12話
ベスティア国王の私室。壁や天井は他の部屋と同じ白い石レンガ、床は焦げ茶色のフローリングで暖炉もある広い部屋。絵画やタペストリーなどの一般的な家具の他に鎧や斧などの武具も飾られている。
黒い大理石の壁板には幼少期のカルの肖像画が飾られていた。アンバルは書斎にあると言っていたので最近こちらに移したらしい。
カルはそんな父親の部屋の真ん中にある大きなソファに座らされていた。
目の前のテーブルには一口サイズの干し肉、小ぶりの果物、そして水差しと銀の盃の他、ソファから少し遠いところには何故かインクと羽ペンも置いてある。
「それで…用とは…」
大柄なユキヒョウの獣人、カルの父親は黒い外套を脱いでから、丸められた羊皮紙を手に持ってカルの隣に座った。無表情な父親から感情を読み取るのは難しかった。
「お前の署名が欲しい。」
「署名ですか?」
「そうだ。カル=アシーク・ラクイアン。明日からの、お前の新しい名前だ。」
書類には、追放された旧第三皇子を改名して正式に市民権を与えることが記されていた。
「皇族でないお前は皇族のしきたりに沿った名は持てないが、私がお前をカルと呼ぶわけにはいかない。アシークは私が付けたお前固有の名、ラクイアンはアガタの姓。私とアガタとの間にできた息子の大切な名前なんだ。」
カルは表情を変えない。嬉しいとは感じないものの「カル」も正式に名前として認められるということでもあるので黙って羊皮紙を受け取った。
「良かった。アガタもひとまず安心するだろう。…本音を言えば、お前にはどこか田舎で静かに暮らしてほしいものだが……。ともかくこれでお前は我が国民だ。なるべく国民として普通の生活に近づけるよう配慮する。」
綺麗な文字で淡々と署名するアランを横目で見て、羊皮紙を受け取ると一旦それを別の机に置いてからまた座る。そして干し肉のかけらをひとつ口に放り込んだ。
「…普通の暮らし、ですか。」
カルは遅れてそう言った。父親の方は向かず、机に視線を釘付けにしたままだった。
「あぁ。」
「私が1人でここに戻って来たとして、それで普通の暮らしなんてできたんですか。」
カルの声には微かな怒気が含まれていた。今の窮屈な生活はシエラとの結婚を選んだからだとでもいうつもりなのだろうか、と。
父親は答えずに、盃に柑橘類で香り付けされた水を注いで一口飲む。
「お前を見捨てると決めたとき、アガタは、お前の母は私に牙を剥いたよ。他の妃もアガタに同情していたし、アンバルは机を壊したな。あぁ、愚かな選択だとも。愚かで気高い選択だ。私は王であることを選んだ。
たとえ皇族から追放してもファール国側がお前を殺すことはないだろうという考えがそれを後押しした。後々戦争になって、ファールが劣勢になった時の交渉材料としてはもちろん、ファールは我々ベスティアが負けた場合お前をベスティア国王に仕立て上げるつもりだったはずだ。」
国の都合で理不尽に追放されたカルを出されれば、国王として無視できない。カルを国王に仕立て上げるにしても、カルの親兄弟を戦犯者として纏めて裁いてしまえば残る継承権を持てる者はカルだけになるため、傀儡国家を築くのにこの上なく都合が良い。
そんなことを聞いたんじゃない、とカルはため息をついたがベスティア国王は続けた。
「あのとき、ファールはお前の身柄と引き換えに国土の一部を、そこにある小さな町や集落に住む民ごと要求してきた。何百という民と引き換えにお前を取り戻せば、私は国より私情を優先したことになる。そうなれば民や兵のなかに私に対する不信感を抱くものが現れるだろう。
そんな状態で戦を仕掛けられたら…結果はわかるだろう?ファール側は交渉決裂も想定していたはずだ。だからこそ、少しでも計画を挫くためにお前を追放する必要があった。」
もちろん、とベスティア国王は強調して続けた。
「ファールにとって必ずしもお前が五体満足である必要はなかった。大義名分を掲げても、そのせいでお前を過酷な目に遭わせたことは揺るがない。そしてお前は変えられてしまった。…ただ成長しただけだと信じたいよ。」
ベスティア国王は少し躊躇いながらカルに指を伸ばした。カルは微動だにしない。ゴワゴワした毛の無骨な指が、母譲りの中性的で整った顔に触れる。
「普通の暮らしができるのかと言ったな。あぁ、無理だとも。今も大臣たちの半分は、お前の行動をもっと制限したほうが良いのではと、ファールに手名付けられたお前がその忠誠を利用されるのではと懸念している。お前がシエラとの政略結婚を受け入れていなくても同じだっただろう。」
言葉を切って視線を注いでくる父親につられ、カルはようやく父を見上げた。前よりもやさぐれた、王というより武人の顔。多分、精一杯優しい目をしようとしているのだろうが、カルはまだ素直に受け取れなかった。
「…今はこう呼ぼうか、アシーク。もはや驚くこともないんだ。こう…本能的にというか、頭が、言葉を受け付けなくなる。急に言語がわからなくなったようになった。なぁアシーク、次はいつ会おうかと予定を組み立てていたところにお前が拉致されたと聞かされた時はそんな感じだった。」
カルは、自分がベスティア皇族から追放されると聞かされた時を思い出す。
「今の生活はささがし息苦しいだろう。わかってる。お前の護衛は監視でもあると認めるよ。だがアシーク、お前がまた利用される可能性が少しでもあるなら、お前を目の届くところに置く。二度と、お前を奪われたくないんだ。生きてるとわかった上で見捨てるなんて真似は…決して…。
時間が経てばもう少しマシな生活を送れるようになるはずだ。だから今は、親の過保護と思って許してくれないか。」
カルはまだ黙ったままで、父親はため息をついた。
「どうにも言い訳らしくなっていかんな。」
「…私は別に、あなたのしたことを責めようとは思っていません。憎んでもいません。1人で本を読んだり考え事をする時間も貰っていましたから、あれが最善だったともう理解しています。今の暮らしも、戻ったらこうなるだろうってわかってました。」
カルは不貞腐れたように言った。
「そうかい。達観なこった。」
ベスティア国王からすればカルはまだまだ子供であるし、帰ってきた息子を空白の6年間分可愛がりたい。だが時というものは残酷であるし、そもそも彼がどん底に突き落とされるとわかっていながら王としての姿勢を貫いた。それなのに今さら関係を取り戻すなんて夢物語ではないのか。
国王は唐突に笑った。
「…なんの笑いですか、それは。」
「いいや、私もお前と同じだなと思っただけだ。」
大きな手がカルの脇に滑り込み、ひょいと持ち上げた。
「はっは、さすがに重くなったなぁ。」
そう言いつつもカルが身じろぎする間もなく赤子を抱き上げるような軽やかさでカルを自分の方を向くように膝へ乗せる。
そして太い両腕でカルを抱きしめた。
「…すまなかった。本当にすまなかった。お前が受けた苦痛は全て、私が与えたも同然だ。」
大きな手がカルの後ろ頭と背中を優しく擦る。カルの無抵抗を、憎しみはないという彼の言葉の裏付けであると願いながら。
「お前が自分の意志で私に刃を向けても何もおかしくはない。私はその事実が怖かった。私の英断によってお前が私を憎み牙を剥くことが。辛かったろうに…拉致直後の扱いについてはいくらか聞いているよ…」
調教のことも背中のことも知っている。ベスティア国王の罪悪感は生半可なものではない。だからこそ望んでいたはずのカルとの接触を恐れたのだ。
「だが今再び愛する我が三番目の子を抱くことができる。ありがとうカル。変わらず優しいな、お前は。」
カルはしばらくされるがまま抱かれ、やがて口を開く。
「兄上に、系譜を見せてもらったので。」
「系譜?どうして……あぁそういうことか。アンバルめ…」
余計なことを、とため息をつく。だがアンバルの計らいによって今の自分が受け入れてもらえないことを恐れる二人の背中を後押しする手助けになったのは事実だろう。
「わたしは間違ってばかりだ。お前とは距離を置いた方がお前も気が楽だと思ったんだ。もっと早くこうすれば良かった。」
息子のぬくもりを噛み締めるように、カルの背に回された腕に力がこもる。
「愛しているよ。昔のお前も今のお前も、私にとっては変わらない。冷たくして悪かった。」
「…いえ、私こそ…思い込みが多かったみたいです…」
カルは棒読みでそう言った。機械的というよりは、どう感情表現すれば良いのかわからなかった。
数分、静かな時間が流れる。筋骨隆々な父との抱擁は少し暑い。昔はこの暑さも好きだった。そして抱かれる度に大人になったらこんなふうに逞しくなりたいと思ったものだ。
こんなに長く抱擁されたのは初めてで、いよいよ暑さを感じてくる。おまけに父の大きな手が顔を覆い隠すように撫でているおかげで顔も暑い。だから身体が勝手にしゃくり上げるまで自分でも泣いていることに気づかなかった。
声を上げるようなことはなかったが、涙は中々止まってくれない。父が、母が、飼い猫と化した自分を拒むことが怖かった。でもそれはあり得ないのだと示された。
カルは暗い監獄のなかで何度も夢見た父の胸に顔を埋めて静かに泣き続けた。
ベスティア国王も何も言わず可愛い息子の頭に頬擦りする。我が子達は皆等しく愛しているけれどアシークは6年半空いている。少しくらい贔屓しても罰は下らないだろう。でも今は、静かにカルの想いを受け止めた。
過去のことは忘れない。でも今考えるべきはこれからのことだ。カルが泣き止むと抱擁を解いて彼を膝から下ろし、明るい口調で尋ねた。
「彼女とはうまくやれているか。」
「…はい。」
「曲りなりにもお前を守り続けた。シエラ王女には感謝しているよ。彼女がファール国王の予想をはるかに超えてお前を想っていたことがあちらにとって最大の誤算だろう。」
「シエラ様…いや、シエラを国民にしてくれるのはいつ頃になるんですか。」
「子供ができたら、だ。でないと皆が納得しない。ベスティア国民のお前の妻になった、つまり降嫁したと形で示さねば。」
「降嫁…?…そうか、父上は最初から…」
「追放を取り消した方が都合がいいかもしれない。お前の皇族復帰を望む民も多い。そうすればお前とシエラは正真正銘の政略結婚になる。でもお前を国民とすれば、その妻になるシエラは女王を認めないファール王族から外れることになる。お前たちはただの国民。これ以上国のために苦しむ必要はない。」
すべては息子の幸せのため。一番理想的な結末にならずとも、その中で最善を尽くす。カルは胸中で父に対する感謝の念が湧くのを感じた。
「お前もそう遠くないうちに親か……うむ…私は先代の一人息子だったから4人の妻を娶って5人の子供たちをもうけたが…親や大臣の言うことを真に受けすぎたかもしれんな。これからもどんどん孫が生まれるだろうから、私の代の系譜図は随分とにぎやかになりそうだ。作り直さないと名前が入りきらないかもしれん。」
王位継承権二番目以下の皇子や皇女の子は皇族とは扱わないものの記録はされる。きっと大臣たちは何度もあの部屋に集められることになるだろう。
「…僕の子供の前に弟妹ができそうだけど。」
大柄なユキヒョウは息子を抱きながら豪快に笑った。跡継ぎ確保のため若くして結婚したので、今からでも十分あり得るだろう。
軽口を叩かれて気を良くしたベスティア国王は昔のようにカルの頭をわしゃわしゃと撫でまわして、カルの頬も緩んだのを見ると静かに肩を抱き寄せる。
「手首に着けてるその首輪、ファール王族の紋様が入っていたな。ただ王女に贔屓されているだけでは到底身に着けられるようなものではないだろう。お前は立派だよ。」
「…外した方が良いですか?」
「いや、任せる。悪いとは思ってないよ。お前の苦労の証であり、忘れてはならない私の親としての過ちの証だ。…そうだ、忘れてた。」
ベスティア国王はまた立ち上がって席を離れると、先程とは別の羊皮紙を手に取る。
「苦労の証で思い出した。」
「…これは?」
「国民のお前が特例としてここで暮らす理由を記したものだ。」
”第三皇子は国を守るという皇族の責務のために幼い身を挺して国土とそこに住む民を守り、代償として囚われた。奪還した今、皇族の責務を十二分に全うした第三皇子の功績を讃えて彼を皇族の義務から解放し、国民として皇族の庇護下に置く。”
「これで一応理屈にはなっただろう。嘘ではないしな。私も知らない間に、件の土地の町にお前の銅像建ってるし。あそこじゃ英雄扱いされてるぞお前。」
「そ、そうなんですか…」
カルは気遣いに礼を言いつつ指示通りそこにもサインする。羊皮紙を父に手渡したところでふと気がついた。
「匂い…」
「うん?」
「追放するときの文書は直接手に取って見ました。父上の匂いがしたんです。それで本物だってわかったけれど…」
普通に書いただけではカルが嗅ぎ取れるほどの匂いはつかないはず。それを聞いた父親は気まずそうな顔をした。
”ちくしょう…私のところに生まれていなければ…すまない…アラン…”
「…わざとじゃない。想像に任せるよ。兄弟の誰かに聞けばわかるんじゃないか。」
カルは怪訝そうな顔をしたが、これ以上その話をすることはなかった。
「あらお帰りカル。」
「すみません遅くなって。」
日が暮れかけた頃に部屋に戻ったカルをシエラが出迎える。
「そう…お父上と話せたのね。」
「えぇ。それと、改名に関する書類にサインしてきました。カル=アシーク・ラクイアン。今まで通りに呼んでください。」
「ラクイアンが姓になったの?」
「はい。元々母の姓です。皇族として生まれると、固有の呼称と皇族ではない方の親の姓をまとめて名前とするんです。私は皇族ではないのでアシーク・ラクイアンになるわけなんですが、…父上が配慮してくれて、カルも正式な名前になりました。」
カルはどこか朗らかで、きっと良い時間を過ごせたのだろうとシエラは感じとる。
「そう…じゃあアランもカルもアシークもあなたの名前なのね。」
「はい。…実は、アランは私が民間の学校に通っていた頃の学友につけられた愛称で、呼びやすいからってみんなそう呼ぶようになったんです。」
そう話しながらカルは鞄から木箱を取り出して蓋を開ける。
「あの…午前中は街に出てて…良いものを見つけたのでその…シエラが良ければ…もらって欲しい……」
尻すぼみに言って差し出した。
「綺麗……ブレスレットは1つしか持ってきてなかったからちょうど欲しいと思ってたところだったの。ありがとう。大事にするわ。」
差し出されたシエラの手に頬擦りして、彼女が装飾品用の引き出しに木箱ごとしまうのを後ろから見つめる。
カルは子供ができたらシエラも国民として市民権を与えられることを伝えるべきか否かで迷っていた。父と和解したとはいえ不安要素が全て消えたわけではない。
"顔色を伺うのは大事だが、尻込みするのは駄目だ。覚悟したんだろう?”
4人も妻を娶って、その全員と子供を作って、でも4人の妃もその子供達も皆互いに仲が良い。そんな父はカルにそう言った。
「…ねぇシエラ。」
「なぁに?」
「…いつもありがとう。」
シエラはふっと笑った。
「残念、渡す時に言ってたら完壁だったわね。」
そしていつものようにシエラがカルを抱こうしたので、カルは動悸をこらえて自分から歩み出た。彼女の背に腕を回して抱き寄せる。
「僕…頑張るよ。だからもう少しだけ…」
「お互い少しずつ、ね。」
「…はい。」
彼女の傷にふれないように気を張るのではなく、これからは彼女に振り向いてもらえるようにしよう。そう心に決めた矢先に皇族の会食への誘いに来た使用人が扉を叩いた音でカルは飛び上がる。尻尾が毛膨れして太くなり、シエラを大層笑わせた。
つづく
次回最終話(予定)




