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「嵌められた――自分の半分の年にも満たない娘に…」
憔悴した様相で帰ってきた主人を、ハンスは特に憂う様子もなく迎えた。
「それはそれは。お疲れ様でございました」
自室の椅子に身を沈める姿に、いつもと同じように茶の用意をする。
労る言葉に特に驚きがないように感じるのは、気のせいではないだろう。
「…あの令嬢と結婚することになった」
「それはそれは。おめでとうございます」
同じ調子で返ってくる言葉に、疲れ切っていた筈のラフェルドは激した声を出さずにはいられなかった。
「嵌められたんだ! あの娘は何を考えているんだ? 正式な証明書とどう言いくるめられたのか喜びに咽ぶ家族、しかもタッカーまで用意して…!」
「それはそれは…随分と用意周到だったようで。ですが貴方だって同じ年の頃にはもう、会社を回す為に取引相手と会う準備はしっかりとしていたでしょう」
「全く立場も意味合いも違う!」
「それはそうですが」
「何故、お前はそんなに平然としているんだ? 知っていたのか?!」
ハンスは常に平然としている性質ではあったが、今回はまるで知っていたかのようにも感じられる。
まさか身内からの裏切りもあったのかとラフェルドは息巻いたが、執事は気にせぬように茶にブランデーを垂らした。
今日は多めがよさそうだ、と目で測りながら。
「とんでもない。そこまで見事に旦那様を取り込んだとは天晴れと驚いてますよ。まあ、簡単には断れないだろうと思っていました。あのお嬢さんは真剣に結婚を望んでいらしたようでしたので」
「望んで…? 待て、お前は先日以外に彼女に会ったことがあるのか?」
「いいえ。後にも先にも、あの時だけです。ただ、こんな女性を以前に見たことがある、と思い出したんですよ。もちろん姿形は違いますけど…目がね。同じでした」
「目?」
「ええ、結婚を迫ってきた時の妻と。私もあの時は断れないと覚悟しましたから」
「……」
それは少しばかり説得力があった。
ハンスの妻は彼の幼なじみで、おしめをしている頃から付き合いがあるという女性だ。
彼にとっては隣にいるのが当然のようになり、こんな主人の元にいるせいもあって結婚を度外視していたが、女性の方はそうはいかない。
結婚の決意を促された時には、かなり強引に相手に押し切られたとは聞いていた。
とはいえ、他の組み合せが考えられないほど睦まじい夫婦であるのだが。
「お前とはまるで事情が違う。古くからの知己ではなく、初対面だったんだぞ?」
「ええ、私もよほど金に困った故の熱意かとも思ったのですが」
「やはり、そうか…」
「少し調べましたら、エヴァンス家はそれほど困窮していないようですよ」
「何?」
「もちろん貧乏貴族には違いありませんが、特に贅沢をする家風もなく、大きな借金もないようです。妹君の婚約予定なので、持参金は欲しいかもしれませんが」
両親とともに喜んでいた娘を思い出す。
大人びた姉より随分と愛らしさの際立つ、少女とも言えそうな娘だった。
あの喜びようは、自身の結婚の為でもあったのか…
「まあ、相手は裕福な子爵家ですから、持参金も無理には要らなそうですけどね」
納得しかけたが、続く言葉にラフェルドは困惑する。
金。
とにかく、切実な金が欲しいからこその茶番だと思っていたのだ。
金以外の目的があるというのか?
それしかないと思っていた分、他の事情が思いつかない。
再びの混乱に、また目まいがしそうだった。
「とにかく、結婚証明書に署名なさったのでしょう?」
「…頭が真っ白になってしまった。現実とは思えなかったんだ。あそこから逃れるには署名するしかなかったんだ…」
「では、仕方ありませんね。式はどうなさいます? 奥方は、いつこちらにいらっしゃるので?」
「…分からん」
深く息を吐き出しながら置かれたカップに手を伸ばすと、上着の違和感に気付く。
思い出してみれば、帰り際、シルフィが上着に何かを入れていた気がする。
無駄になった紹介状だろう…と思い、取り出してみると、それは薄紅色の封筒だった。
中に入った便箋を取り出せば、流麗で女性らしい筆致で書かれた文字が並んでいる。
それは、シルフィからの手紙だった。
『ラフェルド・ガーランス様
本日は当家までお越しいただき、誠にありがとうございました。
この手紙を読まれるているということは、私の目的が達成されたのでしょう。
もう驚きも覚め、怒りさえ感じていらっしゃるかもしれません。
それだけのことをしてしまったという自覚は持っております。
けれどこうまでしなければ、ラフェルド様は私を奥方候補にさえしてくださらなかったでしょう。
ずっと独身を通すと言われていた貴方様が奥方を探していると聞いて、いてもたってもいられなかった上での所業です。
驚かせてしまったことは、謝罪いたします。
ですが、後悔はしておりません。
奥方として認めていただく為の機会を作る方法が、他に思いつかなかったのですから。
まだ結婚証明書は出しません。
今のままでは出しても、きっと何とかして無効の手続きをされてしまわれるでしょう?
その前に、私を認めてくださる為の時間をください。
その結果として待遇が愛人や使用人になることは厭いません。
保険として証明書は、こちらで持たせていただきます。
一週間後に、奥方修行としてお邪魔いたします。
何卒、歓迎とまで行かなくても、受け入れてくださることを願います。
シルフィ・エヴァンズ』
一度読み、二度読み終えても、ラフェルドはしばらく文字の並びから目が離せなかった。
「いらっしゃる日が書かれてましたか?」
ハンスが静かに促すと、ようやく手紙から目を上げる。
そこには理解不能なものに直面して、助けを求めるような顔があった。
「書かれている…が――これは…これでは、まるで…」
「恋文のようですか?」
ハンスの冷静な返答に衝撃を受けたように、ずるりと椅子に更に身を沈める。
そして手紙を落として、ハンスにも読むように指し示した。
「あの娘は、初対面ではなかったのか…?」
「ふうむ。確かに、旦那様を見知っているようですね」
「私には全く、憶えがない。お前は?」
「…ありませんね。旦那様の行く先に、あんな若い令嬢がいる場所などほぼ皆無ですから」
「訳が分からん…」
襲い来る頭痛を和らげるごとく、両手で髪をかきむしるように乱す。
整髪料で調えていた砂色の髪は、あっというまにくしゃくしゃになった。
疲れた顔のせいで普段より老けて見えそうだが、髪が崩れると幾分若くも見える。
その様子に少しばかり同情的な目を向けて、ハンスは手紙を丁寧に封筒に戻し置く。
「何にせよ、彼女が来れば分かることでしょう。迎える部屋の準備をいたしますよ」
「…お前に任せた」
「貴族令嬢ですから、メイドが必要になるかもしれませんね」
「……任せた」
「分かりました。とにかく立ち直ってください。明日は大事な会議がありますからね」
「……」
頭を抱え俯いたまま、がくりと首を落とす。
これほど弱りきった姿は、仕事でも見たことがなかったかもしれない。
とりあえず「来ても追い返せ」とは言わなかった主人のこれからを考え、ハンスは見られていないことを知りつつ薄く笑った。
これは予想以上に面白いことになりそうだ、と胸の中で呟きながら。