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あと5秒で定時です ~婚約破棄の前に、こちらから契約解除しました。3年かけて仕上げた脳筋王太子に請求書を突きつけて退職したら、再契約を求めて追いかけてきました~

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/04/10


「あと五秒」


 私は扇の陰で懐中時計を確認しながら、目の前で吠え散らかしている王太子殿下の声を聞き流していた。


 逆算は完璧だ。


 19時55分。

 殿下が溺愛しているユリア嬢の『お遊び公務』としか言いようのないお茶会予算を、私が財務上の理由で却下する。


 すると殿下は、きっかり5分で沸騰する。


 そして怒りが頂点に達するのが――20時ちょうど。


「ルクレシア! 貴様のような冷酷で、金に汚い女とはこれ以上やっていけない!」


 王宮大広間。豪華絢爛な舞踏会のど真ん中。

 リヒト殿下の、やたら腹から出たバリトンが響き渡る。


 ええ、その声域は私が鍛えました。

 無駄に響きがいいのは、3年間、姿勢と呼吸法を叩き込んだからです。


「真実の愛がどうの、愛のない政略結婚がどうの……」


 はいはい。

 そのへんのテンプレはもういいので、早く本題をどうぞ。


 秒針が進む。


 3。


 2。


 1。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン……。


 王都の時計塔が、20時を告げた。


 私はパチンと扇を閉じた。


「承知いたしました。お疲れ様でした、定時です」


「……は?」


 リヒト殿下の口がぽかんと開いたまま止まる。

 その隣で、ふわふわの髪を揺らしたユリア嬢も目を丸くした。

 周囲を囲んでいた貴族たちも、今の今まで『ざまぁみろ』と私を見ていたくせに、一斉に黙り込む。


 当然だろう。


 ついさっきまで『婚約破棄される悪役令嬢』だった女が、いきなり『勤務終了後の外部コンサルタント』の顔になったのだから。


 私は懐から分厚い革のファイルを取り出した。

 あらかじめ用意しておいた、引継書兼請求書である。


「リヒト殿下」


 営業スマイル全開で、そのファイルを彼の胸へ押しつける。

 ずしりと重い束を支えきれず、殿下がよろめいた。


「こちら、今月分の業務請求書、および契約終了に伴う精算明細になります」


「……は? せ、請求書?」


「はい。婚約破棄に伴う違約金、契約外拘束の超過勤務手当、3年間の肉体管理費、危険手当、精神的苦痛慰謝料を合算しまして――」


 私は1枚目をめくり、指先で弾く。


「合計、金貨120万枚です。期日までにお支払いください」


「ひゃ、120万枚ぃ!?」


 ああ、その裏返った高音域は未調整です。

 鍛えていませんからね。


「な、何なんだそれは! 肉体管理だと!? 貴様が俺にしてきた食事制限や訓練の強要は、ただの嫌がらせじゃなかったのか!?」


「嫌がらせではありません。業務です」


 私は淡々と言い切った。


「王太子の体型管理、体幹強化、発声改善、立ち姿矯正、睡眠導線の整備。すべて、国の顔としての価値を最大化するための施策でした。おかげで殿下の肩幅は見映えがよくなり、大胸筋のラインは非常に美しく整いました」


 会場がざわつく。

 婚約破棄の場に『大胸筋』はふつう出ない。知ってます。


「……何を言ってるの、ルクレシア」


 ユリア嬢が震える声で口を挟んだ。


「婚約者なのに請求書って……」


「元・婚約者候補であり、現・業務委託先ですので」


 私はさらりと返す。


「私は殿下の婚約者である前に、国王陛下より直々に雇われた『王太子更生および国政立て直しプロジェクト』の主任管理者です。勤務時間は8時から20時まで。以降の拘束には3分ごとに金貨1枚の超過勤務手当が発生します」


「今そんな話をしている場合か!?」


「ありますとも。今まさに、労務トラブルの真っ最中ですので」


 私はにっこり笑った。


「では改めまして。契約解除のご意思、確かに承りました。私の方も、本日20時をもって、すべての業務を終了いたします」


「待て! 待て待て待て!」


 リヒト殿下がファイルを抱えたまま叫ぶ。


「何を勝手に終わらせようとしている! 婚約破棄されたのはお前だぞ!」


「ええ。ですので、成果物を納品して退職するだけです」


「成、果物……?」


「はい。3年かけて仕上げた、殿下ご自身です」


 私は彼を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。


 深い青の礼服。

 無駄なく広がる肩。

 引き締まった腰。

 きっちり伸びた背筋。


 見た目だけなら、それなりに良い商品だ。

 中身はまだ不安定だけど。


「私が担当しなければ、殿下は今でも朝寝坊して菓子パンを3つ食べ、剣の素振りをサボり、書類を机の端に積み上げるだけの脳筋でした。ここまで整えたのですから、むしろお安いくらいです」


「……ッ!」


 リヒト殿下の顔が真っ赤になる。

 怒りか羞恥か、その両方か。


 私は最後の1枚を差し出した。


「なお、明朝締切の北方帝国との関税交渉案、南部鉱山の予算修正案、騎士団食費削減案につきましては、机の上に未決裁で置いてあります」


「……は?」


「いつもなら私が徹夜で下処理しておきましたが、本日は定時退社ですので」


「……っ」


「ご自分でどうぞ」


 私はドレスの裾をつまんで一礼した。


「それでは失礼いたします。さようなら、私のホワイトライフ」


 大広間の扉を押し開けた瞬間、夜風が頬を撫でた。


 自由の匂いがした。


(ビール飲みたい。枝豆食べたい。あと3日くらい誰にも話しかけられずに寝たい)


 私は一度も振り返らず、ブラック職場をあとにした。



 ◇◆◇



 私の前世は、ブラック企業の法務部兼経営企画室勤務だった。


 コンプライアンス。

 コストカット。

 業務改善。

 無限の会議。

 無限の修正。

 終わらない残業。


 最後はデスクの上で力尽きた。


 意識が薄れる中、私は誓ったのだ。


 次は絶対に定時で帰る。

 でも、やりがいは欲しい。


 そんな願いを叶えるように、転生後の私の前に現れたのが、この国の国王陛下だった。


 提示された契約書には、こう書かれていた。


【業務内容:脳筋の王太子を、国王として最低限使えるレベルまで管理・育成すること】

【特記事項:嫌われ役に徹し、表の人気を別の令嬢へ流し、政治的軟着陸を図ること】

【報酬:莫大】


 完璧だった。


 しかも担当案件は、当時17歳の王太子リヒト。


 顔はいい。

 体格もいい。

 素材もいい。


 ただし、頭より先に筋肉が動く。


 放っておけば剣を振る。

 甘いものを食べる。

 公務を後回しにする。

 腹筋だけは増える。


 正直、けっこう好みだった。


 だから私は3年間、本気で仕上げた。


 朝の食事管理。

 剣術と体幹の見直し。

 公務の優先順位づけ。

 利権絡みの貴族の排除。

 予算の締め直し。

 そして、ピンク髪で『かわいい』しか取り柄のないユリア嬢を、あえて殿下のそばに置いて柔らかな人気の受け皿にすること。


 結果、私は『冷酷な悪役令嬢』として嫌われ、殿下は『優しく庇う王子』として株を上げた。


 完璧なプロジェクトだった。


 ――本人が、私の価値を何ひとつ分かっていなかったことを除けば。




 ◇◆◇




 翌朝。


 王太子リヒトは、人生最悪の目覚めを迎えた。


 起きても朝食がない。

 予定表がない。

 着替えも整っていない。

 ベルを鳴らしても、誰も来ない。


「おい!」


 苛立って廊下へ出た瞬間、城中が慌ただしく駆け回っているのが見えた。


「北方帝国から催促です!」

「財務省が予算承認印がないと!」

「ルクレシア様はどこ!?」


 嫌な予感がした。


「……なんだ、この騒ぎは」


 呆然とする彼の前へ、ユリアが駆け寄ってくる。


「リヒト様ぁ〜! 大変なんですぅ!」


「ユリア! よかった、君だけでも――」


「厨房がパンケーキを焼いてくれないんですぅ! 10段重ねで蜂蜜たっぷりってお願いしたのに、『王太子妃教育係不在のため却下です』って!」


 リヒトは無言になった。


 いまそれどころではない。


 彼は無意識に、しがみついてきたユリアの腕を振り払っていた。


「今はそれどころじゃない!」


 自分でも驚くほど苛立った声が出た。

 ユリアが目を丸くしている。


 そんな顔をされても困る。

 城が崩れかけているのだ。

 パンケーキどころではない。


 リヒトはそのまま執務室へ走った。


 扉を開けた瞬間、彼は凍りついた。


 天井まで積み上がった未決裁書類。

 机中に貼られた付箋。

 赤字の修正指示。


「……なんだ、これは」


「殿下!」


 目の下に深い隈をつくった側近が飛びついてきた。


「どうなっている! 昨日まで執務室は整っていたはずだろう!」


「整っていたのではありません!」


 側近は半泣きで叫んだ。


「昨日まではルクレシア様が、我々と殿下の見えないところで全部処理してくださっていたのです!」


 重要度順の仕分け。

 裏取り。

 法的リスク確認。

 根回し。

 資料要約。


 側近が差し出した紙には、見慣れた美しい筆跡で付箋が貼られていた。


『※この商会は粉飾の可能性があります。裏帳簿確認済み。却下推奨』

『※北方帝国は牛肉の増枠を欲しがっています。先に筋肉の話を振ると場が和みます』

『※本日のスクワット、膝が内に入っています。体幹を意識してください。会議前にプロテインを置いておきます』


 リヒトの喉が詰まった。


 嫌がらせだと思っていたものが、全部自分のためだったと気づいてしまったからだ。


 彼女は口うるさいだけの婚約者ではなかった。

 自分が王太子らしく見えるように、城が回るように、ずっと裏で整え続けてくれていたのだ。


「……俺は」


 低く漏れた声が震える。


「俺は何を見ていたんだ……」


 その時、執務室の扉が静かに開いた。


「ようやく気づいたか、愚か者」


 国王だった。


 彼は1枚の羊皮紙をリヒトへ投げ渡す。

 3年前に交わされた業務委託契約書の写しだ。


「ルクレシア嬢は、私が雇った国政コンサルタントだ。お前を“なんとか王として見られる程度”にするためにな」


「父上……知っていたのですか」


「当然だ。お前はあやつが整えてくれることで甘え、自分で考えることをやめていた」


 国王は書類の山を顎で示した。


「どうだ。彼女なしで回せるか?」


 窓の外では、ユリアがまだ「パンケーキぃ〜」と騒いでいる。


 リヒトは黙った。


 答えはわかりきっていた。


「……無理です」


「なら、どうする?」


 リヒトはゆっくり立ち上がった。


 胸の奥が妙に苦しい。

 それは、城が回らないからだけではなかった。


 朝、予定表がないことより。

 食事が整えられていないことより。

 誰にも叱られないことの方が、ずっと落ち着かなかった。


 鍛錬でうまくできた時。

 会議で少しまともに話せた時。

 まず見せたかった相手がいない。


 ちゃんとやれと睨まれるのが嫌で嫌で仕方なかったはずなのに、その視線がないと、何をしても妙に味気ない。


 もっと早く気づくべきだった。

 あいつは邪魔な管理者じゃなく、自分をいちばん近くで見てくれていた人間だったのだと。


「……迎えに行きます」


 国王が片眉を上げた。


「金貨120万枚でも、200万枚でも払います。土下座でも何でもする。あいつがいないと、城が回らない」


「馬鹿者」


 国王の声が低く落ちた。


「甘えるために迎えに行くな」


 リヒトが息を呑む。


「彼女がいなくても最低限回せるだけのことを、お前自身がやれ。自分の足で立てるようになってから行け。でなければ、次は私が追い返す」


 執務室に沈黙が落ちた。


 やがてリヒトは、ぎゅっと拳を握る。


「……はい」


 それから4日、彼は寝る間も惜しんで働いた。


 書類を読み、決裁し、頭を下げ、会議に出て、間違えて、また修正した。

 側近に怒鳴るのをやめ、自分で確認し、自分で覚えた。


 北方帝国との返答も送った。

 牛肉の輸入枠も維持した。

 財務省にも頭を下げた。

 山積みの未決裁案件も、4日で4割まで減らした。


 もちろん完璧ではない。

 だが、本人比では奇跡みたいな進歩だった。


 5日目の朝。

 リヒトは新しい契約書を抱えて城を出た。




 ◇◆◇




 数日後。


 王国南端の海沿いリゾートで、私は別荘のテラスに寝そべっていた。


 部屋着。

 雑にまとめた髪。

 右手にジョッキ。

 左手に塩漬け肉。


「っかー! 定時後の酒、最高!」


 残業なし。

 会議なし。

 王太子教育なし。

 投資信託も順調。

 人生いまが最高潮である。


「……邪魔をしてもいいだろうか」


 聞き覚えのある声がして振り返ると、旅装束のリヒト様が立っていた。


 目の下に薄い隈。

 頬は少しこけている。

 けれど数日前より、顔つきだけは引き締まっていた。


「……何しに来たんですか」


「迎えに来た」


「却下です」


「まだ何も言ってない」


「どうせ戻ってこいでしょう」


 図星を突かれて黙る。

 私はジョッキを傾けた。


「私、退職しましたので。王太子妃候補という雇用形態は、24時間拘束・有休消化ゼロ・残業無限のブラック案件です。二度とお断りです」


「分かってる」


「分かってないから来たんでしょう」


「分かった上で来た」


 彼は真っ直ぐ言った。


「書類、片づけた」


「へえ。どれくらいです?」


「4日で4割」


 私は少しだけ目を見開いた。


 4日で4割。

 徹夜しただろう。

 しかも本人比ではかなり頑張っている。


「北方帝国への返答も送った。牛肉の輸入枠も維持した。財務省にも頭を下げた」


「意外とやるじゃないですか」


「付箋も全部読んだ」


 彼は一歩だけ近づく。


「お前が、俺の見えないところで何をしてたかも」


 私はジョッキを口元に運んだまま、返事をしなかった。


「……今さらですね」


「ああ。今さらだ」


 そこで言い訳せず認めるのは、この男の美点だ。


「朝、誰にも怒られないのに落ち着かない。書類が整ってないのも困る。でもそれより……」


 彼は言葉を探すように口を閉じた。


「……鍛錬で少し上手くできた時に、一番見せたい相手がいないのが、きつかった」


 胸の奥が少しだけ、ちくりとした。


「褒められたい相手がいないと、頑張っても虚しいんだなって、初めて知った」


 ……それはずるい。

 今さらそんなことを言われたら。


「私、かなり高くつきますよ」


「払う」


「条件もうるさいですよ」


「受ける」


「残業は3分ごとに金貨1枚です」


「わかった」


「筋肉の管理権は私が持ちます」


「最初からそのつもりだ」


 そこで、別の声が割り込んだ。


「おや、面談中かな?」


 現れたのは隣国の第二王子だった。

 商才に長けた切れ者で、以前から私に接触してきていた男である。


 彼はすっと名刺を差し出した。


「改めてどうだい? 我が国で経営顧問を。完全週休3日、残業禁止、福利厚生完備。年俸は君の希望額でいい」


「……理想的ですね」


 私の目が光る。


 ホワイト。

 圧倒的にホワイト。


「しかも温泉もある。食事もいい。無能な上司もいない」


 その一言で、リヒト様の顔色が変わった。


「待て」


 彼は反射的に私の前へ出る。


「そいつは……細い」


「は?」


 第二王子が眉をひそめる。


「腕も胸も薄い。ルクレシアのやりがいを満たせない」


 テラスに沈黙が落ちた。


 私は隣国の王子を見た。

 知性はある。条件も良い。話も早い。

 だが、薄い。


(ホワイトではある。でも……萌えがない……!)


 その一瞬の迷いを、リヒト様は見逃さなかった。


「条件を変える!」


 彼は上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを外した。


 ばさり、と露わになる上半身。


 そこには、私が3年かけて作り上げた傑作があった。


 厚い大胸筋。

 きれいに割れた腹筋。

 鍛えすぎず、見映え重視で止めた肩から腰のライン。


 夕陽を浴びた筋肉が黄金色に浮かび上がる。


 私の視線が、ぴたりと止まった。


(……ああ、綺麗)


 私の作品。

 私が育てた筋肉。

 理想のバランスで完成した王太子の肉体美。


 隣国の王子が一歩引いた。


「……なるほど。そういう勝負か」


「そうだ」


 リヒト様は真顔で言った。


「俺にはこれがある」


 いや、真顔で言うことではない。

 でも刺さる。悔しいくらい刺さる。


「条件追加だ」


 彼はさらに続けた。


「今後、実務は俺がやる。お前は管理だけでいい」


「はい?」


「書類も会議も決裁も、俺が覚える。お前は隣で指示を出して、俺がサボらないか監視してくれればいい」


「待遇は?」


「年間休日150日。定時厳守。緊急対応は事前承認制。残業は3分ごとに金貨1枚」


「悪くないですね」


「さらに」


 彼はごく真面目な顔で言った。


「筋肉の維持管理権も、お前に渡す。見放題、触診自由、トレーニングメニューへの口出し無制限だ」


「触診自由……?」


「契約書に明記する」


 もう駄目だった。


 ホワイト環境と極上の筋肉が脳内で激しくぶつかり合い――結論は数秒で出た。


「……わかりました」


 私はにやりと笑った。

 婚約者の顔ではない。

 条件の良い人材を再雇用する経営者の顔だ。


「再契約しましょう、リヒト様」


 彼の表情が一気に明るくなる。


「ただし」


 そのまま、私はぴしゃりと言い放った。


「今後の雇用形態は()ではなく、『筆頭管理者兼共同経営者』です。私の指示は最優先。使えないと判断したら即解雇――つまり離婚も視野に入れます」


「望むところだ」


 彼は即答した。


「一生、お前の下で働く」


「その言質、取りましたよ」


「契約書にする」


「素晴らしい」


 隣国の王子は肩をすくめる。


「筋肉には勝てないか。潔く引こう」


「条件は最高でした」


「転職したくなったらいつでもどうぞ」


 良い男だった。

 ただ、薄かった。それだけが惜しい。


「……戻ってくれるのか」


 まだ少し不安そうな声で、リヒト様が聞く。


「正式な再雇用です」


 そう答えた瞬間、彼は私を抱き上げていた。


「ちょ、近い、汗!」


「嬉しいんだ!」


「わかりますけど汗臭いです! でも筋肉は良いです!」


 何を言っているのか自分でもわからない。


 でも確かなのは、私はとっくにこの面倒で素直じゃない男のことを、嫌いではなくなっていたということだ。


 むしろたぶん、かなり好きだ。




 ◇◆◇




 それから王宮へ戻った私は、今度は『婚約者候補』ではなく『最強の管理者』として君臨した。


「リヒト様、本日の決裁件数、まだ2件足りません」


「あと10分!」


「ではスクワット30回追加で」


「鬼か!」


 執務室では、リヒト様が必死にペンを走らせている。

 その横で私は、優雅にプロテイン入り紅茶を飲みながら、彼の二の腕の動きを鑑賞していた。


「終わったら定例会議がありますからね」


「……筋肉触診会議のことか?」


「ええ。重要会議です」


 彼がにやりと笑う。


「その会議のためなら、どんな書類も片づけてみせる」


「その意欲は高く評価します」


 ちなみにユリア嬢は、隣国の第二王子に拾われて観光大使になった。

 毎日パンケーキを食べて笑顔を振りまき、ものすごく幸せそうらしい。

 適材適所というやつである。


 そして私とリヒト様が新たに結んだ『共同経営契約兼婚姻契約書』の特約事項には、こう記されている。


『夫は妻の指示を最優先し、最高の肉体美を維持すること』

『妻は夫の努力を適切に評価し、必要に応じて筋肉触診を行うこと』


 ブラック職場は、経営権を握ればホワイト職場になる。


 私はその真理を、身をもって知った。


 今日もまた、書類と筋肉に囲まれた、最高にやりがいのある業務が始まるのだった。

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