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痩せ我慢

作者: 相良理方

どうってことのない短編。

週に一度の勤務の帰りにシバ漬けを買おうとデパートに寄った。

相当の人ごみの中、漬物専門店に着いた。店の前の選り取り見取りのケースに目当てのシバ漬けを見つけたので、手をのばした。と、同時にもう一つの手がのびてきた。

 「あ、失礼。お先へどうぞ」

 「あ、君、久しぶり」

 「ああ、野間君。野間君だね」

 「そう、野間だよ。相良君」

 驚いた。ほぼ四十年ぶりの再会。野間とは細い廊下を挟んで下宿部屋が隣同士だった。一年半ほど毎朝毎晩、顔を合わせる仲だった。


 「野間君が漬物を買いに来るなんて、昔の君からは想像できないよ。どうしてまた?」

 「いや、何、女房に頼まれてね。デパチカなんて来たくもなかったんだけど、頼まれりゃ仕方ない。まあ、痩せ我慢というところだよ」

 「奥さんがいるの? 」

 「失敬な。俺だって女房のひとりぐらい。いや、結婚なんてしたくもなかったんだけど、これもまあ痩せ我慢というところかなあ」

 「痩せ我慢ってどういうこと?」

 「結婚してくれって頼まれりゃ仕方がないだろう」

 「それで痩せ我慢なの?・・・ ちょっと喫茶店で話そうか」

 「いや、喫茶店はいいよ。デパートのロビーでいいだろう?」

 「そうだった。君は喫茶店に入らなかったんだ」

 「じゃ、ロビーで。おっと、その前に漬物を買わなくっちゃ」

 「はっはっはっは、忘れるところだった。奇遇にも君の毒気にあてられたみたい」


 野間と私は地下から一階のロビーにやって来た。世の中不景気風が吹いているいるというのに、夕方のデパートは混んでいた。ウインドウショッピングを楽しんでいる人も多いのだろう。見渡すと座れる処がない。

 「あそこの客、もうすぐ離れるよ。ちょっと待っていよう」

 こういう時の野間の勘はなぜか鋭い。野間の言う通りになった。二人は入り口近くのソファ椅子に座った。

 「四十年ぶりだね。・・・だけど、そうは言っても別段話すこともないね」

 野間の言う通りだった。お互いの現在の状況を訊くこともためらわれた。訊けば、当たり障りのない返事がかえってくるに違いない。

 四十年をへだててお互い、遠慮がちになっていた。

 毎日会っていた頃の野間は服装に全く拘泥するところがなかった。今、目の前にいる野間の服装も、どちらかと言えば貧相なものだった。服装が人間を物語るわけではないのだが。

 「思い出したけど、向山、知っているだろう、向山、彼、亡くなったよ」

 私が向山の話を持ち出したのは、向山が二人に共通の数少ない友人だったからである。

 「え、向山、死んだの? 病気で?」

 ちらっと私の目を見て野間はわずかに驚いた風だった。

 「うん。肺ガンでね。やはりタバコは良くない」

 「早死にと言っていいんだろうね。タバコは良くない、確かに。君もヘビースモーカーだったろう。 君の部屋はいっつもタバコ臭かったからね。寝ている間もタバコの煙を吸っていたようなものだ」

 「そう、よく吸ったね。ただね、あの家は戦前からの長屋で隙間風が部屋の空気を攪拌してくれていたようなものだ。10年前に脳梗塞で入院した時、何の苦労もなく止めたけど」

 「脳梗塞やったの?」

 「うん。やっちゃった。一週間分の記憶が欠けてるんだ。運良くと言っていいのか、後遺症もなく今こうしているんだけど。その一週間に肺からニコチンが洗い流されたらしくて、タバコは自然に止めることができたよ」

 「不幸中の幸いだったね」

 野間の言葉遣いはあくまで平静を装っていた。四十年前の野間ではなかった。

 「野間君、いやに落ち着いたね」

 「なに、痩せ我慢しているだけだよ」

 「あの家ね、あの家の辺りね、すっかり新しくなっていたよ」

 「行ってみたの?」

 「ちょっと大学に行く用事があった時、ついでに寄ってみたんだ。われわれが住んでいた頃の面影はなかったよ」

 「千年の都も時代の波には勝てないっていうわけか。そらそうだろうなあ。伝統に胡坐をかいて痩せ我慢してはいられないだろう」

 「君、今日は痩せ我慢ってよく言うね」

 「俺の性分だろう。俺、変わったかい?」

 「いや、変わっていないよ。四十年前とおそらく同じだ」

 「ということは、俺には進歩がないっていうことか。はっはっは・・・」

 「俺も同じだよ。学生の頃のままだよ、気性は」

 「ま、気だけは若いってことだよな」

 「野間君は京都に来ること、あるの?」

 「いや、めったに。近くなんだけどね。大津」

 「じゃ、すぐじゃない。来ようと思えばいつでも来られるね」

 「ところが、なかなか足がこちらを向かないんだ。歳月の経過だね。君は?」

 「奈良なんだけど、野暮用で週に一度は来る。ただ、昔なじんだ東山一帯と正反対のところをバスで走って、帰るだけだけどね。バスに乗っている間、時々昔のことが懐かしくなるので困ることがある」

 「懐かしくなるのは正直な証拠だよ。・・・そろそろおいとましようか。日も暮れたことだし」

 デパートの中は明るかったが、外はすっかり暮れてネオンだの街灯だのが輝光を放っていた。

 「暮れるの、早いね。秋も半ばだから。じゃ、帰るとしようか」

 デパートを出たところで野間と別れることにした。もう会うこともないだろうと思った。四十年のブランクがお互いを疎遠にしていたらしい。

 「相良君、また会う機会があればいいね」

 野間の挨拶にとまどった。だが、彼の挨拶が痩せ我慢のせいだと気がついた。会うことが無理なのを承知の上での挨拶だった。

 「ああ、また会おうよ」

 私も痩せ我慢で返した。


 帰路の電車の中、野間のことに思いを馳せざるを得なかった。それは自然なことだった。何しろ四十年ぶりの偶然の再会である。一年半の間、同居も同然の仲であった。彼と私が下宿した部屋は戦前から続く長屋の一軒で、修繕の跡も見当たらなかった。ゴザをはがすと古びた畳が顔を見せた。壁は煤けた黒褐色。押入れの襖は色褪せて、ところどころ地の色とは異なる紙で張り合わせてあった。古びた木枠でかたどられ窓ガラスは少々波打って、外の景色が歪んで見えた。半畳の出入り口はやはり襖戸で、元は簡単な鍵がついていたのだが――その名残があった――、私たちが入っていた頃はその鍵はなかった。入ろうと思えば難なく入れた。部屋にいる時は声をかけて入るが、私の留守中彼はしばしば私の部屋に無断で入っていた。そのことに違和感を覚えることもなかった。彼の持ち物で私が持っていないものを必要とした時は無断で彼の部屋に入って使った。その逆も然りであった。お互いを信頼していたと言えばそれまでのことだが、昨今では考えられないことであろう。良き時代、疑うことを知らず青春を謳歌できる時代だった。だからと言って、彼と私の仲が根っから親しいという程ではなかった。


 ある日、彼の部屋で女のかん高い歌声が響いた。

 「おい、入るよ」

 入って驚いた。部屋の中央に彼が座ってその歌を聴いていた。見るとフォー・スピーカーのステレオではないか。部屋の四隅にスピーカーを置くステレオプレーヤーである。その頃、一時期だけこの種のステレオが出回った。

 「どうしたの?この高価なステレオ」

 「聴きたい歌が出たので、思い切って買った」

 「買ったって、金はどうしたの?」

 「学費を来年払うことにした」

 「それでは足らないだろう」

 「借りた」

 「貸しくれる人がいたの?」

 「うん。それがいるんだなあ。不思議かい?」

 「この歌は何?」

 「松田聖子」

 「わざわざフォー・スピーカーで聴くんだ。驚いたね」

 「彼女、俺と同郷なんだ。年下だけど、たぶん中学が同じだ。嬉しくなって、最高の音響で聴いているんだ」

 「ほう。松田聖子って有名なの?」

 「有名になってきた」

 「それにしても、フォー・スピーカーで聴くほどの歌なの?」

 「俺にすれば聴くほどの歌だ」

 彼は私の言葉を上の空で聴いていた。驚く他はなかった。


 その後一月半ほどして歌声が聞こえなくなった。ステレオは質屋に入れたとのことだった。

 今日デパートで会った時の彼の言葉で言えば、高価なステレオを入手したのは痩せ我慢のなせるところだった。彼には学生の頃から身の丈以上の事を望み、その望みを無理を承知で実現する性分が備わっていた。痩せ我慢というか、無茶なところがあった。しかし全く悪気はなかったのである。

 電車の座席で船を漕ぎそうになったが、野間のことが脳裡から離れなかった。今日会った彼は四十年前の彼とは何処か変わっていた。学生の頃の彼は我がままなところもあったが、彼なりに生活を積極的に楽しんでいた。今日の彼には積極性がみられなかった。しかし、そういうことは老いるにつれて誰にでも言えることだろう。純朴な積極性が減退したのは私についても言える。若者の意気込みに変わって老獪さが増す。人間の宿命のようなものだ。

 純朴さを示す彼の逸話を思い出していた。純朴さと言うより生真面目を示す逸話である。

 バイト先から下宿部屋に帰ると、部屋の前に彼のスリッパがあった。私の部屋に彼がいる証拠である。

 「お、ただいま」

 「ああ。・・・」

 「え、何してるの?」

 「足の爪の欠片を探しているんだ」

 彼はゴザ畳に這いつくばるような格好で目を皿のようにして探していた。

 「俺の足の爪を、欠片でも君の部屋に散らかしておくのは失礼だろう」

 「・・・」

 「爪切りを借りて足の爪を切っていたら、切った欠片が飛んでいってしまったんだ。鋏で切っていたんだけど指の先まで切ってしまって痛くってね。血は止まったんだけど。それで君の爪切りを借りていたんだ」

 「そういうことか。気にしなくていいよ。切った指先は消毒したの?」

 「なに、消毒する程の傷じゃない」

 「痩せ我慢するなよ。消毒液がここにあるから使えよ。化膿でもしたら長引くから」

 「わるいね。じゃ、ちょっと消毒しておこうか」

 タオルをちぎった布を指先からはずして、足の指先に消毒液をふりかけ、また布で巻いた。こんなのでいいのかと思わせる消毒だった。

 「これでよしっと。爪の欠片を探さなくっちゃ」

 「いや、もういいよ」

 「そういうわけにはいかない」

 彼はまた探し始めた。その格好が何とも愉快だった。私も手伝った。二人でしばらく足の爪の欠片を探した。思えば奇妙なことをしたものだ。

 「お、あったよ。これか?」

 「あった、あった。よかった」

 彼の目が笑っていた。いかにも安堵したという顔を見せた。

 「これで君に迷惑をかけずに済んだ」

 何が迷惑をかけずに済んだというんだ。もう結構迷惑をかけているんだぞと言いそうになって、やめた。

 「一件落着だね」

とありふれた台詞を返した。私は一人になりたかった。たかが足の爪の欠片探しでバイトの疲れがどっと出て来た感じがした。彼は何か話したそうな風だったが、間が悪い気分になったのか、部屋を出ていった。二歩で自分の部屋である。


 電車を降りて家路につく頃にはすっかり暮れて、街灯が弱々しく瞬いていた。帰宅しても何故か食欲がなかった。疲れたのだろう。

 「シバ漬、買ってきてくれた?」と女房の声。

 ハッとした。紙袋に入っていたのを憶えていたが、鞄を開けた。入っていない。やっちゃった。電車の中に忘れてきたのだ。

 「今日は四十年ぶりに友達に会って話し込んだから、買う時間がなかった」

 痩せ我慢の嘘。野間のせいだ。自分のせいではないと自分に言い聞かせた。


                                      ―― 完 ――








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