浜夏の家2
隼人が目覚めると寝汗でTシャツは湿っていた。
「暑いな・・・」
窓は開けてあったはずだ。潮の香りが部屋に流れている。
空は見事な曇天だった。雨が降る前なのだろう。空気が蒸し暑い。
肌触りのよい木綿のシャツに着替える。
階下に降りると、浜夏家の家政婦である美代が調理場で瓜を切っているところだった。
背後から腕を伸ばして瓜を一切れつまむ。
「もらい」
「まあ、お行儀が悪い。すぐにお皿を出してさしあげますから」
濡れて手を前掛けで拭って美代が皿に瓜を乗せてくれる。
美代は隼人に甘い。今年で七十になる老女は隼人の祖母のような存在だ。
隼人の母は極端に興味の向くことが少ない人だった。隼人が生まれる前から一日に大半を離れにある自分の部屋で書物を読むことに費やしている。
彼女の興味に中に隼人の存在はない。料理、洗濯、掃除の家事を始め、隼人の世話を含めた浜夏家のことは、美代が回しているといってもいい。
物心つく前からそれが当たり前だったから、隼人も母親の行動を当たり前のものとして受け入れていた。
いや、諦めているというのが正しいのかもしれない。
隼人の外見は両親どちらにも似ていない。髪はさらりとした天然の茶色で、銀縁眼鏡を掛けた顔は色白、面差しはどこか弱弱しく浮世離れした印象を受ける。図抜けた長身、ひょろり長い手足とすべて祖父からの遺伝だ。
「隼人さん、お時間よろしいのですか」
「? 何かあったっけ」
「高島さんからお願いされていた件は今日ではありませんでした?」
隼人はたっぷり美代と見詰め合ってからばっと立ち上がった。
「忘れてたぁぁぁ!!!」
父親の秘書である高島から連絡が来たのは一週間前のことだ。
『お久しぶりです、隼人さん』
『ああ、高島さん』
高島から連絡が来たのは二か月ぶりだ。ちなみに最後に顔を合わせたのは一年前になる。つまり、高島が秘書として年中行動を共にする父親と会ったのも一年前になるということだ。
高島とは連絡が取れたが、父親とは年中音信不通である。
『突然ですが、鷹仁さんが亡くなられた華子お嬢さまのお子さんたちをお引き取りになりました』
『華子さん? あの駆け落ちしたっていう母さんの妹の? 亡くなられたの―――というか引き取るって』
『貞子お嬢さまにはお父さまから話は通してあるから大丈夫です。そういうわけなので来週の日曜三時に浜夏駅まで迎えをよろしくお願いします』
『や、そりゃ母さんには父さんから話せば問題ないと思うけど―――』
あのとき隼人が言い終える前に高島が連絡を切ったのはわざとだろう。
言い逃げした高島のおかげで隼人は駅まで会ったことのないイトコたちを迎えに行かなければならなくなったのである。
約束の時間までぎりぎりだった。隼人の住むこの家は山の中腹に建っており、迎えに行く駅まで歩いて三十分ほどだ。
隣町から山を越えてやってくる路線バスがあるが、田舎なものだから本数が少ない。
「バスがなかったら、最低自転車を飛ばして行けばいいか・・・」
帰りにイトコたちを迎えに行けばバスを利用するはずだから自転車の行方に迷うが仕方がない。
とりあえず靴を履いて外に出ようと玄関に行ったとき、エンジン音と共に隼人の救世主が現れた。
「こんにちはー、清水酒店です」
玄関を開けると隼人の幼馴染である清水酒店の息子が立っている。
「航太郎、駅まで乗せてくれ」
航太郎は日に焼けた腕で汗を拭うと形のいい眉を顰めた。
「断る。俺は配達の途中だ」
しかし、隼人はそれを無視して航太郎のバイクの後ろに乗り込んだ。予備のヘルメットは座席の下に収納してあることは知っているので勝手に拝借している。
「けちけちするなよ。配達の途中で私を降ろせばいいんだから」
「お前は急いでるんだろ」
「そう急いでるんだ。何せイトコたちが待っているから」
「イトコたち・・・? おじさんに親戚はいないはずじゃ・・・」
何だかんだ言いつつ見た目に反して中身の優しい航太郎は隼人を後ろに乗せたままエンジンを掛ける流れになる。
駅に着いたのは約束の時間を五分ほど過ぎてからだった。帰りはバスに乗るからと言い残し、隼人は改札に急ぐ。
無人駅には誰もいなかった。
「しまった。もしかして自力で行っちゃったかな」
それは困る。追いかけようにも高島が途中で連絡を切ったものだから、隼人は外見どころかイトコたちの性別すらも知らないのだ。
イトコたちが自力で隼人の家に向かうにしても駅から自宅までは決して近いとはいえない距離だ。
隼人が途方に暮れているころ、航太郎はまさにその目的の人物たちに出会っていた。
「航太ちゃん、いつもご苦労さま」
海沿いの家に息子夫婦と暮らしているお得意様の老婆が航太郎を労ってくれる。
航太郎は近所の主婦たちをとろけさせる爽やかな笑みを浮かべた。
「いえ。これからもうちをご贔屓に」
日頃、愛想のない航太郎が浮かべる笑みは効果が絶大だ。
お年寄りの心がきゅんとなったころ、生意気そうな声が掛けられた。
「ねえ、あんたら浜夏って家を知らない?」
小学生くらいの少年が立っていた。ここら辺では同じ年頃の男の子といえば皆が丸刈りかそれに近い髪の長さだが、少年の髪は額が隠れるほど長い。
夏だというのに肌は白く、生意気な顔立ちはよく見れば端正だった。
(町の子じゃないな…)
さすがに航太郎も町の人間すべてを知っているわけではないが、そうであるかないかは空気でわかる。
「浜夏さんねぇ、この町は浜夏って苗字ばかりなのよ」
老婆の言うとおり「浜夏」の苗字が多い町だ。
「お前、どこから来たんだ?」
自分より30センチは目線の高い航太郎に少年は臆することなく「東京」と答える。
航太郎と老婆が感嘆の声を上げた。
「えらく、遠くから来たな。親戚のところに遊びに来たのか?」
「ここに住むんだ、俺たち」
少年の声に答えるように浜辺から白いワンピースの少女が上がってきた。
「柊、この海すごいよ。こんなに綺麗な貝殻が沢山ある」
美しい少女だった。年は少年より少し上くらいか。
セミロングの黒髪とシンプルなデザインの膝丈のワンピースがよく似合っている。
「李樹、はしゃぎ過ぎ」
「だってすごく綺麗な貝殻だよ」
柊と呼ばれた少年は呆れた顔をしつつもワンピースの美少女から渡された貝殻を素直に受け取っている。
「ね、綺麗でしょ」
「まあ、東京では見られないな」
そこでやっと少女は航太郎たちに気が付いた。
条件反射のように老婆に小さい会釈し、続いて逞しく航太郎の存在に怯えるように自分より背の小さい柊の背後に隠れる。
その様子に自分の登場が少女を怯えさせてしまったのかと航太郎は申し訳ない気持ちになった。
「・・・。浜夏以外に何か手がかりはないのか?」
「華子って娘が昔その家にいたはずだけど」
おや、と老婆が目を見開いた。
「もしかして、あんたたちは華子さんの娘さんかい?」
「三坂さん、知っているんですか?」
「華子さんといったら山の方に住む浜夏さんととこの妹さんだよ」
「え」
航太郎の頭に先ほど別れた幼馴染の姿が浮ぶ。
「それって隼人のところですか」
「そうだよ。華子さんは、隼人さんのお母さんの定子さんの妹さんだよ。まあ、道理で女のこの方が誰かに似ていると思ったわ。あんた、華子さんによく似ているね」
老婆は李樹の顔をまじまじと眺め感嘆の声を上げた。
とりあえず、航太郎は幼馴染を駅から呼び戻すことにした。