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浜夏の家4

『お前は悪い子だな』

汚い手で乱暴な柊の顎が掴まれる。

死んでも相手の思うままにしたくなくて無理やり顔を背けようとすると、今度は砕けんばかりの力で頭を掴まれた。

『ここで俺に逆らうのか?』

無理やり上向かされてにやにやと笑っている醜い顔を見させられる。

『お前がそういう態度だとな、俺にも考えがあるんだよ。例えば、お前の綺麗なお姉ちゃんとかなぁ』

その汚い舌を引き抜いやりたいと思った。だが、どんなにもがこうと大の大人の力には叶わない。

初めて施設に訪れ日、柊は目の前の豚のような男が華奢な少女にのしかかっている姿を目にした。

すでにこの下衆な男によって施設の少女の幾人かは被害にあっている。中には一度だけではなく、数度に渡り乱暴されている少女もいた。

男の高圧的な態度に誰もが見て見ぬ振りをする。周りの大人たちはまったく頼りにならない。

(誰も助けてくれないんだ。俺が李樹を守らなきゃ)

母親は呆気なく逝った。柊は彼女の死から人は簡単に壊れることを知った。

すべてが嫌だった。母親の死も、姉を守らなければいけないとい使命感も、力のない自分も、またそれに気付いて諦めようとする自分の存在も、すべて何処かに置いていきたい。

いつの間にか男の影が消え、真っ暗な闇にいた。暗闇は怖いはずなのに、あの男がいないと思うだけで、安堵があった。

このまま消え去ってしまいたい。何もかも忘れて何処かに行ってしまいたい、そんな欲求が強くなる。

「どこに寝かせようか?」

李樹とは違う聞き慣れない声だ。だが、あの男とは全く異なる脂身を感じないさっぱりとした声が今は柊を安心させる。

「一階の空いている部屋に布団を敷きましょう。ちょうどあそこを李樹さんと柊さんのお部屋にするつもりでしたもの」

バタバタと足音がして、やがて静かになった。

どれくらい経ったのかわからないころ、柊の瞼が開いた。

立派な板張りの天井が目に入る。

視線を少しずらすと昼間のモヤシがいた。

「モヤシ…」

「え、モヤシが食べたいの。美代さーん、この子、今夜はモヤシが食べたいってー」

「…ちがう」

体を起こそうとすると相手が慌ててそれを止めた。

「こらこら、夕飯までまだだって」

「別にお腹が減って起き上がろうとしているわけじゃない」

「そうなの? まあ、もう少し寝てろよ。お前過労らしいから」

「かろう?」

「頑張りすぎて倒れたってこと。たく、働きすぎのサラリーマンじゃないんだから子供が過労で倒れるなんてよっぽどだぞ。李樹も心配していたから」

「…李樹をまた心配させた」

ぼそりと呟くと長い指に鼻の頭を弾かれた。

「いてっ」

「阿呆。李樹だけじゃなくてみんなも心配したわ。…今度は倒れる前にちゃんと疲れたと言いなよ」

そう言って隼人は目の前の頭をわしゃわしゃと撫でた。

柊は姉の李樹に似て綺麗な黒髪をしている。色は混じり気のない黒で、こしがあるのに柔らかく艶やかだ。

同じ黒髪を持つ母親の定子を思い出し、隼人はやはりこの少年は自分の血縁なのだと実感した。

障子が開き、李樹が飛び込んでくる。

「柊!よかった、目が覚めて!」

「李樹、なんだよその格好」

李樹は割烹着姿に右手に菜箸を握っていた。さながらどこかの若妻のようだ。

隼人が李樹の姿を褒める。

「李樹は家政婦の美代さんに料理を教わっているんだよね。その割烹着、美代に借りたの?すごく可愛らしいよ。きっと将来は素敵なお嫁さんになれるね」

隼人に褒められると李樹の白い頬にぱっと朱が散ってなんとも可憐なようすだった。

「は、隼人さん、柊、今日は天ぷらだからもう少し待っていてね」

李樹が台所に去った後、柊は隼人を睨んだ。

「あんたはいつもそうなのか?」

「そうって?」

「おべっかだよ。李樹が可愛いっていう」

「本当に可愛かったじゃないか。私が着てもああはならないよ」

隼人の答えに柊は脱力した。

この男は…。

いくら隼人が細身だとはいえ、この長身であの襟元にフリルのあしらわれた割烹着は似合わないだろう。

「美代さんの天ぷらは美味しいから楽しみにしておくといいよ」

「李樹はああ見えて料理が下手なんだ。期待しないほうがいいぜ」

 数時間後、食卓に並んだ天ぷらに隼人は唖然とさせられた。カラッと揚がる予定だった天ぷらがあるモノは油でぎとぎとにあるモノは黒焦げになっていた。

 天ぷらを除けば、新鮮な刺し身や色鮮やかなちらし寿司、夏の野菜料理など美代の力作が並んでいる。

 食卓は、隼人と李樹と柊の姉弟、家政婦の美代の四人が並んだ。

 柊は隼人の両親が不在なことが気になった。李樹も同じ気持ちだったらしく疑問を述べる。

「伯母様と伯父様は?」

「うちは、母さんは別に食事をする人なんだ。父さんは出張であちこちに出掛けているから今はいない。いつもこうだから気にすることないよ」

(いつもこう・・・? 仕事の父親はともかく、家にいる母親が一緒に食事をしなか?)

 柊は意識をなくして運ばれてきたため、まだこの家をよく見ていないが、浜夏家はかなりの大きさだ。彼の寝かされていた部屋からこの居間まで廊下は長かったし、部屋数もかなりのものだ。

しかし、家の大きさのわりに浜夏家はしんと静まって重い空気を纏っていた。

「せっかくのお料理が冷めてしまいますよ。食べましょう」

 美代に促されてちらし寿司を食べた李樹と柊がぴたりと箸を止めた。

「「お母さんと同じ味がする・・・」」

 懐かしい味だった。母親の華子がこしらえるちらす寿司は何を入れてあるのか、他とは一味違っているのだ。それをこのちらし寿司は完璧に再現している。

「ああ、きっと昆布でしょうね。うちは隠し味に昆布で香りを付けるんです。そういえば、華子お嬢様はこのちらし寿司がお好きでしたわ」

 懐かしげに美代が語る。

「美代さんは母さんたちが子どものころからうちで働いているからね」

「本当に母さんの家なんだ・・・」

 この家に死んだ母親の気配はない。だが、やはりここで母親の華子は生まれ育ったのだろう。

 柊の知る母親はいつも忙しく働いていた。おしゃれが好きな人で、お金がないなりにファッションには気を使うところもあり、子持ちにも関わらず、好意を持った男性から声を掛けられる母親の姿を柊は知っていた。

 都会の生活を満喫していた母親を見て育ったせいか、静かな田舎町で暮していたという母親にとても違和感を覚えていたのだ。

 食事の後は美代が風呂を沸かしてくれ、風呂からあがるとそれぞれに与えられた部屋に布団が敷かれていた。

 二人に各自で与えられたのは、一階の西向きの部屋だ。姉弟の部屋は襖を開けば一つになる部屋で、今日は襖が開いて二組の布団が身を寄せ合うように並んでいた。

 まだ新しい土地に着たばかりで心細い姉弟に対する美代の配慮だろう。

「お母さんの暮らした家っていい家ね」

 李樹が布団に転がりながら言う。しっとりと濡れた黒髪が背中に広がる。短い丈からすんなりと伸びた手足が見える可愛らしいデザインの白いパジャマ姿だ。

「天ぷらは失敗しちゃったけど、ちらし寿司は美味しかった。お母さんの味と一緒でびっくりしちゃった。もう食べられないって諦めていたけど、これからはいつでも食べられるね、柊」

「家政婦さんにレシピでも聞いとけよ」

「うん、自分で作れるようになりたい」

 しばらくお互い無言になる。

「・・・ねえ、柊」

「何だよ」

「私たちって定子伯母さんに嫌われているのかな」

 それは柊も考えていることだった。

 隼人から伯母が同じ家にいることは聞かされていたが、一度もその姿を目にしたことはない。血縁とはいえ、自分の家に他人が暮らすことになって、興味はわかないのだろうか。それとも意図的に避けられているのか。

「そういえば、母さんからこの家のことを聞いたことはなかったな」

「そうよね。あの人、私たちのお父さんのことは散々惚気ていたけど、自分のことは何一つ話さなかったよね」

 柊の脳裏にイトコの言葉が甦る。

『うちは、母さんは別に食事をする人なんだ。父さんは出張であちこちに出掛けているから今はいない。いつもこうだから気にすることないよ』

 いったい伯母はどんな人物なのか。

 ぎしり、と障子越しに廊下が鳴る。

「二人ともまだ起きている?」

 隼人の声だ。李樹が慌てて起き上がる。

「隼人さん? どうしたの」

 つい今しがた風呂からあがったらしい隼人からはシャンプーの香りがした。無粋な銀縁眼鏡は外され、意外にも繊細な顔立ちがぬれた茶色い髪の間からのぞいている。

 まったく雰囲気の異なる隼人に柊は密かに息を呑んだ。

「よかったまだ起きていて。昼間教えておくことを忘れていたんだ。二人とも家の裏にある山には絶対に入らないでほしい。あそこは緑が深いし、ところどころ思わぬところに崖があって、とても危険なんだ。・・・柊、聞いている?」

 睫毛の長い黒い瞳に見つめられ、柊は慌てて返事をした。

「あ、ああ」

「絶対に裏山には入ってはいけないよ」

「わかった」

 年下のイトコの返事をしっかりと聞き、隼人は自室に帰っていった。

 李樹が部屋の電気を消していいかと柊に尋ねる。柊は頷き、自分の分の布団に潜り込んだ。

 部屋にはまだ隼人の残したシャンプーの香りが漂っているような気がした。


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