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設定や世界観はゆるくご都合です。軽く読み流していただければ嬉しいです。
それは誰の目で見ても明らかな政略結婚だった。
一代で財を成した商人は独身のまま既に齢40歳を迎えており、そこに嫁いだ娘は借金を背負った男爵家の長女で18歳。
男には、若い嫁と後継ぎを。
女には、家の為の金を。
金の動きと貴族の身分が交換されることは別に珍しいことではない。
それでも若い身空で、父親より年上の男に嫁ぐ話は憐れを誘うものだ。
愛想がなく、地味で目立たず、いることさえ忘れそうな存在の男爵家の長女だったが、彼女が嫁いだお陰で美女と誉れ高い妹は、子爵家の嫡男に嫁ぐことができた。
それを見聞きした者は長女が家の為に、己を犠牲にして結婚をしたのだと当たり前に考えた。
そう、当事者達以外には、そうとしか見えない婚姻だった。
+ + + + +
布の流通で財を成したラフェルド・ガーランスは、数字を数えられるような年の頃から親の服地の商売を手伝ってきた。
10代の内に両親が相次いで亡くなってからは、人手に渡りそうだった商売を際で留め、脇目も振らずに我が手に残した。
次第に商売が広がり、貴族と庶民それぞれの流行を知り、作り出し、異国からの輸入も直接手掛けるほど商売を大きくした頃には、もう40を目前にしていた。
もちろん周りからは結婚を何度も持ち込まれた。
だが仕事を優先する日々の中では、家族の存在は時間と労力を奪われるものとしか感じられず、耳に入れようともしなかった。
だからようやく商売の一部を信用できる者に任せられるようになった頃には、既に「結婚するつもりのない男」と認識されていた。
商売の後継ぎも血縁より経験で選び取る形態を取っていたので、女嫌いだと噂が立つほどに。
そんな男でも大きくなった邸に仕事を持たずに帰ることが増え、自分だけの時間を持つようになると、心境の変化を迎えるようになった。
仕事上、商売相手に家族の健康を聴く程度の儀礼は持っている。
それを聞くばかりの立場だった自分も、聞かれるという立場を持つ余裕が生まれたのではないかと。
家族がいてもいいのではないか、と。
周りにそれとなく言えば、再び話は持ち込まれるようになる程度の財産家にはなっていた。
年に見合った未亡人を筆頭に20代の未婚女性もおり、その中には幾ばくかの貴族も入る。
もちろん、ただの貴族ではなく、貧乏な貴族ばかりだったが。
さすがに自分の年齢と、肉のつかぬひょろりとした体躯、垂れた細目で感情が読めないと言われる容貌、女性への上手い接し方を知らぬ性格は知っていたので、より好みはできないと分かっている。
未亡人が無難だろうが、仕事上、貴族との関わりが持てるのも悪くないのかもしれない。
ただ、明らかに金で買うような結婚はさすがに…
――と思っていたところに訪ねてきたのが、エヴァンズ男爵の長女、シルフィだった。
「シルフィ・エヴァンズと申します。奥方を探していらっしゃるとお聞きして伺いました。何卒、私と結婚していただきたいのです」
開口一番そう言ってきたのは、艶やかな栗色をきつくまとめ上げ、露出の少ない灰色のドレスを着た、一見すると女教師のような地味な女だった。
名を名乗られたものの、使いの者だろうと思って通したらしい家の執事は、少々目を丸くしていた。
まさか貴族令嬢本人がたった一人で、約束も取り付けずにやってくるとは思っていなかったのだ。
「それが無理ならば、愛人でも構いません。この邸の使用人でも構いません。何卒…」
姿勢良く、穏やかに頭を下げつつも、出てくる言葉はひどく飛躍したものだった。
こんな風に切実にやってくる理由は、ひとつしかあるまい。
まるで人買いにさせられた気分になり、ラフェルドは頬を引き攣らせた。
「そこまで金に困っているのですか」
「…確かに家は裕福とは言えません」
「愛人や使用人でもよいのなら、私のような年取った成金でなくてもよいでしょう。もっと若く財も身分も持った者もたくさん…」
「いいえ、私はガーランス様にお願いしたいのです」
「だが」
「ガーランス様。何卒どうか、お情けにすがらせてくださいませ」
こちらの言葉を聞く様子もなく、再度深々と頭を下げられる。
顔を上げてもらってもこちらを見返す瞳は鋭く、多くの商売相手をいなしてきたラフェルドでも思わず息が詰まった。
仕事仲間は男ばかり、同年代の女性とも馴れ合ったこともない。
増して、こんな年下――少なくとも10以上は下だろう――の女性の扱いなど分かるはずもない。
ただ、貴族女性からのこのような申し出を、安易に断り追い返すことが得策ではないことは分かっていた。
「…お話は承りました。しばらく考えさせていただきたい」
「では、お答えが出るまで、こちら通わせていただ…」
「あ、いや! こちらから貴家に出向きましょう。御足労は不要です」
遠慮もなく食い下がりそうな様子に、手紙でいいかと思っていた内心を押し隠して、慌ててそう返すしかなかった。
その言葉にシルフィは、無表情に見えた顔にほんのり笑顔らしいものを作る。
「では、お待ちしております。よろしくお願い致します」
再び軽く頭を垂れた淑女の礼は、とても優雅で手本のように美しかった。
ラフェルドは、ためていた息を深く長く吐き、椅子に身体を沈めた。
控えていた執事のハンスはそんな主人に、ねぎらうように丁寧に茶を淹れてやった。
「…ハンス。最近の若い女性というのは、あんなにも強引なのか?」
「いえ、あの方は特殊なようですね。お会いできるまで待つと言う姿は頑固な取引相手を思いだしました」
「それだけ金がなくて必死なのか…」
「そうかもしれません」
お茶の香りに僅かに眉間のシワを広げつつも、ラフェルドの表情は晴れなかった。
「身を売っても、金が欲しいということなのだろうな。使用人でもいいというのなら…子女を躾ける素養はありそうだ、家庭教師の宛てでも紹介すれば落ち着くのではないか?」
「そうですね。その口をみつけておきましょうか?」
「頼む」
「でも、いいのですか?」
「何を?」
「あれほど若い女性からの求婚など、男として二度とないと思いますよ。エヴァンズ家の令嬢は二人いますが、確かお二方ともまだ10代です」
付き合いも長くなり、気心の知れた間柄でもあるハンスは、主人の様子を面白がるように口の端を上げた。
ラフェルドは再び眉間のシワは深く刻み、不機嫌さを隠さずに音を立てて熱い液体を流し込む。
シルフィの地味な格好と落ち着き具合は、少々行き遅れた20代の娘にも見えたのだ。
それを10代だと知れば、尚更のこと、断る理由しか浮かばなかった。
「冗談じゃない…もう二度と、あのような女性は迎え入れないでくれ!」
別に女に好みが細かい訳ではないが、救済所のようにやって来られても困る。
欲しいと思ったのは家族であって、金で買える ‘女’ ではないのだ。
若ければ若いほどいいらしい、と周りに陰口を叩かれそうな買い物などしたくもなかった。
「承知しました。紹介状を用意できたら、訪ねる旨を男爵家に伝えておきましょう。きっちりお断りできるといいですね」
「断れるとも。それ以外の選択肢はないのだからな」
金の問題ならば、商売として、仕事として接すればいいだけの話だ。
こちらには何の得もないやりとりになるが、仕方ない。
彼女の度胸と勇気に免じてやらねばなるまい。
ハンスは含み笑いをしていたが、その時のラフェルドはそう思っていた。
まさか眉間のシワを更に深めることになる事態が待っているとも知らずに。
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「お待ちしておりました、ガーランス殿! 此度は娘との結婚を受け入れてくださり、ありがとうございます!」
案内された途端、諸手を広げて迎え入れてくれたのは、エヴァンズ男爵その人だった。
眉間のシワと頬の削げた顔のせいで実年齢より老けて見えるラフェルドより確実に若い…実際、年下ではないだろうか。
その後ろでハンカチを手にして涙を浮べているのが夫人らしい。
更にその後ろにも、明るい栗色の若い娘が目を輝かせてこちらを見ている。
いずれもが歓喜極まる、といった表情だった。
家庭教師の紹介状だけを手にしてきたラフェルドは、細い目を細いなりに押し広げてその光景に唖然としていた。
「結婚…? いや、私は…」
「ラフェルド様、本日はありがとうございます」
言葉を返す前にするりと横に立ったのは、先日よりも明るい色のドレス姿のシルフィだ。
急に姓ではなく名前を呼ばれぎょっとしている間に、彼女はラフェルドの持っていた紹介状をするりと抜き取っていた。
「必要な書類も持ってきてくださったのですね。嬉しいですわ。さあ、こちらへ」
「は? いや、その…」
ごく自然に腕を取られて、まるでエスコートしているかのような格好で家の中を進むことになる。
その言葉の意味を浸透する余裕も持てずに、頭ひとつ低い女性の柔らかい感触が伝わる腕にも意識が取られ、冷静な思考が戻ってこない。
どういうことだ?
どういうことだ?
結婚、と言ったか?
今日はそれを断りに…
そのまま案内されたのは、古ぼけてはいるが一応は調えられた居間だった。
そしてそこに先客がいたことにもラフェルドは驚かされる。
「タッカー商会長…? なぜこんなところに?」
「やあやあ、ガーランスくん!」
そこにいたのは、古狸…ならぬ、丸々とした恰幅の良い男だった。
穏やかさを湛えた見た目に似合わぬ、商売人らしいしたたかさを持つタッカーだが、ラフェルドには恩人でもあった。
一人で商売を切り盛りするようになってから世話役として、厳しくもどれだけ力になってもらったか。
ようやくその返礼ができるようになり笑顔を見られるようになったが、これほどの笑顔は見たことがない。
「君がようやく結婚すると聞いてね! 商売を長く続ける為にも、家族を持つのは良いことだ。しかもこんな若く賢明なお嬢さんを迎えるとは羨ましい!」
「は? あの…」
「おお、それが署名が必要な書類かね?」
「はい、そうですの」
ラフェルドが戸惑う間に、シルフィが小脇に挟んだ書類をタッカーに差し出す。
「それは…!」
ついさっき取られた紹介状かと慌てるが、シルフィは気にせぬようにタッカーに向けて紙を広げた。
そして広げられたことで、ラフェルドもそれがすり替えられた書類であることが分かった。
紙質も、書かれていることもまるで違う。
それは、結婚証明書だった。
「私や両親の署名はもう済んでおります。あとは立会人となってくださるタッカー様と、ラフェルド様ご本人の署名で提出できますわ」
「こんなに性急でいいのかい? 男爵のお嬢さんが婚約宣誓もせずに、すぐに結婚とは…」
「まあ、タッカー様」
硬直した腕に添えられていた身体が、更に押しつけられる。
シルフィはラフェルドの方を見上げながら、ゆるりと微笑みを浮かべた。
頬を染めたその表情は今までの落ち着いた様相を消し、まるで恋する年相応の女性に見えた。
「わたくし、もう身体も心もラフェルド様のものですから…」
――は?!
まるで「その身を既に捧げた」とでも言いたげな含みに、ラフェルドの目は更に見開き、信じられないものを見るように傍らの娘に視線を送ることしかできなかった。
次から次へと訳の分からぬ展開を見せられ、口を開けたまま言葉を発することさえできない。
そんな当人を置き去りにして、周りはわっと明るい空気を爆発させていた。
「君も隅に置けないな、そんなに上手くやっているとは知らなかったよ」
「おお…孫の顔が見られるのもすぐじゃないのか?」
「あのシルフィが…」
「お姉さま…!」
自分を取り巻くのは、歓喜の顔ばかり。
おかしい。
こんな金しか魅力を持たない男に嫁がせる話が、なぜこんなにも喜ばしい雰囲気を生んでいるのか。
ああ、いや、金か。
金は、ここまで人の心を動かすのか?
「さあ、あとは君の署名だけだ! まったくこんな風にめでたいことで驚かされるとは思わなかったぞ、ガーランス!」
がっはっは、という豪快な笑いと共に、手にペンを押しつけられ、書く為に用紙の前に座らされる。
傍らには変わらずシルフィが陣取り、口角を上げたままペンを持った腕をテーブルに固定させていた。
逃げられない。
視界がぐるぐると回るのは、目まいだろうか。
これは夢なのだろうか。
そうかもしれない…自分を取り巻くこの人々は、何かの余興を楽しんでいるのではないか。
ああ、そうだ。
こんな馬鹿馬鹿しい展開が、現実にあるわけがない――
――その日。
今まで数々の契約書を精査してきたラフェルド・ガーランスは、自分の人生で最も重い筈の契約書に、完全に我を失ったまま署名することになった。