公爵令嬢は結婚前日に親友を捨てた男を許せない
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こちらのお話の後日談にあたるものです。
「これは、一体……」
エルヴィーラ・バリエンフォルムはその美しい顔を歪ませて呟いた。
一見冷たい印象を与えるほどの整った容姿を持つ、シェーナ国の公爵令嬢であり次期王太子妃である彼女はメイドのアンナと護衛を数人――もちろん隠密のものも更に十数人――連れて、隣国の親友であるフェリシアナ・アルフォンスの家を訪ねていた。
今日は彼女の結婚式である。古くからの友人であるフェリシアナは、もう何年もお付き合いを続けているという恋人との結婚の日をとても楽しみにしていた。
最後に会ったのは半年以上前だが、そのときも彼女は嬉しそうに笑いながら、家の奥の空き部屋に置かれたウェディングドレスを見せてくれた。
『彼ったら気が早くて。ホコリを被ってしまわないように保存するのが大変なの』
ミルクティー色のふわりとした巻毛が素敵なフェリシアナは、アルフォンス家の一人娘で。両親ともにとても穏やかで優しく、ウェディングドレスを前に目に見えてはしゃぐフェリシアナをそれを微笑ましげに見つめていた。
『いろんなひとに見せびらかしてるんですよ、この子ったら』
『お母様!』
『はは、なぁに。幸せのおすそ分けってもんさ』
あんなに幸せだった空気。それがどうして今、こんなことに。
エルヴィーラがフェリシアナの家を訪れたとき、彼女の両親は憔悴しきった顔でいた。メイドたちも不安に瞳を揺らしており、なにか起こっていることは明らかだった。
「アルフォンス伯爵、何かあったのですか?」
「バリエンフォルム嬢……それが昨日の夜から、フェリシアナがウェディングドレスの置かれた部屋から出てこないのです。私どもが声をかけても反応がなく、内側から鍵をかけているようで……」
「朝になったら出てくるかと思っていたのですけれど……今になっても何の反応もないんです。せっかく来ていただきましたのに、このようなお迎えになってしまいまして……あの、よろしければフェリシアナに声をかけてみていただいてもよろしいでしょうか? 親しい方の声なら、もしかしたら……」
エルヴィーラは躊躇なく「もちろんですわ」と頷いた。伯爵夫妻に案内されるまま部屋の奥へ向かうと、そこには何人ものメイドたちが扉を叩き声をかけていた。
「お嬢様、フェリシアナお嬢様。早く出て来られないと、式に間に合わなくなってしまいますよ」
「お嬢様、お食事の準備もございます。どうぞ扉を開けてください」
エルヴィーラは深く息を吐き出して、アンナに視線を向けた。アンナは頭を下げて、護衛騎士の一人に向き直る。そうして扉のそばまで近づくと、メイドたちと同じように声をかけた。
「フェリシアナ。私よ、エルヴィーラよ。どうかしたの?」
返事はない。予想していた通りだと、エルヴィーラは後ろを振り返りアンナが連れてきた護衛の姿を見やった。
半日も部屋から出て来ないのは、どう考えても異常事態だ。
けれどきっとこの穏やかな家に住むものたちは、考えなかったのだろう。開かない扉を無理やり開けてしまおうとは、思わなかったのだ。
「伯爵、お許しを」
そう告げたエルヴィーラが合図を出すと、ぽかんとした伯爵の横を護衛騎士の一人が通り過ぎ、武器として所持していたアックスを振り上げた。メイドたちは慌てて扉から離れ、伯爵夫妻も抱き合って身を縮こまらせる。
バキッ、と木製の扉は呆気なく破れ、土埃が舞う。エルヴィーラは自身が汚れるのも気にせずに足を踏み出し、はっと息を飲んだ。
破れた扉の向こうに見えたウェディングドレスは――あちこちが切り裂かれていた。そしてそのドレスの裾を大事そうに抱えて、フェリシアナが座り込んでいる。
「フェリシアナ!」
伯爵夫妻が飛び出して、フェリシアナに走り寄る。メイドの一人が余りの光景に声をあげようとして、エルヴィーラが慌ててそのメイドの口を塞いだ。
「声を上げてはだめ、他のものたちも静かになさい! アンナ、医者を。できるだけ静かに」
「かしこまりました」
アンナは頭を下げ、すぐに部屋を出て行く。伯爵夫人は顔を青くして、フェリシアナの身体を揺さぶった。
「フェリシアナ、シア、どうしたの、何があったの!?」
フェリシアナの頬にはいくつも涙の痕があった。目は腫れて、唇は乾いてひび割れている。半年前に見た幸せそうな色はそこにはなく、虚ろに開いた目に見えるのは絶望だった。
「シア、お父さんだよ。わかるかい? 一体どうしてしまったんだ? 今日はずっと楽しみにしていた結婚式じゃないか」
ぴく、と、フェリシアナの身体が小さく震える。酷くぎこちない動きで顔が動き、両親の顔を見上げた。
「……お、とう、さま……おかあさま……」
「えぇシア、そうよ。大丈夫、ここにいるわ」
伯爵夫妻は、娘を安心させようと必死だった。何か起こったことは明白であるが、フェリシアナの状態は普通ではない。今はただ娘の心の平穏が何よりだと察していた。
こんなにも愛されている彼女に、一体何が。
エルヴィーラはフェリシアナの視線までしゃがみ込み、その顔を覗き込んだ。
「フェリシアナ」
「……! える、エルヴィーラ……」
ようやく親友の姿を捉えたフェリシアナの瞳は、大きく揺れた。ひくっ、としゃくり上げる音がして、それからフェリシアナははくはくと唇を動かした。
「、あ、……愛する人が、出来た、と……だから私とは結婚が出来ないと……」
「――え?」
「エド様が……そう仰って……!」
夫妻が驚愕に目を見開く。エルヴィーラも微かに瞳を揺らした。
エド様、というのは本日フェリシアナと結婚する男の名だ。エドガルド・グラシア。この街の公爵令息である。フェリシアナとは想いあった上での結婚であると聞いており、実際並んでいる二人はとても幸せそうだったと記憶している。
「エドガルド……? まさかそんな……」
信じられない、といったような様子で、伯爵は呟いた。フェリシアナは何度も首を振って、それから手にしていたドレスの裾を勢いよく引き裂いた。
「シア!」
「楽しみにしていたの……あのひとと結婚する日を……ずっと……」
ぼろぼろと涙を零しながら、絶望に歪んだ顔でフェリシアナが言う。
「わたしを、もう愛していないと……もう二度と会うことはないって……っドレスも、愛する人に渡すから返せ、だなんて……」
ドレス――もうそう表現するのも憚れるほど無残に破かれた白い布を握りしめる手が、真っ白になって震えていた。は、は、と浅い呼吸を繰り返しながら何度もしゃくりあげ、身体を震わせてフェリシアナは笑った。
「もう……こうなったら返せないでしょう……? だからね、自分で、破いたの……わたしの心みたく、たくさんたくさん、傷をつけて……」
刹那、フェリシアナから表情が消えた。身体に入っていた力が抜けて、母親の身体にもたれ掛かる。
「シア……シア?! しっかりして、シア!」
「夫人、落ち着いて。気を失っているだけのようです。伯爵、フェリシアナを寝室へ。メイドたちにも指示を出していただけますか?」
「は、すぐに。さぁフェリシアナをこちらへ。身体がすっかり冷えてしまっているから温かなベッドに運んでやろう。お前達、すぐに白湯を用意してくれ」
伯爵は夫人からフェリシアナを受け取ると、しっかりと抱きかかえて寝室へと移動した。そうしている間にアンナが医者を連れてきて、気を失ったままでいるフェリシアナの診察を始める。年若い医師で、最近この街に来たのだという彼はてきぱきとした動きですぐに診察を終えた。
「少し体温が低いですが、脈拍などに異常はありません。呼吸も安定しておりますから、命に別状はないでしょう。体温が低いためか血色も悪くなっていますが……目が覚めたらなにか温かいものを召し上がってください」
伯爵夫妻、そしてメイドたちは揃って安堵の息をついた。けれど事態は何も変わっていない。
また何かあればすぐに呼んでください、と年若い医師が帰って行くと、伯爵が深く息を吐き出して両手で顔を覆った。
「結婚式の日にこんなことになるなんて……今日はこの子の、一番幸福な日になるはずだったのに……」
「エルヴィーラ様にも、なんとお詫びを申し上げたらいいのか……」
「いいえ、それより。フェリシアナが言っていた言葉が気になるのですが……エドガルド様とのことは、一体」
夫人がハンカチを握りしめ、戸惑いの表情を浮かべる。
「それが、一週間ほど前までは毎日のように挨拶に来てくれていたのです。急に来なくなったのは不安にも思いましたが、結婚式に向けて準備をしているものと……まさか前日にそんな、そんな酷いことを……」
「一週間……」
ぴくりとエルヴィーラの眉が動く。アンナに視線を向けるとやはりアンナは一礼し、すぐに部屋から出て行った。
「一週間前までは本当に、何もなかったのでしょうか。態度が変わったり、よそよそしくなったりと言ったことは」
「私どもが見た限りでは、そんなそぶりは全く。フェリシアナとエドガルドの仲の良さは知られておりますので、少しでも変わったことがあればすぐに私どもの耳に入るはずです」
婚約者の突然の変わり身。
エルヴィーラには思い当たる事件があった。
「……お聞きしたいのですが、フェリシアナとエドガルド様の思い出の品などはございますか? なんでも構いません」
顔を見合わせる伯爵夫妻の後ろで、メイドの一人が遠慮がちに手を上げた。
「あの、それでしたらお嬢様の日記帳ではないでしょうか。グラシア公爵子息様から贈られたもので、お嬢様はあの方にお会いすると必ず日記をつけておりました」
それはフェリシアナの話の中でもよく出てきたものだった。大切な思い出を書き溜めて、あとで見返すのだと嬉しそうに話していた。
エルヴィーラは唇をきゅっと噛み締めて、伯爵夫妻へ向き直る。
「よろしければその日記帳、私に預けていただけますか? ……エドガルド様の状況に、思い当たることがございます」
「状況、ということは……やはりエドガルドに何かあったのですか?」
「私の想像の通りであれば……それを確認するために、日記帳をお借りしたいのです。ですが、正直に申し上げまして……もし私の想像の通りだとしたら、復縁をすすめることは出来ません」
夫人は小さく首を振った。
「大事な娘を、こんなふうに苦しめた相手です。たとえ同情的な理由があったとしても、私は彼を許すことができないでしょう」
刻まれたウエディングドレスの前に、絶望の表情で座り込んでいた娘。その光景は伯爵夫妻の心にもまた、大きな傷を残していた。
メイドの一人が、フェリシアナの日記帳をエルヴィーラに差し出す。使用感のあるその日記帳はいくつも小さな傷がついていたものの、見るだけで大切にされていたことがわかった。
(フェリシアナ、あなたのプライベートを見てしまうこと、許してちょうだい。……でも、許せない気持ちは私も同じなの)
幸せそうに微笑んでいた、大切な親友。
お茶会やパーティで何度も会ううちに親しくなった、数少ない令嬢の一人。
エルヴィーラは外見の印象ゆえに、気安く声をかける令嬢は少ない。そんな中フェリシアナは、気後れせずに声をかけてくれたのだ。
『今だから言うけど、最初に出会ったときはあまりに綺麗ですごく緊張してたの。ううん、怖いとかじゃなくて、憧れっていうのかな、すごくドキドキしてた。でもあのとき声をかけて良かった。エルヴィーラとこんなに親しくなれて、とても幸せ』
淑女の鑑、王太子妃として完璧な令嬢。常に気を張っているような、そんな生活。
そこで出来た友は、エルヴィーラにとって何よりも大切な存在だった。滅多に会えない隣国の人であっても。
(あなたの心を救うことは出来ないかもしれない。だけれど、もし私の考えが正しいものだとしたら……あなたの心を壊した男には必ず罪を償ってもらうわ)
そう。
自国で起きたあの事件と、同じように。
*****
エドガルド・グラシアは街のはずれのバーで酒を飲んでいた。隣には黒髪の、幾分かメイクが派手めの女性がぴったりと寄り添っている。
「やっぱりここの店にして正解ね。あなたの知り合いや顔見知りがいないもの」
うふふ、と笑う女性の胸元には、濃い桃色の宝石が飾られていた。エドガルドはその宝石をぼんやりと見つめて、あぁ、と呟く。
「でもせっかくだから、あの女が恥をかくところが見たかったわ。結婚式に新郎が来ないなんて……私だったら一生外を歩けないわ」
女性はエドガルドと更に身体を密着させて、嬉しそうに笑う。エドガルドの顔も、ぼんやりとであるが笑っていた。
「これで私も公爵夫人ね。ソレーネ・グラシア公爵夫人……ふふ、最高」
カランカラン、とバーの扉につけられた鐘が鳴り、客が来たことを知らせる。老いた店主は「いらっしゃい」と小さな声で呟いた。ソレーネはちらりと扉の方に視線を向けて、はっとする。そこにいたのは、恐ろしいほど美しい顔立ちの女性だった。思わずドッと冷や汗が滲むが、知らない相手だと顔を背ける。カツカツとヒールの音が極近くまで聞こえて、ソレーネはまた顔を上げた。
「エドガルド・グラシア。私を覚えているかしら」
エドガルドの視線が、美しい女性――エルヴィーラを捉える。
「エルヴィーラ嬢?」
「覚えていただいて光栄だわ。それじゃあ、私が今日何のためにこの街に足を運んだのかは……もちろん、おわかりですわね?」
「それは……」
ぎくりと身体が強張って、視線が泳ぐ。ソレーネが眉を釣り上げ、エドガルドの腕を引っ張った。
「ちょっと、あなた誰なの! エドガルドは私の恋人よ!」
エルヴィーラがちらりとソレーネを一瞥する。胸元にある宝石を一瞥して、眉間にシワが寄った。
「おかしいわね。私はフェリシアナとエドガルドの結婚式に参列しに来たのだけど。あなたこそ、どちら様かしら」
「ラコルデーヌ男爵家のソレーヌよ。エドガルドと結婚するのは私よ」
「エドガルドはフェリシアナを愛していたわ。それが突然、どういうことなの?」
「その愛は本物じゃなかったということよ。本気で愛しているのは私だけ、公爵夫人に相応しいのは私だけと言ってくれたわ。――ベッドの、中で」
エルヴィーラの表情から感情の一切が消える。その冷えた眼差しに、ソレーヌはぞっと背筋が寒くなるのを感じた。
エドガルドは黙ったまま、視線をうろうろ動かしている。戸惑っているような、不安げな表情であった。エルヴィーラは日記帳を手に、エドガルドを睨む。
「愛がない相手と、何年もお付き合いを? 何のために? あなたになんの得があって、あの子と付き合っていたのかしら」
「そ、それは……僕にもよく……僕はソレーネが……」
「――『今日はとても暖かな日だった。エド様が庭で育てたというお花をブーケにして私にくれた。なんて素敵な花! 枯れる前にいくつかドライフラワーにして、ずっと大事にしよう』」
エルヴィーラが日記の一文を読むと、エドガルドの瞳がわかりやすく揺らいだ。
「『エド様がウェディングドレスを持ってきてくれた。とても素敵なドレスとヴェール。お父様とお母様、メイドたちにも見せびらかしてしまった。ちょっとはしたなかったかしら』」
「ちょ、ちょっと、一体何……」
エルヴィーラが手を上げると、護衛騎士がソレーヌをエドガルドから引き離し拘束した。老いた店主と数少ない客たちは、何事かと遠巻きに見ている。
エルヴィーラが遊びにきた。だからまたドレスを自慢しちゃった。だって本当に嬉しくて仕方がないんだもの。
結婚式を挙げる教会を、エド様と一緒に決めた。優しそうな神父様がいて、私たちをお似合いの夫婦と言ってくれた。結婚はこれからなのに、と、エド様は照れながら、でも嬉しそうに笑っていた。
出会ってからもう何年経ったのかしら。エド様への想いはずっと、変わることがない。これからもきっと、変わらない。結婚して子どもが出来ても、私の一番はずっとエド様。もちろん子どももとても愛しい、かわいい存在よ。だから一番と言っても、ほんの僅差になると思うけれど。こんなことを言ったら怒られるかしら?いいえ、きっとエド様は笑ってくれる。
公爵家へ嫁入りということは、今よりもずっとやらなければならないことが増えるということ。だからお父様にお願いして、家庭教師を雇っていただいた。もっと勉強して、エド様のお役にたてるようにならないと。
エド様、結婚したらあなたが大好きなポテトのキッシュをたくさん作ってさしあげます。
エド様。
エド様。
お慕いしております。
フェリシアナの、エドガルドへの想いが詰まった日記。エルヴィーラはその文章を淡々と読み上げていった。
次第にエドガルドの表情から血の気が引き、ガタガタと足が震える。冷や汗を滲ませて、頭を抱えた。
「ぼ、僕は、なぜ、」
「エドガルド、あなたの恋人は私! 私だけを想っていればいいのよ! フェリシアナのことなんか早く忘れなさい!」
護衛騎士たちに取り押さえられながらも、ソレーヌは足掻いていた。
「アンナ」
「はい、お嬢様」
アンナが静かにソレーヌに近づいて、ばちんっ、とソレーヌの頬を叩く。一瞬バーが静寂に包まれ、エルヴィーラがこほん、と咳払いをする。
「違うわ、アンナ」
「申し訳ございません、つい」
何がつい、なのか。アンナは改めてソレーヌに向き直ると、その胸元から怪しく輝く宝石を奪った。それはすぐに小さな小箱に入れられ、しっかりと密閉される。
今度はソレーヌの顔から血の気が引いた。
「ど、泥棒! 返しなさいよ、この……」
「シェーナ国次期王太子妃、エルヴィーラ・バリエンフォルム公爵令嬢です」
アンナが一歩後ろへ引き、改めてエルヴィーラの正体を明かす。ソレーヌの喉奥からひゅっ、と音が聞こえた。
「……エドガルド様。正気に戻られましたか」
「あ、あぁ……ぼ、僕は、なぜ……なぜこんな、愚かなことを……!?」
「あなたはその方に魅了の魔法をかけられていたのです。その宝石によって」
魅了魔法は、現在各国で使用が禁止されているものである。その威力が強ければ強いほど、国をも傾ける力になりかねないからだ。だが世の中には「禁止されているもの」を高額で取引するものたちが一定数いる。ソレーヌが持っていたものはまさにそれで、所持しているだけで投獄は免れないものであった。
「魅了魔法というものは本当に恐ろしいもので、じっくり時間をかけて用いれば心からその人を愛するようになるでしょう。一年、あるいはそれ以上。人の心は簡単に変えられるものではありませんから。だけれど無理やり、短期間で心を奪おうとすると副作用が出る。暗示が中途半端な状態となり、容易くその心は正気に戻る」
だから「思い出」が必要だった。魅了魔法の効力を打ち負かすほどの美しい「思い出」が。
「エドガルド様の様子を聞いて、すぐに魅了魔法が思い当たりました。極最近、似たような方々を見たものですから。それまで仲の良かった方が突然そっけなくなったり、少しずつ離れていったりと、様々でしたが……どれもその暗示は、中途半端なものでしたわ」
エルヴィーラの眼差しがゆっくりとソレーヌに向く。ソレーヌは青ざめ、カタカタと震えていた。
「禁忌を犯してまで、公爵夫人という位置が欲しかった? 努力もせずに、人のものを奪うのは楽しかったかしら。私が現れなければあなたの思う通りに進んだでしょうが、残念ですわね。私、フェリシアナの友人なの。もうずっと仲良くしているわ」
ガチガチと奥歯がぶつかる音がする。公爵夫人の座を狙うような――他人からそれを奪うような性根の令嬢が、本物の王太子妃を前に何が出来るというのか。
ただ公爵夫人になりたかっただけで。見目のいいエドガルドを得ようとしただけで。
あんな地味な伯爵令嬢よりも、爵位は下だが実力は自分のほうが上だと思って……。
だが現実はどうだ。自分より下だと思っていた相手には、王太子妃という地位の友人がいた。結婚式に呼ぶほど、親しい関係の。
「アンナ、この国の警備隊へ連絡を。彼女の身を引き渡してちょうだい。それからその宝石は然るべき機関に提出するように」
「かしこまりました」
エルヴィーラは再びエドガルドに視線を向け、憐れむような、けれど怒りをも孕んだ瞳を向けて言った。
「同情はいたしませんわ、エドガルド様。魅了の魔法は……あなたにその気がなければ決してかかることのないものですから」
魅了魔法は、ひとの心を惑わすもの。発動条件は、魅了魔法を用いた相手に対して「欲」を抱くこと。そして欲のままに行動を起こせば、その心は簡単に囚われる。
「結婚を前に、一夜限り……とでも思ったのでしょうか。それともそう誘われたのか……どちらでも構いません。あなたがフェリシアナを裏切ったのは事実です」
エドガルドは蒼白の表情で、立ち尽くしていた。
頭に浮かぶのは、フェリシアナとの穏やかで優しい日々。いつも幸せそうに自分を迎えてくれたフェリシアナの姿に、エドガルドの胸は千切れんばかりに痛んだ。だが誰も、彼に同情することはしないだろう。
フェリシアナが負った傷は、それよりももっと深く、重いのだ。
*****
「まぁ、そんなことがありましたの」
シェーナ国、バリエンフォルム邸。エルヴィーラは義理の妹であるフェリシア・アディエルソンを呼んで小さなお茶会を開いていた。
「バーバラ・リンデル元男爵令嬢の件があったでしょう? 少し気になって、アンナに頼んで調べて貰ったの。そうしたら案の定、バーバラは魅了魔法の宝石を持っていてね。うまく隠していたみたいだけど、アンナが見つけてくれたわ」
「言われてみればあのときバーバラを庇っていた方々、言っていることが正気ではなかったですものね。幼稚というか、お粗末と言うか……」
「魅了魔法の効果のひとつよ。バーバラに夢中になって、冷静さを失くして……バーバラが望めば言わなくていいことも言うし、冤罪だって平気で被せる。だから禁忌とされているのだけど……」
「この頻度、どこかで流通しているとしか思えませんわ」
しかも平民や男爵令嬢といった、より高貴な存在を目指すような人を選んで。エルヴィーラは紅茶を一口飲んで、短く息をついた。
この報告はすでに国王陛下に上がっており、バーバラは退学処分だけでは留まらなかった。宝石はもちろん取り上げられ、その後どこよりも厳しい環境下にあるという北の修道院へ送られた。
「お義姉様、フェリシアナ様はどうなりましたの? お名前がとても似ているから、気になりますわ」
フェリシアの言葉に、エルヴィーラはふふ、と笑う。エルヴィーラがフェリシアナに特に親しみを持っていたのは恐らく、その名前が影響している。自分を誰よりも慕ってくれる可愛い義妹。彼女が恋を知ればフェリシアナのようになるかもしれない、と密かに思っていた。
「……あれから、一月。自分の行ってしまったことを悔いてか、エドガルド様はフェリシアナに会いに行けなかった。それから意を決して、ようやく謝りに行く勇気が出たのね、フェリシアナのところを訪れたわ」
◇◇◇
当然、フェリシアナの両親は良い顔をしなかった。いつも笑顔でエドガルドを迎えてくれた伯爵夫妻は、今は娘を傷つけた最低な男であると明確な敵意を持っている。だがそれでもやはり、伯爵夫妻は心根が優しかった。エドガルドが土下座をしてどうか謝らせてくれと懇願すると、それほど言うなら、と娘に会うことを許した。
だがそこで、エドガルドが見たものは。
「お母様、お父様。この方は?」
不思議そうな表情で、フェリシアナは尋ねた。彼女の言葉に、エドガルドの息が詰まる。
「し、シア、僕だ、エドガルドだ」
「――エドガルド様? どこかでお会いしたことがありましたか?」
冗談を言っているふうではなかった。そもそも彼女はこういった冗談を言うようなひとではない。それに何より、エドガルドを見る目が違っていた。エドガルドの知るフェリシアナは、愛情の籠もった眼差しを向けていた。愛している、という気持ちを少しも隠しもしない、照れくさくて、けれどとても幸福な眼差し。
その眼差しが、今のフェリシアナにはなかった。
「シア、お客さんかい?」
部屋の奥から、エドガルドの知らない男が現れた。なぜフェリシアナの部屋から現れたのかーー考えたくない現実が、エドガルドの目の前にある。
男はフェリシアナに寄り添うと、そっと肩を抱いた。フェリシアナが嬉しそうに表情を緩ませ、男の顔を見上げる。
「シアにはまだ療養が必要なんだから、無理をしてはだめだよ」
「えぇ、でも最近はとても調子がいいのよ。きっとあなたがいてくれるお陰ね」
自分がいるはずだった場所に、見も知らぬ男がいる。そいつは誰だ、という声は音にはならず、ただ喉奥からか細い息を漏らすだけだった。呆然とするエドガルドの後ろで、伯爵夫人が言う。
「その方はシアの婚約者よ。シアの体調が良くなったら式を挙げる予定なの」
「こ、んやく、しゃ……」
「キミ、シアを部屋に。あとでメイドに二人分の温かい紅茶を運ばせよう。客人の相手は私たちに任せ給え」
「はい、伯爵」
「はは、義父と呼んでくれて構わないと言っているだろう」
エドガルドは、自分の周りで何が起きているのか理解できていなかった。正しくは、頭が理解することを拒絶していた。
フェリシアナが部屋に入っていったのを見ると、伯爵は神妙な面持ちになって語った。
「キミに捨てられたシアは、心を壊してしまった。かろうじて私たちを親だと理解しているだけで、その他のことはすべて忘れてしまっている。そのシアを救ってくれたのがあの医師だ。まだ年は若いがとても誠実で、シアの病状を知ると熱心にシアのもとへ通って心のケアをしてくれた。そうしている間にシアも、彼に心を開くようになった。彼はシアの本質を知り、患者ではなくシア個人を想うようになった」
「謝罪も慰謝料もいりません。ただ、シアには今後会わないでください。あの子にはあなたを、……あのときのことをすべて忘れたままで居てほしいのです。ウェディングドレスは心を壊したシアが切り裂いてしまったのでお返しすることはできませんが、必要なら経費をお支払いいたします。それでもう、私どもとは縁を切ってください。あなたはどうか、シアとは別の幸せを見つけてください」
頷くしかなかった。そんなことを言わないでと縋ることなど許されなかった。
たった一夜。たった一度。結婚前に少しだけ。
そんな些細な想いが、これから訪れるはずだった幸せをすべて壊してしまった。フェリシアナの心とともに。
フェリシアナの母は幸せをと言った。だけれどそれは本心ではないだろう。エドガルドにとって、フェリシアナと過ごした時間以上の幸せはない。
今までも、これからも。彼は一夜の過ちを一生後悔して、生きていくのだ。
◇◇◇
「心を……本当にフェリシアナ様にとっては、辛い事件だったのですね……」
まるで我が身に起きたことのように、フェリシアが瞳を揺らして呟く。そんなフェリシアの髪を撫でて、エルヴィーラは穏やかに笑った。
「以前の彼女は本当に幸せそうだったもの。エドガルド様のことを忘れたのは、これ以上傷つかないため。私のことまで忘れてしまったのは寂しいけれど、私たちはまだ最初から友情を育めばいいのだから」
そうですわね、と小さく鼻をすすって、新しく用意された温かい紅茶を飲み下す。ほぅ、と息をつき、フェリシアは呟いた。
「それにしても、魅了魔法は本当に恐ろしいですわね。発動条件といい、明らかに陥れるための魔法のようですわ。かけた側だけでなく、かかった側も責任があるのですもの」
「長い間禁忌とされているのは、それが理由ね。婚約者や恋人がいるのなら尚のこと。魅了魔法の前では真に想う気持ちが試される」
「……ということは、あのとき唯一魅了魔法にかかっていなかったお兄様は本気で心底、お義姉様を愛していらっしゃるのね!」
きらきらっ! と瞳を輝かせて、フェリシアが言う。その様子にエルヴィーラは一瞬きょとんとして、それからすぐに頬を染めて笑った。
フェリシアの兄、つまりエルヴィーラの結婚相手であるクリストフェル・アディエルソンはエルヴィーラにべた惚れである。かつての婚約破棄騒動のとき、彼だけがバーバラの魅了魔法にかかっていなかった。
他のものたちは一瞬でも彼女へ欲を抱いたのだろう。だからバーバラの望むまま、あの手この手を使ってクリストフェルを操ろうとしていた。
「もしあのとき、殿下が魅了魔法にかかっていたら」
「いたら?」
「私はとっくに、この国から去っていたでしょうね」
ヒエッ、とフェリシアの口から引きつった声が漏れた。拳をぎゅっと握りしめ、険しい表情を浮かべる。
「お兄様にはくれぐれも間違いのないよう、わたくしめがしっかりばっちり、躾けておきますわ……」
本気か冗談か――恐らく九割本気であろう様子のフェリシアに、エルヴィーラがまたくすりと笑う。
「それじゃあ、次はフェリーの番ね。私がいない間、辺境伯のご子息と仲良くなったそうじゃない」
ぼんっ、と、フェリシアの顔が一気に赤くなった。手をわたわたと動かして、首を振ったり目を泳がせたりと忙しない。
「そそそそそんな、仲良くなったとか、ちょっとランチとかご一緒するだけでその、わたくし別にマックスとは、」
「あら、もう愛称で呼び合う仲なのね。良いことだわ」
「お、お義姉様っ! からかわないでください!」
満更でもなさそうな義妹の様子は、エルヴィーラに心の安らぎを与えた。
壊れてしまった親友の姿は、エルヴィーラにとっても衝撃だった。穏やかで優しくて、ふわふわとした雰囲気の彼女が。あんなふうに絶望に囚われて、記憶を失うほど傷ついてしまうなんて。
親しい人が傷つく姿は見たくない。いつだって幸せでいてほしい。
心穏やかに笑って、愛しいひとと共にあって。
強要した、された愛ではなく。
心から想う大切な人と、いつまでも。
万能メイドアンナのお話もいずれ。
【伯爵令嬢は結婚前日に態度を変えた恋人を正気に戻すべく愛の拳をふるう】
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ifのお話を更新しました。エドガルドが一線を越えなかった場合の、明るい内容です。