しょっぱい夏休み
高校二年の夏休み、私(高瀬麻衣花)は自宅からほど近い蕎麦屋でバイトを始めた。勤務時間は午後五時から午後九時まで。部活の顧問の先生との対立があって、勢いで退部をしてしまった私は何もする事がなかった。昼間も呼び出しがあればバイトに出るようにしていた。
店は最寄り駅まで徒歩十分程で、近くもなく遠くもなく中途半端な距離で、駐車場もないからなのかあまり客は来なくて、ほとんどが出前の注文だった。
店長に初めて会った時の印象は、白髪頭で顔もしわくちゃで七十歳位のおじいちゃんに見えた。でも実際は四十九歳だという。老けすぎていると思った。奥さんと子供がいるが別居していると言っていた。店長はいつも麦茶ばかり飲んでいた。
店を閉めたあと、まかないを食べさせてもらう。いつも思ったのは、やけに味付けが塩辛いということだった。
「まいちゃん、この煮魚おいしいだろう」
最初のころは「はい、おいしいです」と言っていたが、慣れてきたころ思い切って言ってみた。
「少し、しょっぱいと思います」
店長は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そうか、やっぱりしょっぱいか」
「はい」私は苦笑いした。
「酒飲みにはこのぐらいがちょうどいいんだよ」
店長は、麦茶の中にいつも焼酎を入れて朝からずっと飲んでいた。それに気づいたのはつい最近だった。要するに店長はアル中(アルコール依存症)だと思う。体はガリガリに痩せて赤い鼻をしていつも大きな目をとろーんとさせていた。
夏休みも残りわずかとなったある朝、昼間のパートさんが急用で出られないというので代わりに出勤することになった。今日も朝から蒸し暑かった。噴き出す汗を拭いながら、私は鍵の開いている裏口から店に入った。
「おはようございます」
店長の姿は見えなかったが、朝は店の奥にある蕎麦打ち部屋にいるはずだったので、私はテーブルに上がっているイスを降ろし、座敷の座布団を綺麗に並べて暖簾を出す準備をしていた。
調理場では、鰹節でダシをとるためのお湯がグツグツと沸騰していたので火を弱めて、店長が来るのを待った。しかし、開店時間になっても店長は来ない。
「店長遅いな、せっかく早起きしたのに」
私は少しイライラしていた。ふと部活の顧問の顔が頭をよぎった。
「みんなちゃんとやってるかな……」
しばらくすると私の耳に微かな声が聞こえてきた。
「まいちゃん……」私の名前を誰かが呼んでいる。
「まいちゃん…… まいちゃん……」絞り出すような声だった。
「えっ、店長?」私は引き寄せられるように蕎麦打ち部屋に向かって歩いていった。
「あぁーー!!」
私はその光景に目を疑った。そこには蕎麦打ち機のローラーの中に手を挟まれた店長が、苦しそうにうめいていたのだ。
「大丈夫ですか」
私は近づいて店長の顔を見た。脂汗をぽたぽた垂らしながら店長は言った。
「抜けないんだよ。指が……」
垂れているのは汗だけじゃなかった。大量の血も流れていた。
「うっ…………」
「救急車呼びますか?」
「いや、いいから。この上の部分を持ち上げてみてくれ」
私はここから逃げ出したい気分だった。でも何とか店長の手をひっぱりだそうと試みた。でも抜けなかった。汗と血がぽたぽた粉の上に落ちて行く。時間ばかりがどんどん過ぎて行く。
「だめだー、やっぱり救急車呼びます」
店長はずっと嫌がっていたが、私は生まれて初めて救急車を呼んだ。
店長はなんとかレスキューの人たちに助けられて、救急車に乗り込んだ。そして乗り際に私に言った。
「悪いけど後始末お願いな」
私は蕎麦打ち部屋に行ってみた。窓から陽が差し込んで、半分残った麦茶の入ったコップを照らしていた。血でピンク色に染まった粉の中には肉片がぽろぽろ転がっていた。私はそれを見つめながらその場に立っていた。窓の外からは蝉の声が鈴なりになって私に覆いかぶさってきたが、私は崩れることもなくいつまでも立っていた。