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王国公認『婚約破棄専門の悪役令嬢』の私、理不尽冤罪制度の全てを暴いたら廃止決定~腐敗貴族ざまぁで王太子に一途溺愛される~

作者: 夢見叶
掲載日:2025/12/06

「本日も婚約破棄劇の悪役を務めます。これは王国公認の公務です」


私の名前はエリザベート・ラインベルク。

肩書きは、公爵令嬢。

そしてこの国でただひとりの、「王国公認制度悪役令嬢」にして、「公式婚約破棄担当官」である。


……自分で言っておいてなんだけれど、本気でひどい肩書きだと思う。


「エリー、顔が死んでるよ」


背後からひょいと伸びてきた手が、私のカールした金髪をそっとすくい上げる。

振り向けば、やわらかな翡翠色の瞳でこちらを覗き込む青年。

この国の第1王子にして王太子、アルノルト・フォン・レグナス殿下。

今から公衆の面前で私を盛大に捨てる予定の張本人だ。


「殿下。顔が生き生きしていようが腐っていようが、王立大劇場の幕は上がります。仕事ですから」

「うん。でも、エリーが嫌な仕事をしているのは、やっぱり好きじゃないな」


そんなことを言うなら、この制度が立ち上がる前に止めてほしかった。

……と、毎回心の中で毒づいているのだけれど、実際には彼にもどうにもできない事情がある。


なぜなら、このふざけた制度がなければ、王都はとうの昔に魔物の巣窟と化していたはずなのだから。



この王国には、生まれつきの厄介な体質がある。


人々の負の感情が、一定量を超えてひとところに集まると、それが瘴気となって溢れ出し、魔物を生み出す。

税が高い。

貴族は好き勝手している。

王族は贅沢ばかり。

真面目に働いても暮らしが楽にならない。


そんな不満、怒り、嫉妬、絶望が、目に見えない黒い川になって王都のあちこちを流れている。

瘴気が濃くなりすぎると、城下の外れにある森や、人目につかない水路沿い、荒れた教会跡なんかに、魔物がぽこぽこと生まれる。


昔は、文字通りぽこぽこ生まれていた。


農夫が畑に向かう途中で、瘴気から生まれた狼に食いちぎられたとか、

旅商人が橋を渡ろうとして、川面から現れた黒い手に引きずり込まれたとか、

そんな話はいくらでも残っている。


だからこそ必要になった。


「王国公認スケープゴート」。


つまり、私である。


国民の不満を、全部「エリザベート・ラインベルクという最悪な悪役令嬢」に向けてしまえば、瘴気は私ひとりのところに集中し、私の体に刻まれた聖印によって浄化される。

その仕組みを制度として、演劇仕立てで見せるのが「婚約破棄劇」だ。


王立大劇場に選抜された民衆を招き、煌びやかな舞台の上で、公爵令嬢が公開処刑のごとく糾弾される。

王子が高らかに叫び、

とりまき令嬢が泣き崩れ、

平民出の聖女が震える声で真実とやらを訴える。


そして観客たちは、心の底からこう思うのだ。


「あいつが全部悪いんだ」

「悪いのはあの女であって、王子様は騙されていただけなんだ」

「税が重いのも、あの悪役令嬢が裏で何かやっているからに違いない」


矛先のない怒りが、きれいに、私にだけ向かう。

私は聖印に守られている。

だから、瘴気が集中しても死なない。

肉体的な傷も、限度を超えれば聖印が代償を引き受けてくれる。


ぎりぎり壊れない程度に、憎まれる。


……頭では理解している。

理解しているけれど、心が納得しているかと言われれば、答えは沈黙する。


それでも私は、この制度の初代担当官だ。


選ばれた日、誇らしいと思った。

幼い頃から教本でしか知らなかった「魔物の時代」が、二度と来ないようにする役目。

王都の子どもたちが、外に出た瞬間に命を落とすことのない未来。

それを守るためなら、嫌われ役くらい喜んでやると、胸を張って受けた。


その選択を後悔しているかと問われたら……少しだけ。


街で、泣きながら石を投げてきた男の子がいた。

外套の裾に泥が跳ねるくらい近くから、小さな手で投げた石。

頬に当たって、じんと痛んで、数秒遅れて血が滲んだ。


「お前が悪いんだ! 父ちゃんが仕事なくなったのはお前のせいだ!」


あの子の叫びを思い出すたび、胸のどこかがきゅっと痛む。

あの子に向かうべき怒りを、自分が引き受けていると、分かってはいるのだけれど。



「エリー」


舞台袖。幕の向こうに、今日の観客たちのざわめきが遠く響いている。

豪奢なシャンデリアの光が、厚い緞帳の隙間から細く漏れ、床に金色の筋を描いている。


その光の中で、アルノルト殿下がいつものように私の手を取った。


「本日の台本、確認した?」

「確認しました。いつも通り、公衆の面前で婚約破棄。罪状は、高額なドレス代の横領、王妃教育の場での平民差別、公金を使った豪華お茶会への浪費。ついでに聖女候補へのいじめ。……相変わらず盛りだくさんですね」

「全部冤罪だけどね」

「冤罪なのは、殿下と私と、脚本担当官くらいしか知りません」


だからこそ制度は成立している。

悪役が心から「自分は悪くない」と知っているからこそ、折れずに立ち続けられる。


……と、王宮付きの聖職者は、もっともらしく言う。


「今日で、終わらせるつもりだよ」


さらりと告げられたその一言に、思考が止まる。


「……え」

「王国公認悪役令嬢制度。今日の公演で、廃止する。父上も枢機卿も、全部話をつけた」


胸の奥で、何かが跳ねた。

鼓動が一瞬うるさくなり、舞台のざわめきが遠く霞む。


「で、でも。それは……」

「限界なんだ」


珍しく、殿下の声が苦かった。


「制度としては優秀だったよ。数値だけ見ればね。魔物の発生数はピーク時の三分の一以下。瘴気濃度も管理できる範囲に収まった。けど」


殿下は、私の指先をそっと撫でる。

そこには、白い肌に複雑な紋様を描く聖印が刻まれている。

まるで、見えない鎖のように。


「君が笑わない。

それが、この制度の寿命だ」


彼は、こっそり記録を取っていたらしい。

婚約破棄公演の日数、王都の瘴気の変動、私の体調の変化、笑った回数まで。


「……笑っているつもりでしたが」

「それは、仕事用の笑顔。王太子妃候補としての完璧な仮面。僕が見たいのは、もっとどうしようもなく崩れた顔」

「殿下、それはそれでひどくありません?」


少しだけ笑ってしまう自分が悔しい。


「瘴気の処理は、別の方法を見つけた。聖堂と魔導士団が共同で、王都全域を覆う結界を張る計画が進んでいる。コストはかかるし、貴族たちは財布を握りしめて悲鳴を上げたけど……君ひとりに全部押しつけるより、ずっと健全だ」

「……本当に?」

「嘘ついて、君を泣かせるのは好きじゃない」


殿下は軽く笑う。

ただし、舞台用の無垢な王子の笑顔ではなく、私だけが知っている、年相応の青年らしい表情で。


「だから今日の婚約破棄は、ラスト公演。

それが終わったら、君に石が飛ぶことは二度とない」


胸の奥が熱くなり、視界がわずかに滲んだ。

慌ててまぶたを閉じると、アルノルト殿下が、ほんの少しだけ声を潜める。


「その代わり、ちょっとだけ台本を変えてある」

「台本を……?」


殿下がこっそり台本をいじるのは、昔から時々あった。

最後の一文だけ、「悪役令嬢を追放する」から「辺境送りにする」に変えて、こっそり護衛を厚くしていたり、私に有利な証拠が一枚だけ提示されるようにしたり。


けれど「今日は」の声音には、もっと大きな変更が含まれていると告げる響きがあった。


その時、扉の向こうから、呼び出しの声が響く。


「殿下、エリザベート様。舞台の準備が整いました!」


魔導拡声器を通して響く、劇場監督の張りのある声。

ざわめきがいっそう大きくなり、観客席の空気がじりじりと熱を帯びていくのが、幕越しに伝わる。


アルノルト殿下が、私の手を強く握った。


「大丈夫。全部、僕に任せて」


その笑顔が、ひどく頼もしく見えた。

不安も、期待も、ぐちゃぐちゃになって胸の中で渦を巻く。


私は、公爵令嬢の仮面をもう一度かぶり直した。



大理石の床に、私のヒールが高く音を立てる。

王立大劇場の中央。


高くそびえる天井、豪奢なシャンデリア、金と紅の緞帳、深紅の絨毯。

そこに並ぶ観客たちの視線が、すべてこちらへと突き刺さる。


毎度のことながら、壮観なまでの敵意だ。


「エリザベート・ラインベルク!」


アルノルト殿下のよく通る声が、魔道具によって増幅され、劇場の隅々まで響き渡る。

瞬間、空気が張り詰めた。


「今日この場をもって、我はおまえとの婚約を破棄する!」


歓声と罵声が入り混じる。

私を指差し、罵倒の言葉を叫ぶ者。

ほくそ笑むようにうなずく貴族。

膝の上でこぶしを握りしめる娘。


この空気にも、すっかり慣れてしまった自分が、少し嫌になる。


「おまえは王子妃にふさわしくない。

豪奢なドレスに金を使い、平民を見下し、聖女候補を虐げる、卑劣な悪役令嬢だ!」


「ええ、その通りですわ」


私は優雅に微笑み、いつものセリフを返した。

このやりとりも、もう何十回目になるだろう。


中には、台本を覚えこんで一緒に口ずさむ観客もいるくらいだ。

悪趣味な人気エンタメ、と言われたこともある。

人の負の感情を浄化する儀式が、いつの間にか娯楽になってしまったのだ。


ここまでは、台本通り。


「だが、今日は少し趣向を変えよう」


アルノルト殿下が、そこで口にした一言は、台本には存在しない。


観客席にざわめきが走る。

舞台袖の方から、紙をめくる音や、小さな悲鳴が聞こえた。

担当官たちが青ざめている顔が目に浮かぶ。


「我は、真実を語る」


殿下の視線が、民衆へと向けられる。

舞台用の、慈悲深い王子の仮面はもうない。

そこにあるのは、一国の王太子としての静かな決意。


嫌な予感と、期待と、恐怖。

胸が忙しい。


「この婚約破棄劇は、王国が作り出した制度だ。

民の不満をひとりに集め、瘴気化するのを防ぐための、茶番である」


空気が、一瞬で凍りついた。


ざわめきすら消え、劇場全体が沈黙に支配される。

誰もが、今の言葉が本当に聞こえたのかどうか、理解できずに固まっている。


殿下、それを言ってしまっては制度そのものが……と、私は心の中で頭を抱える。


「民の不満の矛先を、たったひとりの令嬢に向けることで、王は責任から逃れてきた。

それが、この制度の正体だ」


先ほどまで嬉々として罵声を飛ばしていた人々の表情が、一斉にひきつる。

観客席の最前列に座る大臣たちが、慌てて立ち上がった。


「で、殿下! そのような話を公の場で語るのは……!」


「黙れ、ランディル伯」


アルノルト殿下の冷たい声が、伯爵の言葉を切り捨てる。

普段なら「おおらかな若き王子」の仮面で冗談めかして流す場面だ。

しかし今日は、甘さの一滴も含まれていなかった。


「王太子として宣言する。

本日、この瞬間をもって、王国公認悪役令嬢制度を廃止する」


劇場が揺れた。

悲鳴にも近いどよめきが、あちこちから上がる。


「な、なんだと……!」

「じゃ、じゃあ今までの公演は……!」

「騙されていたのか?」


人々の視線が、一斉に私へと向かう。

憎しみと蔑みだけではない。

戸惑い、動揺、怒りの行き先を失った困惑、そこにごくわずかな恐れと、申し訳なさの影も見え隠れする。


受け止め慣れているはずの視線が、今日はひどく重く感じられた。


「そして、もうひとつ真実を告げよう」


アルノルト殿下の声が、私を指し示す。


「エリザベート・ラインベルクは、何ひとつ罪を犯していない。

彼女は公金を横領していないし、聖女候補をいじめてもいない。

むしろ……」


殿下は、そこで一拍置き、わざとらしく微笑んだ。


「むしろ、いつも律儀に台本を守る、真面目で優しい、どこに出しても恥ずかしくない婚約者だ」


「ちょ、ちょっと殿下」


思わず声が裏返る。

どうして公衆の面前で全力で褒めてくるのだろう、この人は。


観客席の最前列、老獪な伯爵や公爵たちが目を丸くしている。

さっきまで私を罵っていた婦人が口をぱくぱくさせている。


そこへ。


「エリザベート様が優しいわけない! 私、いじめられたんです!」


甲高い声が、劇場の空気を切り裂いた。

白いドレスをひるがえし、ひとりの少女が前に躍り出る。


今日の公演のメインゲスト。

平民出の聖女候補、ミリア・ブランシュ。


金髪碧眼の、絵に描いたように愛らしい少女。

その瞳を今は涙で潤ませ、劇場全体に響くように叫んでいた。


「私の髪を引っ張って、聖女のくせに王子に近づくなって言ったくせに!」


……言っていない。


私は、静かにため息をついた。


「言っていませんわ」

「嘘です!」


彼女はきっぱりと言い切る。

観客席の何人かが「やっぱり」「見ろ」といった顔をする。


「嘘ではありません。

私はあなたに、こう言いました」


私は記憶を辿る。

聖女候補選定の日。

疲れ果てた顔で聖堂を出てきたミリアに声をかけた、あの日。


「聖女候補として、殿下と二人きりで会うなら、護衛と侍女をつけるようにと。

あなたの身を守るために」


「……っ」


ミリアの表情が固まる。


あの時、彼女は、王宮の礼法も、貴族社会も何も知らなかった。

ただ、自分が選ばれたことと、王子と話ができることだけに浮かれていた。


「あなたは殿下のことを、王子ではなく、ただの恋愛相手だと思っている。

でも、殿下は王太子であり、政治の中心人物です。

聖女候補といえど、平民の娘が護衛もつけずに接近すれば、利用しようとする者が必ず現れる。

もしあなたが誘拐でもされたら、誰が困るか、理解なさっていない」


丁寧に、できる限り柔らかく伝えたつもりだった。

彼女が傷つかないよう、余計な言い方を避けたつもりでもいた。


結果がこれである。


「それを、あなたは勝手に『いじめられた』と解釈した。

そしてその話を、脚色して台本に加えたのは……どなたでしょうね?」


私は、ゆっくりと視線を客席最前列のひとりに向ける。


国王の側に座る、年老いた枢機卿。

この制度の運用責任者、トラヴィス・エルム。


「王国公認悪役令嬢制度の台本を管理し、修正し、演出を承認してきたのは、あなた。

ミリア様の訴えを、そのまま、あるいは少し盛りすぎた形で公演用の脚本にしたのも、あなたですわ」


枢機卿が、目に見えて肩を震わせる。


「な、何の証拠がある!」


「証拠なら、殿下が今日、持ってきてくださっているはずですわ」


そう告げると、アルノルト殿下はにやりと笑って見せた。


「エリー、僕の見せ場を奪わないで」

「殿下の語りは長くなりがちですので、早めに締めていただけると助かります」


軽口を交わしながらも、殿下は懐から分厚い書類の束を取り出す。

重ねられた羊皮紙には、うっすらと魔力の光がにじんでいた。


「ここに、この制度のすべての台本と、その修正履歴がある。

魔導記録だから、書き換えは不可能。

そして、各シーンの提案者と承認者の名前が、すべて残っている」


殿下が魔道具に書類をかざすと、空中に大きな文字が浮かび上がった。


提案者:ミリア・ブランシュ

承認者:枢機卿トラヴィス・エルム


くっきりとはっきりと。

逃げようのない、真実の記録が、劇場の空中にさらけ出される。


「ミリア嬢。

君は、自分が『かわいそうな平民聖女』でいるために、エリザベートを悪役にした。

それが事実だ」


「だって……だって、そうしないと、私の存在価値が……!」


ミリアの叫びには、歪んだ必死さがあった。

かつて、何人もの貴族令嬢が口にしていた言葉と、どこか似ている。


皆、役割に縛られている。

貴族は貴族らしく、

平民は平民らしく、

聖女は聖女らしく、

悪役令嬢は悪役らしく。


「君の価値は、誰かを悪役にすることでしか測れないものではない」


アルノルト殿下の声は、厳しくも優しかった。


「でも、この制度が君にそう教えてしまったのなら、その責任は制度を作った側にある。

だから、終わらせる」


殿下の言葉に、私は小さく息を呑んだ。

終わらせる、とこんなにもはっきり。



「……殿下」


私はそっと、殿下の袖を引く。


「ここまで暴けば、王家もただでは済みませんわ」

「分かっているよ」


それでも、殿下の目は揺らがない。

舞台の上で、何百もの視線を浴びながら、真っ直ぐに前を見ている。


「君にだけ役割を押しつけて、僕たちは安全なところにいる。

そんな王家に、未来はない」


その横顔が、眩しくて、少しだけ腹立たしい。

どうしていつも、私が覚悟を決めた時に限って、この人はさらに先へ行ってしまうのだろう。


「責任は、王太子として僕が負う。

だから、君は君の望むことを言って」


「望むこと、ですか?」


「今まで、一度も言わせてあげられなかっただろう。

『悪役令嬢』ではない、君自身の言葉を」


胸の奥に、ずっと沈めていた言葉がある。

何度も喉まで上がってきて、そのたびに台本のセリフで押し流してきた。


「私は悪役令嬢ですから」

「この国のためですから」

「殿下のご決断は正しいですから」


そんな言葉で、全部ごまかしてきた。


でも、もう制度は終わる。

終わるのなら、せめて最後くらいは。


私は深く息を吸い込み、観客席を見渡した。


「……私は、悪役令嬢ではございません」


静かな声だったのに、不思議と劇場の隅々まで届いた。


「私は、王国のために作られた台本を、律儀に演じていただけです。

皆さまが、王家に直接怒りを向けなくて済むように。

その怒りが瘴気に変わり、魔物を生み出さないように」


最前列の老人が、目を見開く。

中段の若い娘が口を押さえる。

上段の兵士が眉をひそめる。


「憎しみを向けられるのは、正直、つらかったです。

石を投げられれば痛いですし、子どもたちに怖がられるのも、とても悲しかった。

お茶会の招待状が次々と断られた時は、自分の存在が消えてしまうようで、夜ひとりで泣いたこともあります」


小さな笑いが漏れる。

それは嘲笑ではなく、苦笑に近かった。


「けれど、王都の外に魔物が現れない日は、少しだけ誇らしかった。

私が悪役令嬢でいるかぎり、誰かが死なずに済むなら、それでいいと、本気で思っていました」


アルノルト殿下が、小さく息を呑む。

その気配が伝わってきて、なぜか私の方がどきどきしてしまう。


「けれど、殿下は、そんな私の役目を、今日限りで終わらせると仰いました。

ならば私も、今度こそ、自分のためにひとつだけ、願いを言ってもよろしいでしょうか」


殿下が、真剣な目でうなずく。


「もちろん」


「殿下。

どうか、私に……」


喉が震える。

何度も台本通りに泣き叫んできた口が、たったひとつの本心を言うのに、こんなにも手間取るとは。


逃げたくない。

ここで逃げたら、きっと一生後悔する。


「どうか、私に、殿下の婚約者でいることを続けさせてください」


劇場が、しんと静まり返る。

先ほどまでのざわめきが嘘のように消えた。


「制度ではなく、王国公認でもなく。

ただ、エリザベート・ラインベルクひとりの願いとして。

殿下を、お慕いしたままでいさせてください」


頬が熱い。

けれど、目はそらさない。


アルノルト殿下は、一瞬驚いた顔をしたあとで、ゆっくりと口元を綻ばせた。


「……それは、ずいぶんずるいお願いだね、エリー」

「す、すみません」

「断れるわけ、ないだろう」


殿下は私の手を取り、その甲へとそっと唇を触れさせる。


「王太子アルノルト・フォン・レグナスは、ここに宣言する。

制度としての婚約は廃止する。

だが、個人として、エリザベート・ラインベルクとの婚約を改めて結び直す」


数秒の静寂のあと、歓声が爆発した。


「エリザベート様ー!」

「ごめんなさい! 今までひどいこと言って!」

「ありがとう! 魔物が出なかったの、あんたのおかげだったんだな!」


泣きながら叫ぶ声も混ざっている。

私は慌てて首を振った。


「いえ、皆さまの感情は、王国を守るために必要なものでした。

どうか、そんなに謝らないでくださいませ」


それでも、胸のどこかで、少しだけ救われた気がした。



その後の展開は、なかなかに激しかった。


制度を利用して、都合の悪い貴族や商人を悪役に仕立て上げようとしていた証拠が、次々と暴かれた。

私以外にも、第二第三のスケープゴート候補を水面下で用意しようとしていた文書まで見つかり、そのたびに大臣たちの顔色が変わる。


トラヴィス枢機卿は、聖職を剥奪され、辺境の小さな修道院行きとなった。

それでも処刑されなかったのは、彼なりに本気で「王国の平和」を願っていたことが、記録から読み取れたからだという。


ミリアは聖女候補の資格を取り上げられ、一度平民の寮へ戻されて、基礎学問と礼法からやり直すことになった。

最後まで私に向かって、「絶対に幸せになってやるんだから!」と叫んでいたあたり、根性だけは認めざるを得ない。


王都の外周には、新しい結界が張られた。

魔導士団と聖堂の共同開発した瘴気浄化陣が、見えない網のように街を覆う。

定期的に王都中の教会で鐘が鳴り、そのたびに瘴気が薄くなるのが、敏感な人には分かるらしい。


税制も見直された。

王族と貴族の贅沢には上限が設けられ、その分が結界維持費に回される。

さすがに最初は反発があったが、「悪役令嬢ひとりに払わせていた代償を、今度は皆で払う番だ」という殿下の一言で、多くの者が口をつぐんだ。


そして私はというと。


「エリー、今日のお茶会のドレス、すごく似合ってる」

「殿下が選んだものですもの。似合わなかったら、殿下のセンスが疑われますわ」

「それは困るなあ。じゃあ、もっと似合うって言って」


「……とても、似合っていると思います」


「うん、最高」


こんなふうに、毎日殿下に甘やかされていた。


婚約破棄制度が消えた代わりに、私の日常には、妙に甘くて落ち着かない時間が増えた。


城下町を歩けば、昔石を投げてきた少年が、真っ赤な顔で頭を下げてくる。


「ご、ごめん! あの時、ひどいこと言った!」


「もう済んだことですわ。あなたがあの時、怒ってくれたおかげで、瘴気が私の方に流れてきてくれたのですもの」


そう言うと、少年はぽかんとした後、照れくさそうに笑った。


「今度、うちの畑のイチゴ、持ってくる!」


そのイチゴが、驚くほど甘かったのは、また別の話。


王宮の廊下では、以前私を避けていた侍女たちが、おずおずと話しかけてくる。


「エリザベート様、髪飾り、お似合いですね」

「その紅茶、お好きでしたよね。こっそり茶葉を多めにしておきました」


そうやって、少しずつ、少しずつ。


「悪役令嬢」という役割の外側で、私自身としてのつながりが増えていった。



「殿下。

婚約破棄の制度がなくなっても、国民の不満は消えませんわ」


王宮のバルコニーから、夕暮れの王都を眺めながら私は言う。

屋根の影が長く伸び、石畳が茜色に染まり、教会の鐘の音が遠くで響いていた。


「今度はちゃんと、向き合ってくださいませね」


「もちろん」


アルノルト殿下は、私の肩を抱き寄せる。

かつては人前で触れられるだけで「さすが悪役令嬢、王子を誘惑している」などと言われていたけれど、今はただ、自然な仕草として受け止められる。


「これからは、君と二人で、全部受け止めるよ。

僕の横には、常に君がいてくれるんだろう?」


「……婚約破棄担当官としてではなく、たったひとりの婚約者としてなら」


「うん。

世界でひとりだけの、僕の悪役令嬢として」


「それ、もう悪役ではありませんわ」


くすりと笑い合う。


ふと、城下町の方を見ると、子どもたちが楽しそうに走り回っているのが見えた。

あの日、泣きながら石を投げてきた子も、今は友達と笑い合っている。


役割に縛られていた日々は、もう過去だ。


これから織り込んでいく物語は、台本ではなく、私たち二人だけのもの。


婚約破棄劇の幕は、静かに、しかし確かに降りた。



それから数年。


王立大劇場では、新しい演目が人気を博していた。

題して「感情の劇場」。


かつて婚約破棄劇が行われていた場所で、今は市民たちが自分の不満や不安を、役者に託して舞台上で語らせるのだ。


「税が高いと感じる農民」

「出世できない兵士」

「嫁ぎ先で肩身の狭い若奥様」


様々な立場の人々の声を台本にし、それを演者が演じる。

王宮の役人たちも観客として参加し、終演後には意見交換の場が設けられる。


瘴気は、感情を押し隠すことで溜まる。

ならば、表に出す場を増やせばいい。


そんな発想で始まった取り組みの中心に、なぜか私の名前がある。


「エリザベート様、今日の新作台本はこちらです」


台本を抱えた若い劇作家が、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「またずいぶん赤裸々ですね……この商人ギルド長、モデルが実在しませんわね?」

「だ、大丈夫です! 少しだけ脚色してますから!」


「少し」の基準は人によって違うということを、私は制度悪役令嬢時代に嫌というほど学んだ。


「後で内容確認いたしますわね。感情を吐き出させるのは結構ですが、人ひとりを丸ごと悪者にしてはいけません」


「は、はい!」


そんなふうに、かつて私を責め立てるために使われていた劇場が、今は人々の本音と本音をつなぐ場所になっている。


少しだけくすぐったい。

少しだけ誇らしい。


そして何より、その舞台を見守る私を、誰ももう「悪役令嬢」とは呼ばない。



ある日の夕暮れ。


王宮の中庭で、私はアルノルト殿下と向かい合っていた。

周囲には誰もいない。

白い花が揺れ、噴水の水音が静かに響いている。


「エリー」

「何でしょう、殿下」


殿下の表情が、妙に真剣だった。

でも、その瞳の奥には、わずかな悪戯っぽさが潜んでいる。


嫌な予感がした。


「僕は、君との婚約を破棄する」


思わず噴き出しかけた。


「殿下。

ここ数年、一度もその台詞を聞いていなかったので、少し懐かしいですね」


「懐かしがってくれるとは思わなかったな」


「それで、今回はどのような罪状でしょうか。紅茶の淹れ方が好みでない、とか?」


「ううん。

僕が君を、愛しすぎている罪かな」


「それは殿下の罪であって、私の罪ではありませんわ」


変な汗が出てくる。

この人は時々、平然と恥ずかしいことを言う。


「制度としての婚約を破棄したあの日から、ずっと考えていたんだ。

君を、役割抜きで、ただのひとりの女性として選び直す方法を」


「……」


「だから、形式上の話だけど、僕は今日、もう一度君に求婚する」


アルノルト殿下が、片膝をついた。

真面目な顔で。

周囲に誰もいないのを確認してからであるあたり、羞恥心はあるらしい。


「エリザベート・ラインベルク。

僕は君との婚約を破棄し、代わりに、一生ものの契約を結びたい」


「……それは、婚約ではなく」


「うん。

結婚だね」


殿下が差し出した小箱の中には、細い指輪がひとつ。

中心に、小さな透明な石が埋め込まれている。


宝石に刻まれた微細な魔法陣が、うっすらと光る。

それは、かつて私の皮膚に刻まれていた聖印と、同じ紋様を、別の形に転写したものだった。


「これは……」

「君の聖印の写しだよ。

君ひとりにだけ負わせていた役割の象徴を、今度は二人の契約の証に変える。

君が一人で抱えていた痛みも誇りも、これからは僕と分け合うという印だ」


そんなことを言われて、断れる人間がこの世にいるだろうか。


胸の奥が熱くなり、視界が霞む。

涙でぼやけた中庭が、陽炎みたいに揺れて見えた。


「……殿下。

何度も何度も、私を婚約破棄しておいて、今さらですわね」


「ごめん」


「でも」


私は、そっと右手を差し出す。


「何度でも結び直していただけるなら、悪くありません」


アルノルト殿下の指が、私の薬指に指輪を通す。

指輪が肌に触れた瞬間、微かな温もりが広がった。


それは、かつて聖印が瘴気を浄化した時の、痛みを伴う熱とは違う。

ただ、優しく心臓の鼓動に寄り添うような温かさ。


「これから先、もし喧嘩して、君が『殿下なんて嫌いです』って言ったら、その時はまた、形式上の婚約破棄をしよう」


「……」


「そして、仲直りしたら、何度でも何度でも、君に求婚する。

世界で一番忙しい婚約破棄と婚約結び直しを、二人で記録更新していこう」


とうとう笑ってしまった。


「それはさすがに、記録に残らなくて結構ですわ」


「じゃあ、僕たちの心の中だけでいい」


アルノルト殿下が立ち上がり、そっと私を抱きしめる。


かつて瘴気を集めていた聖印の場所に、温かな手のひらが重なった。


その瞬間、どこか遠くで、子どもの笑い声がした気がした。

あの日、石を投げてきた少年の声かもしれないし、違う誰かの声かもしれない。


いずれにせよ、もう二度と、誰かが魔物に喰われて泣くことがありませんように。

もう二度と、誰かひとりに役割を押しつけて、心をすり減らさせることがありませんように。


そう願いながら、私はそっと目を閉じた。


かつて悪役令嬢と呼ばれた女と、

かつて公務として婚約破棄を繰り返した王太子。


二人の物語は、ようやく台本を手放した。


これから先は、何度喧嘩して、何度別れそうになって、何度婚約破棄を口にしてもかまわない。

そのたびに、何度でも結び直していけるのなら。


私の世界に、もう王立大劇場の大仰な幕は必要ない。


必要なのは、あなたと私が並んで立つ、小さな扉と、その向こうに続く、誰にも台本を書かれていない未来だけだ。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

「役割として憎まれる」から「一人の人間として選び直される」までを書いた物語でした。


少しでも胸に残るものがありましたら、ブクマ・★評価・感想を頂けると励みになります。

制度廃止後の新婚編や別視点短編も準備中ですので、ぜひフォローしてお待ちください。


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