約束
それからしばらく静かな時間が流れた。
もうすぐ夜が明けようとしていた。
アリシアがおもむろに立ち上がった。 そして、キホクを見下ろした。 キズの残る顔半分は、髪の毛で隠されていた。
「…一緒に来て欲しいところがあるの。」
「キズは…いいのか?」
キホクの心配そうな顔に少し無愛想に答えた。
「大丈夫よ。」
大人しく彼女の後を歩くキホク。
やがて町を抜け、小高い丘へと登って行った。 その足取りは、やはりキズが痛むのか多少びっこを引いていた。
キホクは、彼女がどこへ行こうとしているのか見当も付かず、また、声を掛ける事も出来ず、ただ黙って彼女の後を付いていった。
30分程歩いただろうか…
2人は雑木林を抜け、少し開けた場所に出た。
辺りはすっかり白んできて、やがて訪れる日の出を待っているような静けさに包まれていた。
「見て。」
アリシアが指した方を見ると、遥か彼方にポツンと塔のような影が見えた。
「あれは?」
「マタイ国の城よ。」
「あんなに小さく…」
手をかざすと、小指の爪ほどの大きさ。 かなり遠くまで来たようだ。 あれからどれ位の月日が経っているのか…マタイも修復が進んでいるようだった。
「あの城の向こうに、スナ国がある…母やフリージア、父…そして、ランスやあなた達が居ると、ずっと想っていた。帰らないつもりだったけれど、何回ここに来てあの城を眺めていたか知れないわ。 あんなに憎いと思っていたあの城を…見ていたのよ。」
「皆元気だよ。 君のおかげで、皆笑顔を失くさずに済んだ。ただ…」
「?」
アリシアはキホクを見た。
「王妃は、あれ以来ますますお体を悪くされていて、起き上がることも難しくなっているようなんだ。」
「母さまが…」
アリシアの表情が曇った。
「アリシア。 君にしか出来ない事が、まだあるんだよ。 スナ国に帰ってやってくれ。」
「キホク…」
アリシアの心の中に、家族や仲間たちの姿が思い起こされた。そして、今まで起きた事も…。
しばらくマタイの城を見つめ、アリシアはやっと決心した。
「分かった。 スナ国へ帰ります。」
「ありがとう。」
キホクは心からホッとした。 これでスナ国も安泰だ。 その時アリシアは、再会して初めて微笑みを見せた。
「いいえ、キホク、あなたのおかげ。 あなたに会わなかったら、私はずっとここで夜の住人になっていたわ。」
「だいぶ場数も踏んで、実力も付いたんじゃないか?」
「さぁ。」
アリシアは自分の足の傷を指し、そして2人は笑いあった。
落ち着くと、キホクは言った。
「帰り道は分かるだろ?」
「え? キホクも一緒じゃないの?」
アリシアは、てっきり自分を連れ戻す為に探しに来たものだと思っていたので、驚いていた。
キホクは遠くマタイを見て、静かに言った。
「あぁ、そのつもりだったけど、気持ちが変わった。」
「どういうこと?」
「もう少し、旅を続ける事にするよ。」
アリシアは、キホクの今までにない真面目な顔に戸惑った。
「何故?」
「俺は以前、アリシアの事を必ず守るとそう言った。 でも結局、アリシアにこんな怪我まで負わせて…失格だ。 言う資格なんてない。」
「そんな事…」
言いながら、アリシアは髪で顔半分を隠していた。 実際、生き永らえながらも逃れるように外国へと出て行った事は事実だった。 決して周りの者に恨みを持っていたわけではないが、結果的に、キホクにそう思わせてしまうのは当たり前だった。
キホクは続けた。
「だから俺は、強くならなきゃいけない。 精神的にも、体力的にも、君を守れるように。」
アリシアは黙ってキホクを見つめた。
涼しい風が2人を包んでいた。
「約束、してくれないか?」
「約束?」
「1年後…俺は必ずここに戻ってくる。 その時、アリシア…君に待っていて欲しいんだ。」
「1年後…ここに?」
「もしその時、俺の事を少しでも信じていてくれていたなら…で、良いんだ。」
キホクはジッとマタイを見つめていた。
「俺はまだ、あの向こうに帰れる身分じゃない。」
次にキホクがアリシアの方を向いた時、既に彼女の姿はなかった。
音も立てず、言葉も掛けず、彼女は姿を消した。
それが何を意味していたのか、キホクには分からなかった。
ただ、今この瞬間から、自分探しの旅が始まると感じた。
キホクはもう一度、マタイ城を見つめた。
太陽が遥か彼方にそびえる城をキラキラと輝かせていた。