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11話


 

 馬車の中で2人きり、疲れて眠るシエラの横でカルはぼんやりと外を眺めていた。

 

 2人がのる馬車の周囲には獣人や半獣人が中心のベスティア国軍が大勢取り囲んでいる。

 

 既にベスティア国の街を1つ通過した。”第三皇子”の帰還は民に知れ渡っているらしく、見物に来た街の人混みを見たカルはあわててカーテンを閉めたのだった。

 

 

「…シエラ様、もうすぐ着きそうです。」

 

 

 窓の外に大きな街が見える。王都に暮らしていた訳では無かったカルはその街並みをすっかり忘れていた。帰ったというよりも新天地に訪れたような気分。しかし見覚えのある丸みを帯びた宮殿が近づいてくると胸が締め付けられて、無意識に手首に着けている首輪に触れる。

 

 馬車が止まって扉が開けられれば衛兵が道を作る。降りたカルとシエラを迎えたのは黄土色の毛並みの美しいネコ系獣人だった。

 

 シエラよりも身長が高く、カルそっくりの大きな耳と耳先の毛。知的な顔もカルとよく似ている。

 

 

「…母上。」

 

 

 彼女はガラス玉のような瞳に涙をいっぱい浮かべてカルに駆け寄り抱きしめた。

 

 

「こんなに…大きくなって……」

 

 

「……母上はお変わりないですね。」

 

 

 シエラの存在など忘れてすすり泣いている母親を、カルは困ったように抱き返しながらシエラの方を振り返った。

 

 

「私の母です。名前はアガタ・ラクイアン。稀少な純血のカラカル族で、第三皇妃です。」

 

 

 いつもの微笑みを浮かべながらそう言ったカルに、シエラはその温度差に不気味さと恐ろしさを感じて思わず口籠る。シエラがなんとか言葉を絞り出す前にカルの母が息子から離れた。

 

 

「失礼…あなたのことは…少し聞いています…」

 

 

 呼吸を整えて、シエラに向き直る。

 

 

「細かいことは置いて、ひとまずあなたに礼を。」

 

 

「いえ…私の方こそ……父に代わって謝罪します。」

 

 

「シエラ様…」

 

 

 シエラが頭を下げるとアガタは僅かに表情を緩めた。

 

 

「部屋の準備はできています。長旅で疲れたでしょう。」

 

 

 アガタ自ら案内したのは、部屋にシエラを置いて息子と2人になれることを期待していたから。しかし本人はシエラと共に休むことを望んだためアガタは引き下がった。

 

 部屋は十分に広く、ダイニングテーブルに椅子、4人は座れるソファ、いくつものランタン、化粧台に本棚付きの書斎机なども完備されていた。

 

 シエラにとって新鮮だったのはこの部屋も含めて宮殿のほとんどの床に絨毯が敷かれていないこと。獣人が多く抜け毛の掃除が大変になるからだった。

 

 

 2人は荷物を開けて、服をクローゼットに入れたり私物を置いたりとしばらくは黙々と整理する。その間カルはしきりに手をすりすりと揉んだ。ファール国を出て以来手袋をしておらず、なんとなく落ち着かないのだ。ただあの手袋も首輪と同様に従者のものなので着けられない。

 

 

「失礼します。アラン様、皇太子殿下がお呼びです。」

 

 

「…わかりました。……シエラ様、何かあったら叫んでください。きっと聞き取りますから。」

 

 

 カルは母譲りの大きな耳をピクリと動かして部屋を後にする。4人の護衛に囲まれて、謁見室へ通された。

 

 

「アラン、」

 

 

 父親よりも柔らかな雰囲気を漂わせるユキヒョウの青年は、護衛たちを下がらせると両腕を広げてカルを迎え入れた。

 

 

「…第一皇子アンバル=レオパンド殿下。」

 

 

「やめてくれ、確かに今のお前は民間人だがそれ以前に血を分けた兄弟じゃないか。」

 

 

 跪こうとしたカルを止めて、アンバルとカルは正面から向き合った。

 

 

「話を聞いたときは半信半疑だったけれど、その様子だと本当に…なんと言ったら良いか、とにかく健康そうで良かった。」

 

 

「はい、ファール国の皆様のご厚意で、十分な衣食住を与えられていました。」

 

 

 最後にアランと会った日、彼とは木刀で遊び半分に打ち合って、別れ時には彼の目がとろんとしていてとても可愛らしかった。

 

 定期的にしか会えないからとはいえ、兄姉を差し置いて父親に飛びつくような子だった。

 

 

「兄上もお元気そうで何よりです。御息女が御誕生なさったと聞きました。今更とはなりますが、心よりお祝い申し上げます。それと、私のことはできればカルとお呼びください。」

 

 

 アンバルは現実を受け入れようと息を深く吸って、吐いた。

 

 

「…おかえり、カル。できることはするから、なんでも言っておくれ。」

 

 

 それ以上引き留めはせずにカルを帰した。

 

 

 その日、他にも第ニ皇女や数人の要人が挨拶をしに部屋を訪れたこと以外は何もなく夜を迎えた。

 

 

 翌日から本格的にベスティアでの生活が始まったのだが、それはシエラが予想していたよりもずっと平穏なものだった。

 

 食事は部屋まで運ばれて、護衛付きで外出もできる。特に虐げられるようなこともない。

 

 

「良い匂いがするわね。」

 

 

「えっと、確か肉をココナッツミルクと香辛料で煮込んだ料理だったと思います。」

 

 

「ココナッツ?肉料理に?ベスティアではココナッツが身近なの?」

 

 

 外へ行くなら、と持たされていた通貨でカルはルンダンの串を2つ買った。ベスティア国の王都には特産品だけでなく友好国との交易で入ってきた品々も並んでいる。閉鎖的な国だったファール国の王女には目新しいものばかりだった。

 

 だが宮殿の中を歩くとき、シエラは疎外感に苛まれた。予想してたとはいえ突き刺さる視線は痛い。全員が獣人というわけでもなく、シエラと同じヒト族や半獣人もいるため始めの内は安堵したものの種族だけが問題ではない。彼らにとってシエラは忌むべき国の王女なのだから。

 

 また、カルが以前よりも素っ気なくなったことが居心地の悪さに拍車をかける。親兄弟と過ごしているならわかるが、シエラの元を離れることは無い。

 

 

「カル、ずっと私の側にいてくれるのは嬉しいけど、お母さんとかご兄弟とお話ししたほうが……」

 

 

 もしかして自分を気遣っていろいろ我慢しているのではないかと思ってそう言うとカルは首を横に振る。

 

 

「いえ、特に話すことはありません。それに皆さん忙しいですから。それより、兄上にお願いしていたのですが、ファール国との文通を許可されました。検閲はされるそうですが。」

 

 

「そう…ありがとう。」

 

 

「いえ。」

 

 

 そう言ってカルはシルクへの手紙を書き始めた。シエラも手紙を出そうと羽ペンを手に取ったもののやはりアルフレートに手紙を送る勇気は出ず、両親に自分は健康であるとだけ伝えることにした。

 

 

 書き終わった文を使用人に渡すとまた二人のやることが無くなった。

 

 カルは普段、本を読んでいるか自分の人形が入っている鳥籠を眺めているかのどちらかで会話は多くない。シエラから何か話しかけられたり散歩に誘われれば応じるが、本の返却以外で自分から行動することはほとんどなかった。

 

 

「…いつみても良くできてる人形だわ。」

  

 

 シエラが話題を振るとカルは頷いた。でも今は、その人形をあまり好きにはなれなかった。横長のベンチブランコにポツンと座る人形は寂しげだ。スペースがあるのに埋めるものがない。籠の中で撫でられることをただ待っている。

 

 カルは籠から目を逸らした。こうして見つめては逸らし、見つめては逸らす。いくら繰り返しても気分は晴れなかった。

 

 

「本を返してきます。シエラ様も読み終わったものがあれば一緒に返しますが。」

 

 

「大丈夫。」

 

 

 カルが部屋の外に出ると、すかさず待機していた護衛が彼を囲む。

 

 カルは内心でため息を吐いた。庭園を散歩するときも、建物の中を少し移動するだけの時も、こうして護衛に囲まれる。

 

 やはり信用されていないのだろう。ただの国民としておきながら皇族よりも手厚い護衛。模範囚人にでもなったかのような気分だ。

 

 それだけならまだ良い。散歩に行くとき、街に出向くとき、シエラには聞こえなくともカルの大きな耳には冷たい言葉や憐れみの言葉がしっかりと届いている。

 

 

「アラン…」

 

 

 帰り道、その声の中から母親の声を聞き取って立ち止まった。

 

 

「こんにちは母上。」

 

 

「アラン、部屋にこもっているみたいだけれど、庭の散歩くらいしたらどう?それと第五皇子があなたに会いたがっているわ。」

 

 

 一瞬間が空いて、カルはいつものように微笑んだ。

 

 

「機会があれば。」

 

 

 カルは会釈して部屋に戻る。母アガタはその背中を悲しげに見送った。

 

 

 味気のない生活が気付けば1ヶ月。カルの口数はさらに減る。夫婦らしいこともなく、ただの同居人のようになってしまいシエラもなんとかしなければとは思うのだが、どうすれば良いかわからない。

 

 最近では一緒に散歩へ行ったり街を歩いたりするとカルの尻尾が不機嫌そうに振れることが多くなった。

 

 

 なんとか良い方向にもっていくために勇気を出して第二皇女の元へ訪れると、思慮深げな虎獣人の女性は意外にも快く部屋へ通してくれた。

 

 

「あなた達2人が共に暮らすことを我々は強く反対していた。その悪い予感が当たったようですね。」

 

 

 彼女は至って穏やかで、感情の起伏は一切なく淡々と語った。

 

 

「年齢から考えて、あなたが直接我々を、我らの民を脅かしたわけではないのでしょう。しかし年齢から考えて、あなたは自分の国が何をしているかを知っていた。…いいえ、それすら関係ない。王族であるという時点であなたが我らの民から白い目で見られるのは至極当然のこと。」

 

 

 拉致されたのは第三皇子だけではない。特に戦争が始まってからは各地で子供が行方不明になった。

 

 誘拐された者たちの半数は家族の元へ帰った。しかしもう半数は帰るべき場所が無くなっていたか、あるいは戦場に駆り出されて同胞に殺されたか、またあるいは自ら帰郷を拒否した。

 

 

「奉仕魔族。あなた達はそう呼びますね。奉仕魔族に堕とされてある程度時間が経った者は、我々を侵略者と呼ぶのです。そして我々を拒む。”カル”と同じように。我れらが同胞を如何様にして奉仕魔族に作り変えたのか、あなたは知っている。そして、そんなあなたを慕うカルには冷ややかな憐れみだけが向けられる。そうなればカルも我々を信用しない。彼は彼の母以外に自らをアランと呼ぶことすら許してくれないのです。我々もあの子の力になりたい。ですがどう接すればよいのか考えあぐねているのです。」

 

 

 第二皇女の話によれば、シエラのいないところでのカルは話しかけづらい雰囲気で、シエラの話題を出そうとすると明らかに嫌な顔をして、シエラのそばにいるときに周りを見る目は、王族のパレードを護衛する騎士のように鋭いという。

 

 そしてもし、ちらとでもシエラの悪口や自身への憐れみの言葉を耳にしたり気に食わない視線を感じるとその元を睨みつけるという。

 

 シエラはファール国の王女。ベスティア国の敵国でありヒト種族以外への迫害を続けてきた国の王女。カルはそんな彼女が差別されることを恐れるがあまり、ベスティアの者たちを威嚇しているのだ。

 

 それによってカルとシエラは更に孤立。悪循環となっている。

 

 祖国に戻れば居場所がなくなる。あの時のカルの言葉は現実になった。

 

 

「…私はカルの、アランのことで言い訳をするつもりはありません。だからこそ、彼が影で苦しんでいるのを黙って見過ごすわけにはいかない。」

 

 

 シエラがそう言うと、第二皇女はいたって穏やかな目でシエラを見つめた。

 

 

「シエラ、それは本当にあの子のためですか?」

 

 

「それは…どういうことでしょう。」

 

 

「あなたにとってここは敵の懐でもある。周りに見知った者はいないどころか卑下してきた種族に囲まれている。ただでさえ肩身が狭いのに、唯一自分を慕う存在すら塩らしい。さぞかし居心地悪いでしょう。」

 

 

 責めるというより同情するような口調だった。第二皇女は彼女を追い出したいという訳ではない。しかし、これは伝えなければならないことなのだ。

 

 

「シエラ、もしカルが以前のアランに戻ったら、本当にあなたと彼の仲は深まるのでしょうか。あなたの支えを必要としなくなった彼はあなたの側にいてくれるのでしょうか。私たちはカルをアランに戻したい。あなたはどうなんですか。」

 

 

「…確かに今の生活は窮屈かもしれない。でも不自由もない。それは全部、私を説き伏せて一緒に暮らさせてくれているカルもとい旧第三皇子の恩恵なのだから、後からカルが何と言おうと私には従うことしかできない、と思っています。」

 

 

 第二皇女は父親そっくりの青い瞳で見定めるようにシエラの瞳を覗き込む。少しの間沈黙が流れて、やがて口を開いた。

 

 

「…父があなたとアランの結婚の話を出したのは、アランがどれくらい堕ちているのかを測るためだった。もしあなたとの結婚を選んだなら、あの子はもう戻れないと。」

 

 

「…そんなカルが私と離れれば戻る前に壊れてしまうかもしれないから、ですか?」

 

 

 第二皇女はほんの少し目を見開いた。

 

 

「えぇその通りです。そこまで理解しているとは思っていませんでした。とするとあなたがあの子との婚約を受け入れた理由もそれですか?」

 

 

 シエラは頷いた。カルの父親は、最初はカルを連れ戻した上でシエラを人質として隔離すると言っていた。つまりカルを巻き込もうとは考えていなかったのだ。しかし息子の内面を冷静に分析してそれを尊重し、苦肉の策として政略結婚を提案したのだろう。

 

 

「正直、私はまだカルと夫婦であることに抵抗があります。それに私は…まだカルを下に見ている。そんなことないと思っていたのに結婚の話をされて気付きました。」

 

 

「仕方のないことです。常識というのはそう簡単には覆らない。」

 

 

「カル…私がつけた名前…私のお父様が、私が名付け親になるようにって。名前を与えるのも洗脳の一歩ということはもう知っています。でも、一晩中考えに考えた名前を付けたら愛着も湧くんです。ペットも家族の一員だもの。それがカルなら…」

 

 

 それを言って、シエラは気付く。こんな言い方は口が裂けてもできないはずなのに自然と口にできたのは、先に第二皇女が遠慮なく痛いところを突いてきたから。彼女は腹を割って話したかったのだ。

 

 

「シエラ、」

 

 

「は、はい。」

 

 

「私たちは”カル”を知らない。あなたはアランを知らない。でも今日、あなたから私の元へ来てくれた。きっと転機になる。」

 

 

 そのためにまずは知らなければならない、と2人はその後の数時間、夕食に呼ばれる時まで話し続けたのだった。 

 

 

「あ、お帰りなさい。姉上とお話しされたと聞きましたが…」

 

 

「えぇ。他の人とゆっくり話すのは久しぶりだったから夢中になってしまったわ。」

 

 

 シエラがそっと手を伸ばすとカルは反射的に頭を差し出す。最近は周りの目を気にしてシエラの方から控えていた愛撫に、カルは嬉しそうに瞼を閉じた。

 

 

「…ご飯食べましょう。」

 

 

 届けられたワゴンのカバーを外すと食欲を誘う匂いが部屋いっぱいに漂う。カルの鼻がスンスンと鳴った。

 

 

「これは…」 

 

 

「今日はシチューだわ。久しぶりね。…どうしたの?」

 

 

「いえ…匂いからしてファールでは使わない肉なので、シエラ様のお口に合うかどうか…」

 

 

 そう言うカルはいつもより準備の手が早い。そういえば彼の好物はクリームシチューだった。

 

 

「美味しいわ。これ何のお肉?」

 

 

「ウサギ肉だと思います。この国では主流のお肉です。」

 

 

 そう言ってカルは自分の器に視線を落とす。嬉しそうにも、悲しそうにも見えた。

 

 

「いわゆる家庭料理なのですが…お口に合って何よりです。」

 

 

 私はカル。第三皇子はもういない。けれど匂いを嗅いだだけで、それがあの日帰ったら食べるはずだったラパンのクリームシチューだとわかってしまったのだ。

 

 

「どうしたの?止まってるけど。」

 

 

「いえ…どうやらこれ…母が作ったものみたいで…」

 

 

「これが?やっぱりわかるの?」

 

 

「自分が作るものは拘る人なので…」

 

 

 “奉仕魔族”用の豆のスープで振り払い、鶏肉のシチューで上書きしたはずだったのに、口にすると急に昔の食卓が頭に浮かぶ。

 

 

「でもこれ…本当に美味しいわ。アガタさん、お料理上手なのね。」

 

 

「…はい。時々作っては、使用人にも振る舞っていました。」

 

 

「私も教わろうかしら。」

 

 

「え?」

 


 てっきり「会って話をした方が良いんじゃないか」と言われると思っていたカルは思わず聞き返した。


 

「…ほら、アガタさんは私にとって姑さんでしょ?仲良くなれる良い機会だわ。まだあまりお話できてないの。」

 

 

 どうせ暇だし、とシエラは食べる手を進めた。

 

 

 シエラが周りに馴染むことができれば、カルの態度も改善されるのではないだろうか。そのために、まずは彼の母と関係を築こうと思い立った。

 

 

「そういえばミネルさんに聞いたけど、あなた、紅茶の淹れ方とか礼儀作法とか、覚えるのがすごく早かったって。もしかしてそれって、」

 

 

「あぁ…母はなりふりに厳しい人だったので、その辺りのことも叩き込まれていました。」 

 

 

 いつもより会話が弾んだ夕餉(ゆうげ)が終わると、シエラは自分の両親に、カルは弟の第四、第五皇子に手紙を書き始める。

 

 その後湯浴みを終えて、まだ湿った毛を乾かすために腰巻きだけのカルは日課の毛繕いを始めようと背もたれがない椅子に座る。

 

 

「私がやるわ。背中とか1人じゃ大変でしょ?」

 

 

 ネコ系獣人のご多分に漏れず身体がとても柔らかいカルは、片手で背中全てを難なく毛繕いできる。それでも彼女に言われるがまま彼女に背中を向けた。

 

 

 普段から手入れが行き届いている毛並みは、特に引っかかるようなこともなく滑らかにブラシが入る。彼の頬、頭、首、そして大きな烙印が刻まれている背中を梳かす。その間にカルは爪やすりで爪先が尖らないように整えていた。

 

 

「こっち側は終わったわ。」

 

 

「ありがとうございます。」

 

 

 カルはブラシを受け取って、自分で腕やお腹側の毛を整え始めた。シエラがその隣に座って彼にもたれる。

 

 

 “あなたには同情します。けれどあなたが先に動かなければならないのです。"

 

 

 シエラを説き伏せたのはカルの方で、シエラを異性として意識しているのもカル。シエラの本音はまだ変わっていない。アルフレートのことを本当に愛していたのに、すぐに切り替えられるほどシエラは尻軽ではない。

 

 だからこうして自らカルの頬に口づけをするのは苦痛が伴った。

 

 

「シ、シエラ様…?」

 

 

「最近頑張り過ぎてない?まぁ今の私に出来ることなんてほとんどないけど…」

 

 

 正面から抱きしめてよしよしとカルの頬や頭を撫でていると、カルも遠慮がちに抱き返してシエラの肩に顎を乗せた。うっとりと瞼を閉じるカルが普通の猫だったらゴロゴロと喉を鳴らしているだろう。

 

 

「…よかった、嫌われちゃったかと思った。」

 

 

「そんな…決してそんなことは…」

 

 

「なら、2人でいる時くらいもう少し気を緩めたら?」

 

 

「…姉上に何か言われたのですか?」

 

 

「うーん、言われたというか、この国のことをたくさん教えてもらったの。」

 

 

 例えば親しい間柄なら盛んにスキンシップを取る、というような何気ない文化を。シエラも、宮殿内で恋人か夫婦と思われる者たちが人目を気にせず抱き合ったりしていたのを目にして薄々気づいていた。自分達に欠けているものだ。

 

 シエラとしては、甘えるにしてもカルの方から求めてくれることを期待していた。自分からそれをすればまだ彼を愛玩動物として見ているような気がして、そしてペットでもなく異性として愛する人でもない彼に甘えるのはかなりの抵抗があったからだ。

 

 でもカルはずっと従者のままでいた。けれど、こうして抱かれたり撫でられたりするのは嫌ではないらしい。少し続ければしっかり抱擁してくるあたりむしろ望んでいるようにも見える。

 

 

「…せっかく大好きな人と一緒に暮らせてるんだから、もう少し謳歌したら?」

 

 

 シエラは慎重に言葉を選んだ。

 

 カルにはシエラと親密になりたいという気持ちがある。しかし、骨の髄まで染み込んだ”主人”に拒まれることへの恐怖がそれを抑え込んでいる。その大きなストレスとそもそもの扱いに対するストレスが重なってカルは荒んでいる。

 

 第二皇女とシエラはそう結論づけた。だから、いかなる事であっても、例え優しさによるものであってもカルを否定してはいけない。今のカルのなりふりを否定することは彼にとって人格を否定されることに等しく、特にシエラはそれをしてはいけない。

 

 

「私だってこんな良い毛並みを好きなだけ抱いて撫でられる権利があるんだし、遠慮したら損よね。…あ、嫌だったら言ってね。これでも常識は弁えてるから。」

 

 

 そう言ってシエラはカルの身体をもふもふと撫でた。第二皇女やアガタと違ってカルの毛は一本一本が長めで、それによる柔らかさは布団以上だ。

 

 カルはしばらくされるがまま撫でられて、不意にシエラの頬に手を添えた。しかし添えただけで手を下ろした。

 

 

「シエラ様…ごめんなさい…わかってはいるんです…わかっては……」

 

 

 カルは馬鹿ではない。急にシエラが積極的に構ってくれるようになった意味だって理解できる。

 

 自分がシエラと距離を保つせいで、シエラが冷たい目で見られてしまう。シエラだって辛い境遇にあるのだから、自分がなんとかしなければいけないのに。

 

 

「私は…卑しい獣です……私はシエラ様とこうしていられることが何より嬉しいんです……シエラ様は……」

 

 

 その先を続けることが出来ずに再びシエラの肩へ顔を預けた。

 

 シエラには他に愛を誓った人がいて、そして引き裂かれて傷心しているのに、自分は引き裂かれた結果彼女と暮らせるようになったことを喜んでいる。そう思ってしまうのだ。

 

 自分の愛する人を妻にしてくれないかと直接嘆願しにきたときのアルフレートは見るからに憔悴しきっていたのに。

 

 その罪悪感と拒まれることへの恐怖、周囲への不信で潰れてしまいそうだった。



「…なら私も同じよ。シルクちゃんからあなたを奪ってしまった。」

 

 

「それは…」

 

 

 カルも始めは保険のためかとも思ったが、見合いに逢引きなど順序を重ねた上で正式な結婚という形を取り、さらには子供の生活の保証までしてくれたことは素直に嬉しいと感じ、シルクとの将来図を膨らませていた。

 

 シルクとは友達として文通を続けており、彼女は一連の騒動について仕方ないとしているものの本心はわからない。

 

 もしあのままシルクと夫婦になっていたら…叶わぬ恋とも別れを告げて、きっと彼女と幸せになれただろう。

 

 

「…誰が悪いとかじゃない。強いて言うなら、あなたの人生を狂わせたのは私達。そうでしょ?」

 

 

 シエラはカルからそっと離れて、彼の目を真っ直ぐ見つめる。カルのビー玉のような青い瞳は迷子の幼子のように不安げだった。

 

 

「それなのに、ずっと私を気遣ってくれてる。ありがとう、カル。」

 

 

「私はただ…」

 

 

「恩返ししてるだけ?それとも私が好きなだけ?どちらにせよ、堅苦しいのはもう終わりにしましょう。訳ありだけど今は夫婦なのよ私達。それに、こんな風に抱き合える相手はあなただけよ。」

 

 

 アルフレートや両親を含めてもそれは事実。良い意味でも悪い意味でも獣人で年下で長い付き合いの彼とは気安く接することができる。だからそう簡単に嫌いになったりしないよと伝えたかった。

 

 カルは何かを言おうとして、言えないまま視線を下げてしまった。何か伝えたいことがあるなら怖がらないでほしいとシエラはカルの後頭部から首の付け根を撫でる。そこは撫でられると落ち着きやすい場所なのだと彼の姉が教えてくれたのだった。

 

 

「わかって…いるんです…」

 

 

 カルは何度か大袈裟に深呼吸をして、か細い声を絞り出した。

 

 

「僕と…来てくれて……ありがとう…シエラ……」

 

 

 油断すると聞き逃してしまいそうな大きさでそう言うと彼女の唇へやや強引に口を押し付ける。

 

 途端にカルの身体が震え始め、痛いほどシエラを抱き締めた。カルの頭の中で鎖が床に打ち付けられる音が響く。

 

 シエラは、彼は拒まれることが怖いだけではなかったことを悟った。下等種族である魔族が人族と対等に会話をすることは大変な無礼であると”教育”されていたことを。

 

 それで良いんだよ、という意味を込めてシエラは微笑みかけてもカルは笑わなかったが、力が抜けたようだった。

 

 

 しばらくして落ち着いたカルは、首輪を手首に着けてから寝巻きを羽織る。


 

「大丈夫?」

 

 

「はい…少し…疲れました……」

 

 

 話し方をどうすればよいか分からなくなって途切れ途切れに言うと、シエラがゆっくり慣れればいいよと言ってくれる。

 

 

「あの、毛づくろい、ありがとう。もしよかったら私も…」

 

 

 シエラの髪を梳かすことは使用人の時の仕事だったから、とここに来てからはやらせてもらえていなかった。

 

 

「うーん、でもこの後寝ちゃうから、明日の朝にお願いするわ。」

 

 

 カルは頷いて部屋の明かりを消す。大きめのベッドに二人で入るのはいつものこと。しかしカルは昨日までと違って、彼女と二人で眠るということに対して急に喜びのような感情が沸くのを感じた。

 

 

「…あの、もう少し撫でてもらっても良いですか。」

 

 

 横になったまま向かい合って、シエラはカルの頬を揉みしだく。その心地よさに瞼を閉じると睡魔が彼を襲って大きな欠伸をした。調子に乗って頬ずりしても彼女は優しく受け入れてくれる。

 

 何かが満たされたような気持ちになって、カルは気が付いた。今までシエラに撫でられていたのは彼女に気に入ってもらうため。彼女のお気に入りであり続けるため。寂しさが紛れたのは副作用のようなもので、本当は自分が彼女に気に入られていることを確認して安心していたのだ。今はただ愛されたかった。

 

 もう少しだけ、もう少しだけ甘えたい。こんなことをされても良い相手はもう彼女だけ。気が付いたら夢の中だった。

 

 

 その日以降、誰かに甘えることができるという味を占めたカルは自然と自分からシエラと距離を近づけるようになった。

 

 

「そう、なら確かヒト族に合わせた装飾品を専門に扱う店があったはず。」

 

 

「ありがとう母上。」

 

 

 店の名前と即席の大雑把な地図が書かれた紙、それからお金を受け取って、カルは宮殿の外へ。シエラが第二皇女とお茶会をしている間を見計らってのことだ。

 

 

「ちょっと待ちなさい。寝癖がついていますよ。そこに座って。」

 

 

「…はい。」

 

 

 アガタは息子の頭の毛を櫛で軽く梳かす。カルはほんのり花の匂いのようなものをかぎ取った。

 

 

「…香油ですか?」

 

 

「そうよ。あとでビンごと部屋に届けさせるから使いなさい。逆効果になるから一度に多く付けすぎないように。」

 

 

 会話は続かなかったものの母親の部屋を出るまでの短い時間は特別なもののように感じたカル。心の奥底には母に思いきり甘えるか、あるいは泣きたいという気持ちがあって、そしてそれは母も同じだろう。けれどもそんな歳は過ぎ去ってしまった。

 

 カルは独り首を横に振って護衛に囲まれながらいつもよりにぎやかな街へ出向いた。

 

 

「みんな街を飾り付けしているんですか?」 

 

 

「もうすぐ収穫祭なのです。今回は復興の祈りも兼ねているとか。」

 

 

 答えたのはカルの一番近くにいる牛獣人の護衛。かつての第三皇子の護衛であり、カルに護身訓練を施し、そして危うくカルを殺しかけた彼だ。

 

 無事家族の元に帰ることができた彼は一カ月の休養の後カルの元を訪れて首を垂れた。状況が状況であった上、背中に身分が刻まれた自分をずっと励まし続けてくれた彼に罰を与えるつもりなど微塵もなかったカルは彼を護衛に指名した。これでカルにとっても窮屈だった護衛の包囲が幾分かマシになる。

 

 店主に指輪を薦められて買いそうになったが思いとどまった。これでは彼女を傷つけてしまう。カルは細部まで凝って彫られている花冠のような腕輪を、金か銀かで悩んだ末に白金を選び購入した。

 

 木箱に入れてもらい、それをカバンにしまうと珍しくご機嫌で宮殿に戻る。

 

 

「カル、」

 

 

 部屋に戻ろうとするとユキヒョウの青年に呼び止められる。

 

 

「兄上、いかがなされましたか。」

 

 

「ちょっといいかな。」

 

 

 カルは怪訝に思いながらも部屋にカバンを置いて彼についていくことにした。

 

 

「あの…兄上、何を?」

 

 

 連れてこられたのは誰もいない謁見室。玉座には現国王の名前が、後ろの壁には肖像画が、左右の壁にはその子供たちの肖像画がある。当然カルのものは取り除かれている。

 

 

「見せたいものがある。」

 

 

 そう言って玉座の真横の扉の鍵を開ける。

 

 

「でもそこは…」

 

 

 その先の部屋はごく限られた場面を除いて皇族しか入れない。

 

 

「いいから。」

 

 

 皇族に関する資料庫の役割を果たすその部屋には新しい皇子皇女が誕生して系譜に加える際に要人を招き入れるための大きな机といくつかの椅子がある。第一皇子であり皇太子であるカルの兄は弟をその椅子に座らせた。

 

 

「…あった、これだ。」

 

 

 兄が持ってきた厚い羊皮紙の巻物は今代の王の系譜。

 

 

「お前は結婚で皇族を離れたわけじゃない。追放するときは加える時と同じように皇族と大臣を集めて、そして名前を焼き潰す。…あのときの何とも言えない気持ちをよく覚えてるよ。」

 

 

 兄の言う通り広げられたそれは一部分が黒く焼け焦げていた。

 

 第一皇子 アンバル=レオパンド・ベスティア

 第二皇女 コロニラ=クティ・ベスティア

 

 第三■子 アシーク=ラクイアン■■■■■■

 …

 

 

「父上はお前の名前を消せなかった。誰も文句は言わなかったが。お前の肖像画も父上の書斎にある。」

 

 

 アンバルはそれ以上を語ることはなく、巻物を元の場所にしまってカルと一緒に部屋を出た。皇太子が一緒だと廊下ですれ違う者全員が道を開けて一礼する。

 

 

「帰ってから一度も会ってないそうじゃないか。」

 

 

「…お忙しいでしょうから。」

 

 

「確かにそうだな。我が国の完全勝利とはいえあのファール国相手じゃなぁ。種族の違いでこっちのことはけだもの扱い、おまけに腹の底で何考えてるか分からない連中だ。…シエラ王女は例外だよ。コロニラは彼女をずいぶん気に入ってる。私も少し話をした。ファールの大臣たちがみんな彼女みたいな人だったらもう少し楽に…いや、それならそもそも戦争も迫害も起きないか。」

 

 

 アンバルは横目で弟を見る。不機嫌になったようには見えなかった。

 

 

「…ん、兄上、私をどこに…?」

 

 

 カルは自分の部屋とは違う方向に連れていかれていることに気が付く。そのまま廊下の角を曲がったとき、大柄なユキヒョウの獣人と鉢合わせした。

 

 

「おぅ…さがしたぞ。ところでアンバル、なぜおまえが一緒に?」

 

 

「いやぁ、ちょっと野暮用で…」

 

 

「…まぁいい。少し話がある。」

 

 

 戸惑うカルの背をアンバルが押して、流れのままカルは父親の後を黙ってついていくことになった。

 

 

 

 続く

 

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