03
血塗れの右の頬をそっと撫でる。
掌と頬の間から火花が零れ落ち、手をどかすと出血は既に止まっていた。
だが、完全に元通りとはいかないようで、3本の傷跡が頬の半ばから耳近くまで残ってしまっていた。
指先で触れる感覚からそれを察するサエグスだが、まぁいいかと放置を決め込む。
未だ頭を下げていたディアを起き上がらせると、彼の右脇にそっと触れる。
「ヌッ」
アバラ、といえばいいのだろうか。
胴体の側面、その上部。
腕の付け根に近い位置の骨が折れているか、皹が入っているようである。
この付近の肉は腕の動作に合わせて『引っ張られる』ため、アバラや鎖骨周りは一度折ると腕が殆ど動かせなくなってしまう。
サエグスが掌を患部にそっと当てると、やはり火花が零れ落ちてディアは引いてゆく痛みに驚く。
「他者の治療まで出来るとはな。貴様の祖先、あるいは過去の戦で大功を上げた事もあるやもしれん」
「どうだろうな。それよりも……」
日本人であるサエグスの祖先にそんな過去は存在しない。
親が居る以上戦国時代まで血筋はもちろん遡る事はできるだろうが、きっと百姓か何かだったのではないだろうかと思う。
「ここは見晴らしが良過ぎる。もう少し森の奥まで下がりたいんだが」
「あぁ、長が言うのならばそうしよう。いや、今は貴様が獣王であったか」
「長でいい、長で。獣の王はお前だと思うね、俺は」
「クハハ、そうか。そうかそうか」
嬉しそうにそう答えるディアにサエグスはノリの軽いヤツだな、と感じたが、ひとまずそれによる問題は発生していない。
ディアはニヤリと笑って大声で周りの魔獣達に命令を始めた。
ディアから見てサエグスは、おそらく己の欲していた能力を持っている事に喜びを感じていた。
確かに、ディアは負けた。
負けたが、まだ生きている。
ならば精々牙と爪を磨ぎ、今度は己が勝つ。
これからサエグスの後ろを歩く生活も、そしていずれサエグスに挑むその瞬間も、ディアにとっては楽しみでしかない。
彼にとって不幸があるとすれば、例えば先の戦いで腕が使い物にならなくなるなどして、自らの力が低下する事くらいでは無いだろうか。
「楽しそうだな、アンタ」
「猛る仲間が居る。コレが楽しく無くて何だ。貴様はアレだな。もう少し戦いを楽しむべきなのだ」
「いやまぁ、どうだろうな。楽しんでるとは思うが」
「クハッ、足りんよ。まるでな」
サエグスは死んだら死んだで笑って死にそうなこのデカイ虎が、どうやら嫌いでは無いらしい自分に気づいた。
先ほどの広場から森の奥へ30分ほど進んだあたりに沢があり、一行はそこでひとまず足を止めた。
周りを見渡すと、流石は獣王とその配下といった所であろうか。
上を見上げれば木々の枝には大型の鳥類型の魔物が止まり、見渡せば大型では熊や猪、小型では兎や鼠型の魔物が見られる。
どいつもこいつもが、ニンゲンと敵対している種族、つまり魔族である。
この世界の生き物の線引きは簡単で、『ニンゲン』と、それに本能レベルで敵対している『魔族』と、どちらでもない『それ以外』である。
『それ以外』というのはつまり普通に食用になる魚であったり、家畜であったり、明確にニンゲンに敵対していない種族全般だ。
ニンゲンに対しては無条件で牙を向く魔族だが、どうやらサエグスの扱いは辛うじてそれ以外らしい。
ようするに、この世界のニンゲンと地球人たるサエグスはニンゲンか魔族かというレベルで別の生物なのだ。
たまたま地球人が生きていける環境の星で、たまたま人類に似た容姿をしているだけの、まったく違う種族であり……
例えそこに子供を授かる事が出来る程の類似性を持っていたとしても全く別の存在。
そんな神の駒かつ栄養源たるその存在こそが、ニンゲンであるのである。
まぁ、魔族に対する神ルギルスについても似たような物であるのだが。
「いきなりで悪いが、魔王殿から受けてる指示を聞きたいんだけど」
「あぁ、そうだな。それを知らなければ始まらぬか。我々が受けた命令はひとつ。『ウーレンテ』の王宮を制圧しろ。それだけだ」
「王族に関しては?」
「ぬ?特に聞いてはおらんな。制圧となるのだから、王宮に居た場合は殺す事になるだろうが」
「狙いは聖域結界術式の魔方陣……かな。やっぱり」
「恐らくそうだろうが。どうでも良い事よ。制圧すれば後は専門の者が派遣されるだろう」
「成る程ね」
聖域うんぬんは近いうちに説明するとして。
今更だが、この世界には神が2人居る。
この世界の中にいるのか、それとも世界の管理者なのか、それとも神にとってこの世界なんてチェスボードのひとつにしか過ぎないのか。
それは解らない。
一番最後であると結構都合が悪いのだが。
何を考えているかなんて、そんな事は人間のサエグスには解らない。
解りたくもない。
ただひとつ、間違いないこと。
それは少なくとも片方の神の存在が、地球人にとって酷く迷惑な存在である事なのだ。
だから、サエグスはここに居る。
その経緯を語るためには、ある女性の話から始めなければならない。
女性の名を「三笠 沙那」という。
人間胸を張って何かを誇れる、なんて事がどれだけあるだろうか。
サエグスはあった。
例えばちょっとした飲み会の小話では重宝するその内容とは。
「俺、三笠沙那と中学高校同じ学年だったんだぜ、クラス違ったけど委員会が同じだった事あって、何度か挨拶したことある」
そんな事が、胸張って言える位の、昭和と平成の狭間が産んだ化け物だったのだ、三笠という女は。
彼女が世界に認識された始まりは、高校生の頃だ。
学年は2年だったと思う。
深夜枠のギャルゲーのサブヒロインの声優として、彼女は地上波にデビューした。
話題に上がったのはキャラクターソングのアルバムが出てミニライブが何度かあった頃からだ。
オペラ歌手かと思われるほどマイクレスで遠くまで届くはっきりとした声。
どのような難しい微妙なバランスを要求される旋律でさえ歌い切る技量。
そしてそこに乗せる気持ちの重さ。
全てがそこらの本業の歌手を圧倒的に上回り、たちまちネットで評判となってライブはDVD化、アルバムは重版。
ゴールデンタイムのアニメの準ヒロインから正ヒロイン、EDからOPと瞬く間に声優としての出世街道をひた走り、僅か3年、20歳で紅白ソロデビューという前人未到の偉業を成し遂げた偉人である。
『ササナ』という愛称で呼ばれた彼女は、あの時あの瞬間、確実に世界で誰よりも輝いていた。
そして、その紅白の放送の直後、控え室から忽然と、永遠に姿を消して話題を年末年始の話題を攫った人物でもある。
警察が動こうが、全国のマスコミが血眼になって探そうが、彼女の足取りは掴む事は出来ず。
毎年年末の特番によくある、「時効ギリギリ事件を追え」だの「あの人は今」だのと言った番組に名前が出るような、そんな人である。
サエグス自身、彼女の存在を嘗ての記憶の中に保存するのみとなっていた。
あの中学生最後の冬、図書室で彼女と交わした他愛の無い雑談。
「好きにやりゃいいじゃん。失敗して馬鹿みるのすら楽しめたら、もう人生に怖いもんなんて無いぜ」
現実を知らない馬鹿なガキのたわ言を真に受けて、本当に好きにして時代の階段を一足飛びで駆け上がった切欠になったあの放課後の記憶も、やがて弾けて消えてゆく泡のように。
だが、サエグスはそんな彼女とこの異世界で再会したのだ。
この世界に連れて来られた直後、何が起きたのかも解らぬ目の前に彼女は居た。
そしてその直後、三笠沙那は血を吐いて死んだのだ。
サエグスに一冊のノートを託して。