浜夏の家7
姉にそっくりな幽霊を視てしまった柊。その一方で姉が伯母と対面した話が柊の中である想いを自覚させる・・・
それを、この家に来てからたびたび目にする機会はあった。
初めは李樹かと思った。
廊下の端や障子の影からちらり見える美しい黒髪や清楚なワンピースは、姉の李樹によく似ている。
だが、明らかに年齢は李樹より五、六歳ほど幼かった。
今日の昼間にやっと確信した。あれは生きている人間ではない。
彼女は天井のほうから見下ろすようにこちらを見ていた。
「柊?」
隼人が怪訝そうに名前を呼ぶ。けれど、柊は目を離すことができなかった。
(似ている)
天井に浮ぶ少女と彼の姉と面差しがそっくりだった。柊の記憶にある姉もこくらいの年齢のときに同じ顔をしていた。
「何かいたのか、柊?」
すっと少女が天井に消えていく。彼女が完全に消え去るまで柊はその姿を見つめていた。
「何でもない。行こう」
隼人の手を引いて、逃げるようにその場から離れる。
今さらながら怪奇なものを見た恐ろしさに冷や汗が出るのを感じる。
世間でいうなら柊は霊感があると言われる類の人間なのかもしれない。だが、そのことをあまり意識したことはなかった。
怪奇な体験はほとんどしたことはない。視えるというより、居たかな?と感じる程度で、今のようにはっきりとその姿を視たのは初めてだ。
その日の夜、布団を敷き終わると柊は隣の部屋にいる姉に声を掛けた。
「李樹、起きている?」
「起きているわよ」
二つの部屋を間仕切っていた襖が開いて李樹が顔を覗かせる。
「今日、ここの襖開けて寝ていいかな」
弟の申し出に李樹は驚いた顔をした。
「どうしたの? 何か怖いことでもあった?」
「うん・・・、ちょっと怖い夢を見たから一人で寝たくなかっただけ」
いつもなら年の近い姉に話していただろが、あの幽霊を視たのはこの家だ。
どこか遠くの廃墟ならともかく、住んでいる家であれを視たなどと話して姉を怖がらせることは躊躇われた。
李樹が二組の布団を引き寄せる。
「いいよ。私もそろそろ寝ようと思っていたから。布団をもう少し近づけようか?」
母親が亡くなったばかりのころはこうして二人で一緒に寝ていた。どちらもよく寝付けなくて、お互いに起きている存在を感じ取りながら布団に入っていたときを思い出す。
「懐かしいね」
「この家に来た日は一緒に寝たけどな」
「まあ、そうだけど。あ、そうだ。昼間に定子伯母様を見たの」
今度は柊が驚く番だった。思わず布団を跳ね除けて起き上がってしまう。
「え、定子伯母さんを?」
隼人の話では父親は一年のほとんどを仕事で空けているため、現在浜夏家を預かっているのは母親の定子だと聞いている。
しかし、すでに浜夏家で暮らして二週間になるのに未だ浜夏家の女主人は謎のままだ。
嘘のような話だが、伯母の定子はこの二週間一度として表に現われたことはなかった。定子は一日の大半を母屋と一本の廊下で繋がれた離れで過ごすと聞いている。食事はもちろんのこと、離れには手洗い場や風呂まであるようで、定子の用事を言い使ったらしい美代が廊下を往復するところをたまに目にするだけだった。
「私もびっくりしたわ。離れの前の廊下を歩いていたら、たまたまこちらに渡ってきた伯母様と鉢合わせしたの」
「定子伯母さんってどんな感じだった?」
「んーとね、着物を着た物静かそうな人だったわ。顔は隼人さんにあんまり似ていなかった」
柊は隼人の顔を思い浮かべる。隼人は野暮ったい銀縁眼鏡の奥に思いのほか繊細な顔立ちを隠した少年だ。母親に似ていなかったということは、隼人の造作は父親から受け継いでいるのだろう。
「じゃあ、母さんに似ていたの?」
「いいえ、お母さんにも似ていなかったわ。お母さんが洋風な感じだとしたら、定子伯母様は「和」って感じよ」
「へえ・・・」
二人の母親は目鼻立ちのくっきりとした西洋めいた顔立ちをした女性だった。李樹は大きな瞳を母親から受け継いでいる。柊の顔立ちは完全に父親譲りだ。
この家の庭師だったという父親は、体格こそ細身で少年めいていたが、荒削りながら整った輪郭には威勢のよさが現われていた。
それで、と柊が続けた。
「定子伯母さんと何か話したの? ここに来て二週間が経つけど、俺たち一回も会ったことなかったじゃん。第一声が何だったのか気になるよ」
「『似ている』って言っていた気がするの」
「似ている?」
聞き返すと李樹が頷く。
「伯母様、私と目が合って一番に『似ている』って小さく呟いて気がしたの。でも、そのまま離れの方に帰ってしまわれたこら、声を掛ける間もなかったわ」
離れと母屋は一本の廊下で繋がっている。二つの建物を繋ぐ廊下は、人通りの少ない北向きの母屋の廊下から真っ直ぐと伸びていて、たまたまそこを通りかかった李樹は和服姿の女性と鉢合わせした。
女性は四十代半ばくらいの年齢だった。豊かな黒髪を簪で結い上げ、色身を押さえた水色の着物を着ていた。
女性は李樹とは違う切れ長な目で李樹を見た。そして、『似ている』と消えるように呟くと静かに去っていった。
「そ、それだけ?」
「そう。それだけ」
しばらく弟は姉の心理を読むようにじっと彼女の顔を見た。
「・・・変わった人なんだな」
「まあ、普通の人ではなかったわ。でも、私たちを嫌っているって感じはしなかった。きっと元から静かな人なのよ。あの人となら上手くやっていけるような気がする。心配ないわ」
「そういうものなのか?」
「そういうものよ」
柊が姉の李樹をすごいと思うのはどんな状況でも自分の直感を信じていることだ。人は他人の評価に左右されやすい。自分が直感的に良いと感じたものでもあっても、後に誰かの批評でそれが嫌悪に変わることは珍しくない。
その点、李樹は己が好きだと感じたものは素直に好きだと信じるのだ。
「李樹、俺さ伯母さんのこと嫌な人だって思うんだ」
弟の告白に李樹が思い出したようにくすくすと笑う。
「そうね、柊はすっかり隼人さん贔屓だもんね」
隼人と行動を共にすることが増えるにつれ、柊は伯母の存在を疎ましく思っていた。常に離れに籠もって母親としての務めを放棄している伯母に苛立ちを覚えていたと言ってもいい。
子どもながらに、隼人が笑顔の奥に隠す寂しげな表情がその孤独な境遇からなのだと感じられる。
だが、すべてを伯母のせいにするのは間違えだったのだろうか。
「でも、李樹にはそう見えるんだな。俺、伯母さんが悪者だと思ってた」
いや、隼人の見方として伯母を責めるのは正しいはずだ。しかし、隼人以外の人間が伯母を責めることはできないのかもしれない。
「李樹。俺、隼人が好きなんだ」
「知っているわ」
当然だと言わんばかりに李樹が答える。柊は少しだけ自分の頬が熱くなるのがわかった。こんなことを誰かに打ち明けるのは初めてだ。
しかし、いくら考えてもわからないことは誰かに尋ねるしかない。
「隼人が寂しくならないようにどうにかしたい。李樹、俺はどうすればいい?」
隼人のあの寂しそうな顔を見るたびにちくちくと胸に刺すような痛みがある。ときに隼人を孤独にさせる彼の両親に嫉妬を抱くことがある。自分には隼人にあんな顔をさせることはできないのにと悔しくさえ思うことすらあった。
「俺に・・・何ができるかな?」
自分が迷子の子どものような顔をしていることに柊は気が付かなかった。