王国公認『婚約破棄専門の悪役令嬢』の私、理不尽冤罪制度の全てを暴いたら廃止決定~腐敗貴族ざまぁで王太子に一途溺愛される~
「本日も婚約破棄劇の悪役を務めます。これは王国公認の公務です」
私の名前はエリザベート・ラインベルク。
肩書きは、公爵令嬢。
そしてこの国でただひとりの、「王国公認制度悪役令嬢」にして、「公式婚約破棄担当官」である。
……自分で言っておいてなんだけれど、本気でひどい肩書きだと思う。
「エリー、顔が死んでるよ」
背後からひょいと伸びてきた手が、私のカールした金髪をそっとすくい上げる。
振り向けば、やわらかな翡翠色の瞳でこちらを覗き込む青年。
この国の第1王子にして王太子、アルノルト・フォン・レグナス殿下。
今から公衆の面前で私を盛大に捨てる予定の張本人だ。
「殿下。顔が生き生きしていようが腐っていようが、王立大劇場の幕は上がります。仕事ですから」
「うん。でも、エリーが嫌な仕事をしているのは、やっぱり好きじゃないな」
そんなことを言うなら、この制度が立ち上がる前に止めてほしかった。
……と、毎回心の中で毒づいているのだけれど、実際には彼にもどうにもできない事情がある。
なぜなら、このふざけた制度がなければ、王都はとうの昔に魔物の巣窟と化していたはずなのだから。
◆
この王国には、生まれつきの厄介な体質がある。
人々の負の感情が、一定量を超えてひとところに集まると、それが瘴気となって溢れ出し、魔物を生み出す。
税が高い。
貴族は好き勝手している。
王族は贅沢ばかり。
真面目に働いても暮らしが楽にならない。
そんな不満、怒り、嫉妬、絶望が、目に見えない黒い川になって王都のあちこちを流れている。
瘴気が濃くなりすぎると、城下の外れにある森や、人目につかない水路沿い、荒れた教会跡なんかに、魔物がぽこぽこと生まれる。
昔は、文字通りぽこぽこ生まれていた。
農夫が畑に向かう途中で、瘴気から生まれた狼に食いちぎられたとか、
旅商人が橋を渡ろうとして、川面から現れた黒い手に引きずり込まれたとか、
そんな話はいくらでも残っている。
だからこそ必要になった。
「王国公認スケープゴート」。
つまり、私である。
国民の不満を、全部「エリザベート・ラインベルクという最悪な悪役令嬢」に向けてしまえば、瘴気は私ひとりのところに集中し、私の体に刻まれた聖印によって浄化される。
その仕組みを制度として、演劇仕立てで見せるのが「婚約破棄劇」だ。
王立大劇場に選抜された民衆を招き、煌びやかな舞台の上で、公爵令嬢が公開処刑のごとく糾弾される。
王子が高らかに叫び、
とりまき令嬢が泣き崩れ、
平民出の聖女が震える声で真実とやらを訴える。
そして観客たちは、心の底からこう思うのだ。
「あいつが全部悪いんだ」
「悪いのはあの女であって、王子様は騙されていただけなんだ」
「税が重いのも、あの悪役令嬢が裏で何かやっているからに違いない」
矛先のない怒りが、きれいに、私にだけ向かう。
私は聖印に守られている。
だから、瘴気が集中しても死なない。
肉体的な傷も、限度を超えれば聖印が代償を引き受けてくれる。
ぎりぎり壊れない程度に、憎まれる。
……頭では理解している。
理解しているけれど、心が納得しているかと言われれば、答えは沈黙する。
それでも私は、この制度の初代担当官だ。
選ばれた日、誇らしいと思った。
幼い頃から教本でしか知らなかった「魔物の時代」が、二度と来ないようにする役目。
王都の子どもたちが、外に出た瞬間に命を落とすことのない未来。
それを守るためなら、嫌われ役くらい喜んでやると、胸を張って受けた。
その選択を後悔しているかと問われたら……少しだけ。
街で、泣きながら石を投げてきた男の子がいた。
外套の裾に泥が跳ねるくらい近くから、小さな手で投げた石。
頬に当たって、じんと痛んで、数秒遅れて血が滲んだ。
「お前が悪いんだ! 父ちゃんが仕事なくなったのはお前のせいだ!」
あの子の叫びを思い出すたび、胸のどこかがきゅっと痛む。
あの子に向かうべき怒りを、自分が引き受けていると、分かってはいるのだけれど。
◆
「エリー」
舞台袖。幕の向こうに、今日の観客たちのざわめきが遠く響いている。
豪奢なシャンデリアの光が、厚い緞帳の隙間から細く漏れ、床に金色の筋を描いている。
その光の中で、アルノルト殿下がいつものように私の手を取った。
「本日の台本、確認した?」
「確認しました。いつも通り、公衆の面前で婚約破棄。罪状は、高額なドレス代の横領、王妃教育の場での平民差別、公金を使った豪華お茶会への浪費。ついでに聖女候補へのいじめ。……相変わらず盛りだくさんですね」
「全部冤罪だけどね」
「冤罪なのは、殿下と私と、脚本担当官くらいしか知りません」
だからこそ制度は成立している。
悪役が心から「自分は悪くない」と知っているからこそ、折れずに立ち続けられる。
……と、王宮付きの聖職者は、もっともらしく言う。
「今日で、終わらせるつもりだよ」
さらりと告げられたその一言に、思考が止まる。
「……え」
「王国公認悪役令嬢制度。今日の公演で、廃止する。父上も枢機卿も、全部話をつけた」
胸の奥で、何かが跳ねた。
鼓動が一瞬うるさくなり、舞台のざわめきが遠く霞む。
「で、でも。それは……」
「限界なんだ」
珍しく、殿下の声が苦かった。
「制度としては優秀だったよ。数値だけ見ればね。魔物の発生数はピーク時の三分の一以下。瘴気濃度も管理できる範囲に収まった。けど」
殿下は、私の指先をそっと撫でる。
そこには、白い肌に複雑な紋様を描く聖印が刻まれている。
まるで、見えない鎖のように。
「君が笑わない。
それが、この制度の寿命だ」
彼は、こっそり記録を取っていたらしい。
婚約破棄公演の日数、王都の瘴気の変動、私の体調の変化、笑った回数まで。
「……笑っているつもりでしたが」
「それは、仕事用の笑顔。王太子妃候補としての完璧な仮面。僕が見たいのは、もっとどうしようもなく崩れた顔」
「殿下、それはそれでひどくありません?」
少しだけ笑ってしまう自分が悔しい。
「瘴気の処理は、別の方法を見つけた。聖堂と魔導士団が共同で、王都全域を覆う結界を張る計画が進んでいる。コストはかかるし、貴族たちは財布を握りしめて悲鳴を上げたけど……君ひとりに全部押しつけるより、ずっと健全だ」
「……本当に?」
「嘘ついて、君を泣かせるのは好きじゃない」
殿下は軽く笑う。
ただし、舞台用の無垢な王子の笑顔ではなく、私だけが知っている、年相応の青年らしい表情で。
「だから今日の婚約破棄は、ラスト公演。
それが終わったら、君に石が飛ぶことは二度とない」
胸の奥が熱くなり、視界がわずかに滲んだ。
慌ててまぶたを閉じると、アルノルト殿下が、ほんの少しだけ声を潜める。
「その代わり、ちょっとだけ台本を変えてある」
「台本を……?」
殿下がこっそり台本をいじるのは、昔から時々あった。
最後の一文だけ、「悪役令嬢を追放する」から「辺境送りにする」に変えて、こっそり護衛を厚くしていたり、私に有利な証拠が一枚だけ提示されるようにしたり。
けれど「今日は」の声音には、もっと大きな変更が含まれていると告げる響きがあった。
その時、扉の向こうから、呼び出しの声が響く。
「殿下、エリザベート様。舞台の準備が整いました!」
魔導拡声器を通して響く、劇場監督の張りのある声。
ざわめきがいっそう大きくなり、観客席の空気がじりじりと熱を帯びていくのが、幕越しに伝わる。
アルノルト殿下が、私の手を強く握った。
「大丈夫。全部、僕に任せて」
その笑顔が、ひどく頼もしく見えた。
不安も、期待も、ぐちゃぐちゃになって胸の中で渦を巻く。
私は、公爵令嬢の仮面をもう一度かぶり直した。
◆
大理石の床に、私のヒールが高く音を立てる。
王立大劇場の中央。
高くそびえる天井、豪奢なシャンデリア、金と紅の緞帳、深紅の絨毯。
そこに並ぶ観客たちの視線が、すべてこちらへと突き刺さる。
毎度のことながら、壮観なまでの敵意だ。
「エリザベート・ラインベルク!」
アルノルト殿下のよく通る声が、魔道具によって増幅され、劇場の隅々まで響き渡る。
瞬間、空気が張り詰めた。
「今日この場をもって、我はおまえとの婚約を破棄する!」
歓声と罵声が入り混じる。
私を指差し、罵倒の言葉を叫ぶ者。
ほくそ笑むようにうなずく貴族。
膝の上でこぶしを握りしめる娘。
この空気にも、すっかり慣れてしまった自分が、少し嫌になる。
「おまえは王子妃にふさわしくない。
豪奢なドレスに金を使い、平民を見下し、聖女候補を虐げる、卑劣な悪役令嬢だ!」
「ええ、その通りですわ」
私は優雅に微笑み、いつものセリフを返した。
このやりとりも、もう何十回目になるだろう。
中には、台本を覚えこんで一緒に口ずさむ観客もいるくらいだ。
悪趣味な人気エンタメ、と言われたこともある。
人の負の感情を浄化する儀式が、いつの間にか娯楽になってしまったのだ。
ここまでは、台本通り。
「だが、今日は少し趣向を変えよう」
アルノルト殿下が、そこで口にした一言は、台本には存在しない。
観客席にざわめきが走る。
舞台袖の方から、紙をめくる音や、小さな悲鳴が聞こえた。
担当官たちが青ざめている顔が目に浮かぶ。
「我は、真実を語る」
殿下の視線が、民衆へと向けられる。
舞台用の、慈悲深い王子の仮面はもうない。
そこにあるのは、一国の王太子としての静かな決意。
嫌な予感と、期待と、恐怖。
胸が忙しい。
「この婚約破棄劇は、王国が作り出した制度だ。
民の不満をひとりに集め、瘴気化するのを防ぐための、茶番である」
空気が、一瞬で凍りついた。
ざわめきすら消え、劇場全体が沈黙に支配される。
誰もが、今の言葉が本当に聞こえたのかどうか、理解できずに固まっている。
殿下、それを言ってしまっては制度そのものが……と、私は心の中で頭を抱える。
「民の不満の矛先を、たったひとりの令嬢に向けることで、王は責任から逃れてきた。
それが、この制度の正体だ」
先ほどまで嬉々として罵声を飛ばしていた人々の表情が、一斉にひきつる。
観客席の最前列に座る大臣たちが、慌てて立ち上がった。
「で、殿下! そのような話を公の場で語るのは……!」
「黙れ、ランディル伯」
アルノルト殿下の冷たい声が、伯爵の言葉を切り捨てる。
普段なら「おおらかな若き王子」の仮面で冗談めかして流す場面だ。
しかし今日は、甘さの一滴も含まれていなかった。
「王太子として宣言する。
本日、この瞬間をもって、王国公認悪役令嬢制度を廃止する」
劇場が揺れた。
悲鳴にも近いどよめきが、あちこちから上がる。
「な、なんだと……!」
「じゃ、じゃあ今までの公演は……!」
「騙されていたのか?」
人々の視線が、一斉に私へと向かう。
憎しみと蔑みだけではない。
戸惑い、動揺、怒りの行き先を失った困惑、そこにごくわずかな恐れと、申し訳なさの影も見え隠れする。
受け止め慣れているはずの視線が、今日はひどく重く感じられた。
「そして、もうひとつ真実を告げよう」
アルノルト殿下の声が、私を指し示す。
「エリザベート・ラインベルクは、何ひとつ罪を犯していない。
彼女は公金を横領していないし、聖女候補をいじめてもいない。
むしろ……」
殿下は、そこで一拍置き、わざとらしく微笑んだ。
「むしろ、いつも律儀に台本を守る、真面目で優しい、どこに出しても恥ずかしくない婚約者だ」
「ちょ、ちょっと殿下」
思わず声が裏返る。
どうして公衆の面前で全力で褒めてくるのだろう、この人は。
観客席の最前列、老獪な伯爵や公爵たちが目を丸くしている。
さっきまで私を罵っていた婦人が口をぱくぱくさせている。
そこへ。
「エリザベート様が優しいわけない! 私、いじめられたんです!」
甲高い声が、劇場の空気を切り裂いた。
白いドレスをひるがえし、ひとりの少女が前に躍り出る。
今日の公演のメインゲスト。
平民出の聖女候補、ミリア・ブランシュ。
金髪碧眼の、絵に描いたように愛らしい少女。
その瞳を今は涙で潤ませ、劇場全体に響くように叫んでいた。
「私の髪を引っ張って、聖女のくせに王子に近づくなって言ったくせに!」
……言っていない。
私は、静かにため息をついた。
「言っていませんわ」
「嘘です!」
彼女はきっぱりと言い切る。
観客席の何人かが「やっぱり」「見ろ」といった顔をする。
「嘘ではありません。
私はあなたに、こう言いました」
私は記憶を辿る。
聖女候補選定の日。
疲れ果てた顔で聖堂を出てきたミリアに声をかけた、あの日。
「聖女候補として、殿下と二人きりで会うなら、護衛と侍女をつけるようにと。
あなたの身を守るために」
「……っ」
ミリアの表情が固まる。
あの時、彼女は、王宮の礼法も、貴族社会も何も知らなかった。
ただ、自分が選ばれたことと、王子と話ができることだけに浮かれていた。
「あなたは殿下のことを、王子ではなく、ただの恋愛相手だと思っている。
でも、殿下は王太子であり、政治の中心人物です。
聖女候補といえど、平民の娘が護衛もつけずに接近すれば、利用しようとする者が必ず現れる。
もしあなたが誘拐でもされたら、誰が困るか、理解なさっていない」
丁寧に、できる限り柔らかく伝えたつもりだった。
彼女が傷つかないよう、余計な言い方を避けたつもりでもいた。
結果がこれである。
「それを、あなたは勝手に『いじめられた』と解釈した。
そしてその話を、脚色して台本に加えたのは……どなたでしょうね?」
私は、ゆっくりと視線を客席最前列のひとりに向ける。
国王の側に座る、年老いた枢機卿。
この制度の運用責任者、トラヴィス・エルム。
「王国公認悪役令嬢制度の台本を管理し、修正し、演出を承認してきたのは、あなた。
ミリア様の訴えを、そのまま、あるいは少し盛りすぎた形で公演用の脚本にしたのも、あなたですわ」
枢機卿が、目に見えて肩を震わせる。
「な、何の証拠がある!」
「証拠なら、殿下が今日、持ってきてくださっているはずですわ」
そう告げると、アルノルト殿下はにやりと笑って見せた。
「エリー、僕の見せ場を奪わないで」
「殿下の語りは長くなりがちですので、早めに締めていただけると助かります」
軽口を交わしながらも、殿下は懐から分厚い書類の束を取り出す。
重ねられた羊皮紙には、うっすらと魔力の光がにじんでいた。
「ここに、この制度のすべての台本と、その修正履歴がある。
魔導記録だから、書き換えは不可能。
そして、各シーンの提案者と承認者の名前が、すべて残っている」
殿下が魔道具に書類をかざすと、空中に大きな文字が浮かび上がった。
提案者:ミリア・ブランシュ
承認者:枢機卿トラヴィス・エルム
くっきりとはっきりと。
逃げようのない、真実の記録が、劇場の空中にさらけ出される。
「ミリア嬢。
君は、自分が『かわいそうな平民聖女』でいるために、エリザベートを悪役にした。
それが事実だ」
「だって……だって、そうしないと、私の存在価値が……!」
ミリアの叫びには、歪んだ必死さがあった。
かつて、何人もの貴族令嬢が口にしていた言葉と、どこか似ている。
皆、役割に縛られている。
貴族は貴族らしく、
平民は平民らしく、
聖女は聖女らしく、
悪役令嬢は悪役らしく。
「君の価値は、誰かを悪役にすることでしか測れないものではない」
アルノルト殿下の声は、厳しくも優しかった。
「でも、この制度が君にそう教えてしまったのなら、その責任は制度を作った側にある。
だから、終わらせる」
殿下の言葉に、私は小さく息を呑んだ。
終わらせる、とこんなにもはっきり。
◆
「……殿下」
私はそっと、殿下の袖を引く。
「ここまで暴けば、王家もただでは済みませんわ」
「分かっているよ」
それでも、殿下の目は揺らがない。
舞台の上で、何百もの視線を浴びながら、真っ直ぐに前を見ている。
「君にだけ役割を押しつけて、僕たちは安全なところにいる。
そんな王家に、未来はない」
その横顔が、眩しくて、少しだけ腹立たしい。
どうしていつも、私が覚悟を決めた時に限って、この人はさらに先へ行ってしまうのだろう。
「責任は、王太子として僕が負う。
だから、君は君の望むことを言って」
「望むこと、ですか?」
「今まで、一度も言わせてあげられなかっただろう。
『悪役令嬢』ではない、君自身の言葉を」
胸の奥に、ずっと沈めていた言葉がある。
何度も喉まで上がってきて、そのたびに台本のセリフで押し流してきた。
「私は悪役令嬢ですから」
「この国のためですから」
「殿下のご決断は正しいですから」
そんな言葉で、全部ごまかしてきた。
でも、もう制度は終わる。
終わるのなら、せめて最後くらいは。
私は深く息を吸い込み、観客席を見渡した。
「……私は、悪役令嬢ではございません」
静かな声だったのに、不思議と劇場の隅々まで届いた。
「私は、王国のために作られた台本を、律儀に演じていただけです。
皆さまが、王家に直接怒りを向けなくて済むように。
その怒りが瘴気に変わり、魔物を生み出さないように」
最前列の老人が、目を見開く。
中段の若い娘が口を押さえる。
上段の兵士が眉をひそめる。
「憎しみを向けられるのは、正直、つらかったです。
石を投げられれば痛いですし、子どもたちに怖がられるのも、とても悲しかった。
お茶会の招待状が次々と断られた時は、自分の存在が消えてしまうようで、夜ひとりで泣いたこともあります」
小さな笑いが漏れる。
それは嘲笑ではなく、苦笑に近かった。
「けれど、王都の外に魔物が現れない日は、少しだけ誇らしかった。
私が悪役令嬢でいるかぎり、誰かが死なずに済むなら、それでいいと、本気で思っていました」
アルノルト殿下が、小さく息を呑む。
その気配が伝わってきて、なぜか私の方がどきどきしてしまう。
「けれど、殿下は、そんな私の役目を、今日限りで終わらせると仰いました。
ならば私も、今度こそ、自分のためにひとつだけ、願いを言ってもよろしいでしょうか」
殿下が、真剣な目でうなずく。
「もちろん」
「殿下。
どうか、私に……」
喉が震える。
何度も台本通りに泣き叫んできた口が、たったひとつの本心を言うのに、こんなにも手間取るとは。
逃げたくない。
ここで逃げたら、きっと一生後悔する。
「どうか、私に、殿下の婚約者でいることを続けさせてください」
劇場が、しんと静まり返る。
先ほどまでのざわめきが嘘のように消えた。
「制度ではなく、王国公認でもなく。
ただ、エリザベート・ラインベルクひとりの願いとして。
殿下を、お慕いしたままでいさせてください」
頬が熱い。
けれど、目はそらさない。
アルノルト殿下は、一瞬驚いた顔をしたあとで、ゆっくりと口元を綻ばせた。
「……それは、ずいぶんずるいお願いだね、エリー」
「す、すみません」
「断れるわけ、ないだろう」
殿下は私の手を取り、その甲へとそっと唇を触れさせる。
「王太子アルノルト・フォン・レグナスは、ここに宣言する。
制度としての婚約は廃止する。
だが、個人として、エリザベート・ラインベルクとの婚約を改めて結び直す」
数秒の静寂のあと、歓声が爆発した。
「エリザベート様ー!」
「ごめんなさい! 今までひどいこと言って!」
「ありがとう! 魔物が出なかったの、あんたのおかげだったんだな!」
泣きながら叫ぶ声も混ざっている。
私は慌てて首を振った。
「いえ、皆さまの感情は、王国を守るために必要なものでした。
どうか、そんなに謝らないでくださいませ」
それでも、胸のどこかで、少しだけ救われた気がした。
◆
その後の展開は、なかなかに激しかった。
制度を利用して、都合の悪い貴族や商人を悪役に仕立て上げようとしていた証拠が、次々と暴かれた。
私以外にも、第二第三のスケープゴート候補を水面下で用意しようとしていた文書まで見つかり、そのたびに大臣たちの顔色が変わる。
トラヴィス枢機卿は、聖職を剥奪され、辺境の小さな修道院行きとなった。
それでも処刑されなかったのは、彼なりに本気で「王国の平和」を願っていたことが、記録から読み取れたからだという。
ミリアは聖女候補の資格を取り上げられ、一度平民の寮へ戻されて、基礎学問と礼法からやり直すことになった。
最後まで私に向かって、「絶対に幸せになってやるんだから!」と叫んでいたあたり、根性だけは認めざるを得ない。
王都の外周には、新しい結界が張られた。
魔導士団と聖堂の共同開発した瘴気浄化陣が、見えない網のように街を覆う。
定期的に王都中の教会で鐘が鳴り、そのたびに瘴気が薄くなるのが、敏感な人には分かるらしい。
税制も見直された。
王族と貴族の贅沢には上限が設けられ、その分が結界維持費に回される。
さすがに最初は反発があったが、「悪役令嬢ひとりに払わせていた代償を、今度は皆で払う番だ」という殿下の一言で、多くの者が口をつぐんだ。
そして私はというと。
「エリー、今日のお茶会のドレス、すごく似合ってる」
「殿下が選んだものですもの。似合わなかったら、殿下のセンスが疑われますわ」
「それは困るなあ。じゃあ、もっと似合うって言って」
「……とても、似合っていると思います」
「うん、最高」
こんなふうに、毎日殿下に甘やかされていた。
婚約破棄制度が消えた代わりに、私の日常には、妙に甘くて落ち着かない時間が増えた。
城下町を歩けば、昔石を投げてきた少年が、真っ赤な顔で頭を下げてくる。
「ご、ごめん! あの時、ひどいこと言った!」
「もう済んだことですわ。あなたがあの時、怒ってくれたおかげで、瘴気が私の方に流れてきてくれたのですもの」
そう言うと、少年はぽかんとした後、照れくさそうに笑った。
「今度、うちの畑のイチゴ、持ってくる!」
そのイチゴが、驚くほど甘かったのは、また別の話。
王宮の廊下では、以前私を避けていた侍女たちが、おずおずと話しかけてくる。
「エリザベート様、髪飾り、お似合いですね」
「その紅茶、お好きでしたよね。こっそり茶葉を多めにしておきました」
そうやって、少しずつ、少しずつ。
「悪役令嬢」という役割の外側で、私自身としてのつながりが増えていった。
◆
「殿下。
婚約破棄の制度がなくなっても、国民の不満は消えませんわ」
王宮のバルコニーから、夕暮れの王都を眺めながら私は言う。
屋根の影が長く伸び、石畳が茜色に染まり、教会の鐘の音が遠くで響いていた。
「今度はちゃんと、向き合ってくださいませね」
「もちろん」
アルノルト殿下は、私の肩を抱き寄せる。
かつては人前で触れられるだけで「さすが悪役令嬢、王子を誘惑している」などと言われていたけれど、今はただ、自然な仕草として受け止められる。
「これからは、君と二人で、全部受け止めるよ。
僕の横には、常に君がいてくれるんだろう?」
「……婚約破棄担当官としてではなく、たったひとりの婚約者としてなら」
「うん。
世界でひとりだけの、僕の悪役令嬢として」
「それ、もう悪役ではありませんわ」
くすりと笑い合う。
ふと、城下町の方を見ると、子どもたちが楽しそうに走り回っているのが見えた。
あの日、泣きながら石を投げてきた子も、今は友達と笑い合っている。
役割に縛られていた日々は、もう過去だ。
これから織り込んでいく物語は、台本ではなく、私たち二人だけのもの。
婚約破棄劇の幕は、静かに、しかし確かに降りた。
◆
それから数年。
王立大劇場では、新しい演目が人気を博していた。
題して「感情の劇場」。
かつて婚約破棄劇が行われていた場所で、今は市民たちが自分の不満や不安を、役者に託して舞台上で語らせるのだ。
「税が高いと感じる農民」
「出世できない兵士」
「嫁ぎ先で肩身の狭い若奥様」
様々な立場の人々の声を台本にし、それを演者が演じる。
王宮の役人たちも観客として参加し、終演後には意見交換の場が設けられる。
瘴気は、感情を押し隠すことで溜まる。
ならば、表に出す場を増やせばいい。
そんな発想で始まった取り組みの中心に、なぜか私の名前がある。
「エリザベート様、今日の新作台本はこちらです」
台本を抱えた若い劇作家が、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「またずいぶん赤裸々ですね……この商人ギルド長、モデルが実在しませんわね?」
「だ、大丈夫です! 少しだけ脚色してますから!」
「少し」の基準は人によって違うということを、私は制度悪役令嬢時代に嫌というほど学んだ。
「後で内容確認いたしますわね。感情を吐き出させるのは結構ですが、人ひとりを丸ごと悪者にしてはいけません」
「は、はい!」
そんなふうに、かつて私を責め立てるために使われていた劇場が、今は人々の本音と本音をつなぐ場所になっている。
少しだけくすぐったい。
少しだけ誇らしい。
そして何より、その舞台を見守る私を、誰ももう「悪役令嬢」とは呼ばない。
◆
ある日の夕暮れ。
王宮の中庭で、私はアルノルト殿下と向かい合っていた。
周囲には誰もいない。
白い花が揺れ、噴水の水音が静かに響いている。
「エリー」
「何でしょう、殿下」
殿下の表情が、妙に真剣だった。
でも、その瞳の奥には、わずかな悪戯っぽさが潜んでいる。
嫌な予感がした。
「僕は、君との婚約を破棄する」
思わず噴き出しかけた。
「殿下。
ここ数年、一度もその台詞を聞いていなかったので、少し懐かしいですね」
「懐かしがってくれるとは思わなかったな」
「それで、今回はどのような罪状でしょうか。紅茶の淹れ方が好みでない、とか?」
「ううん。
僕が君を、愛しすぎている罪かな」
「それは殿下の罪であって、私の罪ではありませんわ」
変な汗が出てくる。
この人は時々、平然と恥ずかしいことを言う。
「制度としての婚約を破棄したあの日から、ずっと考えていたんだ。
君を、役割抜きで、ただのひとりの女性として選び直す方法を」
「……」
「だから、形式上の話だけど、僕は今日、もう一度君に求婚する」
アルノルト殿下が、片膝をついた。
真面目な顔で。
周囲に誰もいないのを確認してからであるあたり、羞恥心はあるらしい。
「エリザベート・ラインベルク。
僕は君との婚約を破棄し、代わりに、一生ものの契約を結びたい」
「……それは、婚約ではなく」
「うん。
結婚だね」
殿下が差し出した小箱の中には、細い指輪がひとつ。
中心に、小さな透明な石が埋め込まれている。
宝石に刻まれた微細な魔法陣が、うっすらと光る。
それは、かつて私の皮膚に刻まれていた聖印と、同じ紋様を、別の形に転写したものだった。
「これは……」
「君の聖印の写しだよ。
君ひとりにだけ負わせていた役割の象徴を、今度は二人の契約の証に変える。
君が一人で抱えていた痛みも誇りも、これからは僕と分け合うという印だ」
そんなことを言われて、断れる人間がこの世にいるだろうか。
胸の奥が熱くなり、視界が霞む。
涙でぼやけた中庭が、陽炎みたいに揺れて見えた。
「……殿下。
何度も何度も、私を婚約破棄しておいて、今さらですわね」
「ごめん」
「でも」
私は、そっと右手を差し出す。
「何度でも結び直していただけるなら、悪くありません」
アルノルト殿下の指が、私の薬指に指輪を通す。
指輪が肌に触れた瞬間、微かな温もりが広がった。
それは、かつて聖印が瘴気を浄化した時の、痛みを伴う熱とは違う。
ただ、優しく心臓の鼓動に寄り添うような温かさ。
「これから先、もし喧嘩して、君が『殿下なんて嫌いです』って言ったら、その時はまた、形式上の婚約破棄をしよう」
「……」
「そして、仲直りしたら、何度でも何度でも、君に求婚する。
世界で一番忙しい婚約破棄と婚約結び直しを、二人で記録更新していこう」
とうとう笑ってしまった。
「それはさすがに、記録に残らなくて結構ですわ」
「じゃあ、僕たちの心の中だけでいい」
アルノルト殿下が立ち上がり、そっと私を抱きしめる。
かつて瘴気を集めていた聖印の場所に、温かな手のひらが重なった。
その瞬間、どこか遠くで、子どもの笑い声がした気がした。
あの日、石を投げてきた少年の声かもしれないし、違う誰かの声かもしれない。
いずれにせよ、もう二度と、誰かが魔物に喰われて泣くことがありませんように。
もう二度と、誰かひとりに役割を押しつけて、心をすり減らさせることがありませんように。
そう願いながら、私はそっと目を閉じた。
かつて悪役令嬢と呼ばれた女と、
かつて公務として婚約破棄を繰り返した王太子。
二人の物語は、ようやく台本を手放した。
これから先は、何度喧嘩して、何度別れそうになって、何度婚約破棄を口にしてもかまわない。
そのたびに、何度でも結び直していけるのなら。
私の世界に、もう王立大劇場の大仰な幕は必要ない。
必要なのは、あなたと私が並んで立つ、小さな扉と、その向こうに続く、誰にも台本を書かれていない未来だけだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
「役割として憎まれる」から「一人の人間として選び直される」までを書いた物語でした。
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