう叫ぶ。だが首は勝手に動いていく。首は後ろへ回っていく。強い力で無理やり動かされているように感じる。
陽子は振り向いた——
陽子の後ろにいるはずだった菜々。丸く空いた宇宙船の窓から外を見る。そう、あそこに奈々がいるのだ。
親友の菜々が窓の向こう、二〇〇メートル後方にいる。
陽子は十五年前に竣工された単身用の宇宙船「裏野・ハイ・ツアー号」から後方に位置していた菜々が乗る「月光・スターシップ号」を見つめる。その宇宙船も単身用だからとても小さい。
その小さい「月光・スターシップ号」が暗黒の宇宙空間で赤く燃えさかる。外殻部は真っ赤に熱せられ、今にも溶け出しそうだった。ある程度の高温にも耐えられる設計ではあるが、さすがに限界を超えている。「月光・スターシップ号」が焼失するのは時間の問題だった。
陽子はディスプレイに顔を戻した。
まだ菜々のいるところまで炎は達していないが、画面を通してすらそこが高温にさらされつつあることがわかる。
陽子はビデオチャット越しに菜々が溶けていくさまを見ていた。菜々の顔は焼けただれ、口だけがぱくぱくと動いていた。「はやく、にげて」そう言っているように思えた。
回線が途切れ、画面全体にノイズが走る。
怖いことは起こらない、奈々も陽子もそう言った。だが、追手は迫っていた。
たくさんの人を殺したが、ここまで逃げてくれば安全だと思っていた。
私たちがのうのうと生きていくことを彼らの怨念が許さないのか。
陽子は泣き叫ぶ。
奈々ちゃんが……菜々ちゃんが……。
奈々ちゃんといっしょに地球へ行って小説を書こうって言っていたのに……。
ランキングで一番を奪おうって言ったのに……。
続けて陽子は自分の身を案じた。次は私の番だ……。私も菜々のように殺されてしまう。
菜々は逃げろと言いたかったのだ。後ろを振り向かず、菜々の宇宙船が燃えて溶けていく姿を見ずに。
後ろを振り向かずに、逃げろと……。
陽子は震える手でプラズマ加速装置のスイッチに手を伸ばす。残存エネルギーでは一度しか使えない。だが確実にこの場から退避することができるはずだ。
きっと間に合う。陽子はスイッチを押した。宇宙船の加速が体に伝わる。流れるように星々が線を描き、やがて窓の外が白く染まる。数分で地球へ到達するだろう。間に合った。私は助かる……。
はたして地球へ行って何ができるのだろうか。この話をして誰が信じてくれるのだろうか。
それでも奈々が生きていた証を残さなければならない。
小説のことを思い出した。私と菜々の絆はここにある。菜々は「死んでも陽子に書かせてやるから」なんて冗談めかして言っていた。私は書かなければならないんだ、奈々のことを書き留めなければならないんだ。陽子はそう決意し、筆を取った。
一心不乱に小説を書き上げる。力が入りすぎて何度も鉛筆の芯が折れた。そのたびにナイフで鉛筆を削る。ナイフを見るたびに菜々を思い出す。
——ナイフの使い方は菜々が教えてくれたんだ。彼女がいたから私はナイフを使うのが上手くなった。まだこのナイフを使わなきゃならないのに。
陽子はナイフを見つめる。鉄の香りがするそのナイフには陽子の顔が歪んで映っていた。このナイフを使うところを想像して暗い表情を浮かべる。奈々がいない。今度は一人でやらなければならない。
奈々ちゃん、一人でなんて、一人でなんてできないよ……。
それでも陽子は涙を拭いて気持ちを切り替える。
ホラーなんて書かない、そう思っていた陽子は小説を書き上げ、地球に到着すると「夏のホラー2016」のタグを付けて「投稿」ボタンを押した。
何やってるんだろ、私……。奈々ちゃんが死んだっていうのに小説なんて書いて……。
でも一人でやるしかないんだ。どうせやるなら一番は渡さない。一番は誰にも渡さないよ……。
陽子はそのあと何時間もじっとナイフを見つめていた。ナイフは鈍く光りながら、陽子の顔を映していた。
◆
小説を投稿してから数日が経過した。
陽子は赤黒く染まったナイフを見つめる。光を反射しないナイフは陽子の顔を返すことはない。まだ血を吸い足りないとナイフは訴える。
陽子は書き上げた小説を読み返してみた。はたしてこれはホラーなのか、そう思った陽子だったが急にどきりとした。背後から肩をぽんぽんと叩くものがいたからだ。
陽子は嫌な予感がした。振り向いてはならない、そう感じた。しかし同時に振り向かなくてはならないとも感じていた。
ゆっくりと振り向く。そこには目から血を流し、肌が溶けて垂れ落ちている菜々の姿があった。
思わず「ひいっ」と陽子は叫んでしまった。死んだ菜々が化けて出てきた、そう思ってしまった。
だが菜々はにこっと笑い、軽い口調で陽子に話しかけてきた。
「ごめんごめん、これメイクだよ」
どろどろに顔が溶けた菜々はゆっくりと顔の特殊メイクを剥がした。
「陽子ちゃん、まんまと騙されたね。ビデオチャットのカメラと陽子の宇宙船の窓にディスプレイを置いて録画した映像を流してただけだよ」
陽子は騙されていた。夏のホラー企画に便乗した菜々のいたずらだった。
「え? 本当? じゃあ奈々は死んでないの? 無事だったの?」
奈々は死んでいなかった。陽子に小説を投稿させるためのちょっとしたいたずらだったのだ。
「当たり前じゃない、死ぬわけないよ。陽子と約束したじゃない。いっしょに地球に行って……」
陽子は菜々との約束を思い出していた。そう、いっしょに地球で……。星々を渡り歩きながら殺戮を繰り返してきた二人にとって、怖いものは何もなかった。目的のためなら他人の命など何とも思わない。いまさら何人殺そうが陽子と菜々の罪が軽くなるわけではない。
犯した罪の大きさからいつ死んでも仕方ないと思っていた。でも陽子は実際に菜々の死を目にした時、いやだ、怖い、死にたくないと思った。
菜々が生きていて良かったと心から安堵した。たぶんいつかは捕まるのだ。捕まったら二人が殺したあの人達のように、残忍に惨たらしく引き千切られるのだ。
二人は追われている。人生がいつ終わるのか予測ができない。
そう、だから好き勝手に生きようって決めていた。
「約束したよね、いっしょにホラー企画参加者を抹殺しようって。陽子と二人でランキングで一番になるためにさ……」
菜々はにやりと笑った。手に持ったナイフをくるくると回す。真新しいナイフは光をきらきらと反射する。
ほんとに菜々は……。悪趣味というか。私に小説を書かせるためにここまでやる子だったなんて。いや、元々どんなことでもする二人なんだ。
菜々は言った。「本当に恐怖を知らない人がホラーを書いているし読んでいる。私はそれが許せないんだ。人を刺したこともない、殺したこともない、そんな人達だ。私達だからホラーが書ける。小説を書いて投稿しよう。そしてそれを現実のものとしよう。本当の恐怖を私達が教えてあげる。地球の人に教えてあげる」
ナイフを回し続ける菜々を見て、陽子も不器用ににやりと笑った。
陽子もナイフを回したかったが、重力下では上手く回せない。宇宙船の中では器用に回せていたのに、悔しく思う。
だから手に持っていたバタフライナイフをそっと舐めた。すでに地球で三人の血を吸っていた赤黒いナイフは鉄のような味がした。少し舌が切れて、三人の血と陽子の血が混ざり合った。
ちょっと苦いけどオイシイ……。陽子は思う。
三人の読者が陽子の小説は怖くないと言った。陽子は一人で処理をした。
――次は奈々といっしょに解体できる。ウレシイ。もう一人じゃないんだ。やっと小説の通りに調理ができる。
四人目の読者も怖くないと言った。だからそっと扉を開ける。今度は二人で背後から忍び寄る。
鋭く尖った鉛筆を手にして、陽子の顔は紅潮する。
愛用の鉛筆の先をぺろりと舐める。
菜々がナイフを回すのをやめた。
握りなおして力を込める。
四人目はまだ気がつかない。
そいつは今、これを読んでいる。